明史卷二百六十八 列傳第一百五十六 曹文詔

曹文詔(?–1635年)。大同の人。熊廷弼・孫承宗のもとで遼東に功を積み、崇禎初年の京師防衛と四城回復で都督僉事に至った。ついで陝西に転じて王嘉允・㸃燈子・紅軍友ら群盗を次々に破り、斬獲は諸将の筆頭で、「軍中に一人の曹あり、西の賊はこれを聞いて心胆を揺さぶられる」と歌われた。御史劉令譽との不和から大同へ移され、大清の兵に敗れて流刑を論じられたが、呉甡の推薦で援剿総兵官として再起した。崇禎八年、真寧の湫頭鎮で数万騎に囲まれ、力戦のすえ自刎した。明末の良将第一と称され、太子太保・左都督を贈られた。甥に曹變蛟、弟に曹文耀がいる。

年表(14件)

篇首の立伝者一覧

  • 曹文詔(弟の文耀を附す)
  • 周遇吉
  • 黄得功

出自と遼東での経歴

  • 曹文詔は大同の人。勇猛で意志が強く、知略もそなえていた。軍に入って遼東の地に赴き、熊廷弼・孫承宗のもとで働いて功を積み重ね、遊撃にまで昇った。
  • 崇禎二年(1629年)の冬、袁崇煥に従って京師の防衛に加わった。翌三年(1630年)二月、総理の馬世龍から下賜の尚方剣を預けられ、参将の王承允・張叔嘉、都司の左良玉らを率いて玉田の枯樹・洪橋に伏兵を置き、激戦して功をあげ、参将に昇った。
  • 大塹山から転戦して遵化に迫り、さらに馬世龍らとともに大安城と鮎魚などの関を落とした。四城を回復した功により都督僉事を加えられた。

陝西の賊徒討伐

  • 崇禎四年(1631年)七月、陝西の賊の勢いが盛んになったため、延綏東路の副総兵に抜擢された。賊の頭目の王嘉允は長らく河曲に拠っていたが、四年四月に文詔がその城を攻め落とした。嘉允は逃れ、陽城の南山まで掠奪しながら移ったが、文詔が追いつくと、その手下が嘉允を斬って降伏した。この功で臨洮総兵官に昇進した。
  • 㸃燈子が陝西から山西に入ったので、文詔はこれを追って稷山で捕捉し、七百人を諭して降伏させた。㸃燈子は逃走したが、まもなく捕らえられて処刑された。
  • 李老柴・独行狼が中部を陥れたので、巡撫の練国事と延綏総兵の王承恩がこれを包囲した。五月、慶陽の賊の郝臨菴・劉道江が救援に来たが、ちょうど文詔が西へ転じてきたため、榆林参政の張福臻と合流して討伐し、老柴とその一党の一条竜の首を得た。残党は麾雲谷へ逃げ、副将の張𢎞業、遊撃の李明輔が戦死した。
  • 文詔はそこで遊撃の左光先・崔宗允・李国竒と手分けして綏徳・宜君・清澗・米脂の賊を討ち、懐寧川・黒泉峪・封家溝・綿湖峪で戦っていずれも大勝し、掃地王を討ち取った。
  • 紅軍友・李都司・杜三・楊老柴らは神一魁の残党で、鎮原に屯して平涼を襲おうとした。練国事は甘粛総兵の楊嘉謨、副将の王性善に檄を飛ばして防がせ、賊は慶陽へ逃げた。文詔は鄜州から間道を通って嘉謨・性善と合流し、五年(1632年)三月、西濠で大戦して千級を斬り、杜三と楊老柴を生け捕った。
  • 残党は他の賊と結んで武安監を掠め、華亭を陥れ、荘浪を攻めた。文詔と嘉謨が到着したとき賊は張麻村に屯していたので、官軍は不意を突いて攻撃し、賊は高山へ逃げた。遊撃の曹変蛟・馮挙・劉成功・平安らが喊声をあげて登ると賊は潰走した。変蛟は文詔の甥である。
  • 王性善および甘粛副将の李鴻嗣、参将の莫与京らが到着して合流し、あわせて五百二十余級を斬り、咸寧関まで追撃して破り、さらに関の上の嶺で破り、隴安まで追った。嘉謨と変蛟が挟撃してまた破った。
  • 賊の残る数千は漢南へ逃げようとしたが、遊撃の趙光遠に阻まれ、長寧駅を経て張家川へ逃げた。清水へ抜け出た者は副将の蔣一陽が遭遇して敗れ、都司の李宫用が捕らえられた。文詔は反間の計を用いてその一党を欺き、紅軍友を殺させ、そのうえで水落城で追い詰めて破り、静寧州まで追撃した。賊は唐毛山に拠ったが、変蛟が先登してこれを全滅させた。
  • 可天飛・郝臨庵・劉道江は王承恩に敗れて鉄角城に退き守り、独行狼と李都司が逃れて合流した。可天飛と劉道江は合水を包囲した。文詔が救援に向かうと、賊は精鋭を隠して千騎で迎え撃ち、誘い出して南原に至らせ、伏兵を一斉に起こした。城上の者は「曹将軍はもう戦死した」と言ったが、文詔は矛を持って左右に突進し、単騎で万の敵中を駆けめぐった。諸軍がこれを望み見て挟撃したので賊は大敗し、死体が野を覆った。
  • 残りは銅川橋へ逃げたが、文詔は変蛟・馮挙・嘉謨および参将の方茂功らを率いて追いつき、大戦して陣を突き崩し、賊はまた大敗した。
  • まもなく寧夏総兵の賀虎臣、固原総兵の楊麒とともに甘泉の虎兕凹で賊を破った。楊麒はさらに安口河・崇信窑・白茅山で賊を追撃していずれも大戦果をあげた。
  • 総督の洪承疇は可天飛と李都司を平涼で斬り、その将の白広恩を降伏させた。残りの賊は分かれて逃げたので、文詔は隴州と平鳳のあいだで追撃し、十月に三度戦って三度破り、耀州の錐子山に追い詰めた。その一党が独行狼と郝臨庵を殺して降伏し、承疇は四百人を誅殺して残りは解散させた。関中の大賊はおおむね平定された。
  • 巡撫御史の范復粹が首功をまとめて奏上したところ、総計三万六千六百余で、文詔が第一、嘉謨が次、王承恩と楊麒がその次であった。文詔は陝西で数十度の大小の戦いを重ね功が最も多かったが、洪承疇は叙功しなかった。巡按御史の呉甡が強く推奨し、范復粹の上疏も再び提出されたが、兵部がその功を抑えたため、結局叙されずに終わった。

