出自と楊廷樞との交わり
- 徐汧は字を九一といい、長洲の人である。生まれて一年に満たぬうちに父を失った。長ずるに従って行いを磨き、当時から名があった。同郷の楊廷樞と親しく交わった。廷樞は復社の諸生が維斗先生と称した人である。
- 天啓五年(1625年)、魏大中が逮捕されて蘇州を通ったとき、汧は金を貸してその道中を助けた。周順昌が逮捕された際、緹騎が横暴に金銭を要求すると、汧は廷樞とともに財を集めてこれに対処した。このころ汧と廷樞の名は天下に聞こえていた。
出仕と黄道周擁護の上疏
- 崇禎元年(1628年)、汧は進士となり、庶吉士に改められ、檢討に任じられた。崇禎三年(1630年)、廷樞は應天の郷試に第一で及第した。
- 中允の黄道周が錢龍錫を救おうとして官を貶されると、倪元璐は道周と同年の生であったので、自分が代わって謫せられたいと請うたが、帝は許さなかった。汧は上疏して道周・元璐の賢を称え、あわせて自らの罷免を請うた。
- 帝が汧を詰責すると、汧は言った。賢に譲り能に譲るのは忠臣の務め、進むに難く退くに易いのは儒者の風である。近ごろ陛下は臣下に委任する意が薄く、外廷を防ぎ察する権に意を注いで、しばしば宦官を逮捕なさる。臣下は黙って聖意をうかがい、疑いと二心が芽生えつつある。万一、士風が日に日に卑しくなり、帝のお心が日に日に移るならば、盛んな御代にあってこそ憂いは大きい、と。帝は聞き入れなかった。
- 汧はまもなく休暇を請うて帰郷し、朝に戻ってからは右庶子に遷り、日講官を兼ねた。崇禎十四年(1641年)、益王府への使いを奉じ、そのついでに帰郷した。当時、復社の諸生の気勢は盛んで、汧は廷樞・顧杲・華允誠らと行き来し、とりわけ意気投合した。
南京朝廷での弾劾と自死
- 久しくして京師が陥落し、福王は汧を召して少詹事とした。汧は、国が破れ君が亡んだ以上、臣子は官位に安んじるべきではないとし、また宗廟社稷が失われたのは朋党が互いに傾け合ったせいだと痛み、当路の者に書を送って派閥の対立を力を尽くして打ち破るよう勧めた。
- 就職すると時政七事を陳べ、ひたすら恩讐を解き偏党を去ることを説いた。
- ところが安遠侯の栁祚昌が上疏して汧を攻撃し、京口で朝服のまま潞王に謁したこと、東林の巨魁をもって自任し、復社の楊廷樞・顧杲ら奸人と持ちつ持たれつであることを述べ、陛下が金陵に鼎を定められたのに、彼らは討金陵の檄文にいう「中原の鹿を逐う」「南國に馬を指す」のような言をなしている、汧を法に付し、廷樞・杲の名を除き、その他の徒党は自分が順次糾弾したいと請うた。時に国事が切迫していたため、この件も結局立ち消えとなった。
- 汧は病と称して帰郷した。翌年、南京が失われ、蘇州・常州が相次いで下ると、汧はしみじみと嘆息し、二人の子に書き置きを残して、虎邱の新塘橋の下に身を投げて死んだ。郡の人で駆けつけて哭した者は数千人にのぼった。
- そのとき、儒者の冠に藍衫を着た一人の男が来て、虎邱の劍池に身を躍らせた。土地の人は憐れんで葬ったが、ついに何者か分からなかった。
楊廷樞(附伝)――逃亡と最期
- 廷樞は変事を聞くと鄧尉山中に逃れた。久しくして四方に兵を起こす者が群がり立つと、廷樞は重い名声があったので、みなが名指しして頼りにした。当路の者は廷樞を捕らえ、よい言葉で懐柔したが、廷樞は罵ってやまなかったので、蘆墟の泗洲寺で殺された。門人の迮紹原がその屍を買い取って葬った。
- 汧の子の徐枋は字を昭法といい、崇禎十五年(1642年)の郷試に及第した。枋は隠棲して高い行いがあったという。