寧夏鎮までの経歴
- 賀虎臣は保定の人。天啓の初め、天津の海防遊擊、登萊參將を歴任し、兗州に移った。六年(1626年)、延綏副總兵に遷った。河套の寇が大挙して侵入した際、主将の楊肇基に従って協力して撃ち大破し、署都督僉事を加えられた。
- 崇禎二年(1629年)、階州の叛卒である周大旺らを捕らえて誅し、總兵官に抜擢されて寧夏を鎮守した。
- 関中で賊が大いに起こり、王嘉允が清水營を陥れて遊擊の李顯宗を殺し、府谷を陥れた。その一党の李老柴がこれに応じ、三千餘人を集めて合水を攻めた。總督の楊鶴の檄で虎臣が討伐に赴き、盤谷でこれを撃って捕虜と斬首六百あまりを得た。ついで慶陽の賊の頭目である劉六を撃ち斬った。
- 四年(1631年)、神一元が保安を陥れ、延安が急を告げた。延綏の巡撫・鎮将はみな東に援けに向かった。陝西巡撫の練國事が虎臣と副將の李卑に援軍・討伐を檄した。虎臣らが保安を包囲すると、賊は河套の数千騎を引き入れて虎臣の軍を挫いた。折しも張應昌がこれを撃ち破り、賊衆は城を棄てて去った。虎臣らの前後の首功は一千九百であった。
- 翌五年(1632年)、可天飛・郝臨菴・劉道江・李都司がふたたび合水を包囲した。虎臣は臨洮の曹文詔、甘肅の楊嘉謨、固原の楊麒とともに撃って、甘泉の虎兕凹で賊を大破し、七百餘級を斬った。賊は大いに困窮した。
靈州の戦死
- 六年(1633年)五月、察罕呼爾敦圖が河套の寇の五萬騎と合して、清水・横城から道を分けて侵入した。守備の姚之夔らは防ぎきれず、沙井驛副將の史開先、臨河堡參將の張問政、岳家樓守備の趙訪はみな潰えて逃げた。寇はそのまま靈州に迫った。
- 虎臣は急ぎ千騎を率いて入って守り、ついで城中の兵をことごとく率いて出撃し、大沙井に駐屯した。寇が漢伯堡から突如として現れ、虎臣の軍はまだ陣を敷き終えず、しかも寡兵で敵し得ず、ついに戦死した。子の讚は五十騎を従えて重囲を突破して脱出した。
- 事が聞こえ、虎臣に都督僉事を贈り、祭葬を賜い、指揮僉事を世廕した。ついで前後の討寇の功を録して、さらに都督同知を贈り、錦衣衞副千戸を世廕した。
賀讚・賀誠――父の風
- 讚は勇敢で父の気風があった。廕を受けたのち武進士に及第し、官を累ねて京營副將に至った。崇禎十七年(1644年)三月、李自成が京師に迫ったとき、京軍の六大營は城外に分かれて列していたがみな戦おうとせず、あるいは甲を棄てて降った。讚だけが配下の兵を率いて迎え撃ち、矢に当たって死んだ。
- 弟の誠は身の丈七尺、鬚髯が立派で、諸生となり忠義をもって自ら任じた。兄の誡が副千戸を襲ったが早くに卒して子がなく、誠が襲うべきところをその弟の詮に譲った。賊が保定を陥れたとき、家人が衣を替えて逃げるよう勧めたが、叱って「わたしは忠臣の子である。生き延びて逃げたら、どの顔で地下の亡父にまみえられようか」と言い、妻子とともに井戸に身を投げて死んだ。