明史卷二百六十七 列傳第一百五十五 鹿善繼

家系

  • 鹿善繼は字を伯順といい、定興の人である。祖父の鹿久徵は萬厯年間の進士で、息縣知縣に任じられた。当時、天下に田を測量して上・中・下の等級を付けて上申するよう詔が下ったが、息縣だけは下田として報告し、「田を測るのは民を安んじるためだ、それがかえって民を苦しめてよいものか」と言った。襄垣に転じ、御史に抜擢されたが、言論のために澤州判官に貶され、滎澤知縣に遷ったが着任しないうちに死んだ。
  • 父の鹿正は苦節をもって自らを磨いた。県令のある者が会いに来ようとしたとき、ちょうど田に糞を撒いていたが、鍬を投げ出して出向いた。人の困難を救うためには家産を傾けても惜しまず、遠近の人々は鹿太公と称した。

戸部主事としての金花銀の争い

  • 善繼は端正で慎み深く、萬厯四十一年(1613年)の進士から戸部主事に任じられた。母の喪に服し、喪が明けて旧官に復した。
  • 遼東の兵糧が途絶え、廷臣がたびたび内帑からの支出を請うても返答がなかった。折しも廣東が金花銀を進上してきたので、善繼は旧制では金花銀は庫に貯えて諸辺の入用に備えるものだと調べ上げ、尚書の李汝華に書面で「出されぬ内帑を請うくらいなら、まだ進上されていない金を留めるほうがよいのでは」と述べた。汝華はもっともだとした。
  • 帝は怒って善繼の俸一年を奪い、進上分を補うよう促した。善繼は不可であるとして命がけで争った。そこで汝華の俸二か月を奪い、善繼を一級降して外任に回した。汝華は恐れて、結局銀を補って進上した。
  • 泰昌改元(1620年)で旧官に復し、新しい軍糧を管掌した。続けて上疏して百万の内帑を請うたが、返答はなかった。

孫承宗のもとでの関門経営

  • 天啓元年(1621年)、遼陽が陥落すると、才を認められて兵部職方主事に移された。大學士の孫承宗が兵部の事を管理しており、心から信任した。関門を視察するにあたって善繼を随行させ、出て師を督する段になると、表を上げて贊畫とした。
  • 善繼は粗衣に痩せ馬で亭障の間を出入りし、将卒に会って労をねぎらい、四百里の地を開き、城堡数十を回復した。承宗は左右の手のように頼りにした。
  • 関門にあること四年、員外郎・郎中と累進した。承宗が職を辞すと、善繼もまた辞して帰郷した。

楊漣・左光斗らの獄と鹿太公

  • これより先、楊漣・左光斗の獄が起こると、魏大中の子の魏學洢、左光斗の弟の左光明が相次いで鹿太公の家に身を寄せた。太公は彼らを客として遇し、親しくしていた義士で容城の挙人である孫竒逢と謀って、書を持たせて関門に走らせ、承宗にその難を訴えた。
  • 承宗と善繼は、薊門の巡視にかこつけて入覲を請うことを謀ったが、閹党は大いに騒ぎ、閣部が兵を率いて君側を清めるつもりだと言い立て、厳しい詔でこれを阻んだ。獄はいよいよ厳しくなり、五日に一度追徴のため笞打たれ、拷問は残酷を極めた。太公は急いで数百金を募って納めたが、二人はすでに命を落としていた。
  • そのころ善繼は帰郷しており、周順昌の獄がまた起こった。順昌は善繼と同年の生であったので、善繼はまた数百金を募った。金は届いたが順昌もまた死んだ。
  • 閹党が善繼の家の近くに居を構え、その家の子弟や僕従が道に相次いだ(監視した)が、太公は「わしは恐れぬ」と言った。

定興の守城と殉節

  • 崇禎元年(1628年)、逆璫(魏忠賢)が誅されると、善繼は起用されて尚寳卿となり、太常少卿に遷って光禄丞の事を管掌したが、ふたたび帰郷を請うた。
  • 崇禎九年(1636年)七月、大清の軍が定興を攻めた。善繼の家は江村にあったが、太公に申し出て城に入って守ることを請い、太公は許した。里に居た知州の薛一鶚らとともに守り、六日にして城は破られ、善繼は死んだ。
  • 家人が走って太公に告げると、太公は「ああ、わが子は日ごろ身を国に捧げると言っていた。いまはたして死んだ。何の心残りがあろう」と言った。
  • 事が朝廷に聞こえ、善繼に大理卿を贈り、忠節と諡し、担当の役所に祠を建てるよう命じた。子の鹿化麟は天啓元年(1621年)の郷試に第一で及第し、闕に伏して父の忠を訴えたが、一年余りで死んだ。

薛一鶚(附伝)

  • 薛一鶚は字を百當といい、貢生から黄州通判となった。荆王の姫が他の姫を世子に毒を盛ったと誣告したとき、一鶚はその誣告であることを明らかにした。宦官が太妃の命だと伝えてその獄を成立させようとしたが、ついに正しい裁きを通した。
  • 蘭州知州に遷った。州の北に、番族に奪われた田があり、吏はその賦税を他の戸に割り当てていた。のちに田が戻ってからは衛の兵卒に占拠され、民は三十年にわたって賦を出し続けていた。一鶚はこれを調べ上げてその害を除いた。
  • このとき善繼を助けて城を守り、ともに死んだ。

史論

  • 贊にいう。士大夫が政を退いて郷里に住むならば、封疆や民社を守る責はないのだから、身を退いて自ら全うしてもよく、必ず死ぬことをもって勇とするわけではない。それでも慷慨として身を捧げ、白刃を冒して悔いず、一族もろとも滅びる。君子はこれを哀れむが、それは名分と義のあるところに、生命より重いものがあるからではないか。気節が凛然として、要するに自らの志を遂げたのであり、その英邁な気風と義烈は、宇宙の間からついに消え去ることはないのである。