山西への転戦

  • このころ賊は陝西の官軍が強盛なのを見て山西へ流れ込んだ。頭目の紫金梁・混世王・姫関鎖・八大王・曹操・闖塌天・興加哈利の七つの大部隊は、多い者で一万人、少ない者でもその半分の兵を擁し、汾州・太原・平陽を踏み荒らした。
  • 御史の張宸が「賊は秦中から来た。秦の将である曹文詔は威名が久しく知られ、士民は『軍中に一人の曹あり、西の賊はこれを聞いて心胆を揺さぶられる』と歌っているほどだ。かつて晋中でも功を立てており、秦の賊はほぼ滅び尽くしたのだから、山西に入って共同で討伐するよう命ずべきだ」と強く述べた。そこで陝西・山西の諸将は皆、文詔の指揮を受けることとなった。

崇禎六年(1633年)

  • 正月、霍州に到着して汾河で賊を破り、孟県から壽陽まで追撃した。巡撫の許鼎臣が謀士の張宰を大軍に先立てて賊の様子を探らせると、賊は驚いて潰走した。
  • 六月、文詔は追撃して混世王を碧霞村で斬った。残党は猛如虎に追われて逃げ、文詔の軍と方山で遭遇してまた敗れ、五臺・盂・定襄・壽陽の賊はことごとく平定された。
  • 許鼎臣は文詔軍を平定に置いて太原の東を守らせ、張応昌軍を汾州に置いて太原の西を守らせた。文詔は太谷・范村・榆社・太原で連続して賊を破り、賊はほぼ絶えた。
  • 帝は文詔の功が多いことから、通過する地には糧食を多く蓄えて労をねぎらうよう命じ、あわせて文詔に速やかに賊を平定せよと命じた。山西監視の中官である劉中允が「文詔が徐溝・盂・定襄で賊を討った際、担当の役所が米を給せず、かえって礟石で士卒を傷つけた」と述べたので、帝はただちに御史に取り調べを命じた。
  • 三月、賊が河内から太行を越えたので、文詔は沢州で大いに破った。賊は潞安へ逃げた。文詔は陽城に至って賊に遭ったが攻撃せず、沁水からひそかに兵を回して芹地・劉村寨で撃ち、千余の首を斬った。
  • 四月、賊は潤城に屯し、別の部隊が平順を陥れて知県の徐明揚を殺した。文詔が到着すると賊は逃げたので、夜半に潤城を襲って千五百を斬った。
  • 紫金梁と老囘囘が榆社から武郷へ逃げ、過天星が高沢山へ逃げたが、文詔はいずれも撃破した。他の賊が渉県を囲んでいたが、文詔が黎城で賊を破ったと聞いて包囲を解いて去った。
  • 五月、帝は中官の孫茂霖を文詔の内中軍として派遣した。賊が沁水を侵したので文詔は大いに破り、その頭目の大虎を捕らえ、さらに遼城の毛嶺で破った。
  • 山西の賊はたびたび敗れて文詔の鋒先を避け、多くが河北へ流れ込んだ。帝は文詔に軍を移して討たせたが、賊はすでに林県で鄧玘の兵を破っていた。文詔は五営の軍を率いて夜襲してこれを破った。
  • 七月、懐慶の賊を柴陵村で大破し、その頭目の滚地竜の首を得た。さらに老囘囘を済源で追撃して斬った。

失脚と大同への転出

  • 文詔は洪洞にいたころ、郷里に居住していた御史の劉令譽と仲違いしていた。折しも令譽が河南を按察していたとき、四川石砫の土官である馬鳳儀の軍が侯家荘で敗れて全滅した。文詔が馳せつけたおかげで賊は退いた。文詔は鎧を解くやいなや令譽と会見したが、話がまた食い違ったので、文詔は衣を払って立ち上がり、面と向かって叱りつけた。令譽は怒り、馬鳳儀の敗北を文詔の罪とした。兵部は文詔が勝ちに驕っていると議し、大同へ転任させた。

崇禎七年(1634年)

  • 七月、大清の兵が察罕を西征して還る途中に大同の境に入り、得勝堡を攻め落とした。参将の李全は自ら首を吊って死んだ。続いて懐仁県および井坪堡・応州を攻め囲んだ。文詔は総督の張宗衡とともにまず懐仁に駐屯して固く守った。
  • 八月、包囲が解けたので鎮城へ移駐し、挑戦したが敗れて還った。まもなく霊邱その他の屯堡が多く陥落した。
  • 大清の兵もまた引き揚げた。十一月、罪を論じて文詔・張宗衡および巡撫の胡沾恩はいずれも辺境の衛所へ流されることとなった。
  • 命令が下ったばかりのところへ、山西巡撫の呉甡が「文詔は兵法に通じ戦に巧みである」と推薦し、晋中で用いるよう請うた。そこで援剿総兵官に任じ、功を立てて罪を償わせることとした。

崇禎八年(1635年)――河南・陝西への出撃

  • このころ河南の禍が最も激しかった。帝はすでに兵部の議を容れ、文詔に河南の賊を討つよう命じていたが、呉甡が重ねて上疏して強く争い、まず晋の賊を平らげてから豫に入らせるよう請うた。帝は許さなかったが、文詔は呉甡に恩義があったので太原を通る道を取り、呉甡に引き留められた。
  • ちょうど賊の高加計がすでに殲滅され、鳳陽陥落の報が届いたので、兵を整えて南下し、八年三月、信陽で総督の洪承疇と合流した。承疇は大いに喜び、ただちに随州の賊を撃たせた。文詔は追撃して三百八十余を斬った。
  • 四月、承疇は汝州に至り、賊がことごとく関中に入ったので根本の地を顧みて還ることを議し、諸将に要害を守らせ、文詔に檄して関中へ入らせた。文詔は霊宝へ馳せて承疇に謁見した。承疇は「賊は商雒におり、官兵の到来を聞けば必ず先に漢中へ逃げる。大軍が潼関から入ればかえってその後手に回る」と考え、文詔に閿郷から山道を取って雒南・商州に至り、まっすぐ賊の巣を衝き、さらに山陽・鎮安・洵陽から漢中へ馳せ入って賊の逃走を遮るよう命じ、「この行軍は道が遠回りで将軍は大変な苦労だ。私は関中の兵を集めて将軍を待ち、その背を支えよう」と言って送り出した。文詔は馬に飛び乗って去った。
  • 五月五日、商州に到着した。賊は城から三十里のところにおり、営火が山を埋めていた。文詔は夜半に甥の参将変蛟、守備の鼎蛟、都司の白広恩らを率いて深林の中で賊を破り、金嶺川まで追撃した。賊は険阻に拠って千騎で迎え撃ったが、変蛟が大喝して陣に突入し、諸軍もともに進んで賊は敗走した。変蛟の勇は三軍に冠たるもので、賊の中では大小の曹将軍の名を聞くだけで皆が怖じ気づいた。
  • まもなく闖王・八大王らの賊が鳳翔を侵し、汧陽・隴州へ向かったので、文詔は漢中から馳せ向かった。賊はことごとく静寧・泰安・清水・秦州のあいだへ向かい、その数は二十万に近かった。承疇は、文詔の部隊に張全昌・張外嘉の軍を合わせてもわずか六千で衆寡敵せずとして朝廷に急を告げたが、まだ命令は下りていなかった。

真寧湫頭鎮の戦死

  • 六月、官軍は乱馬川で賊と遭遇し、前鋒中軍の劉𢎞烈が捕らえられた。まもなく副将の艾万年、栁国鎮も戦死した。文詔はこれを聞いて目を怒らせて罵り、すぐに承疇のもとへ行って出撃を願い出た。承疇は喜んで「将軍でなければこの賊は滅ぼせぬ。ただ我が兵はすでに分散していて策応できる者がない。将軍が行くなら、私は涇陽から淳化へ向かって後詰めとなろう」と言った。
  • 文詔は三千人を率いて寧州から進み、真寧の湫頭鎮で賊に遭った。変蛟が先登して五百を斬り、三十里追撃した。文詔は歩兵を率いて続いたが、賊は数万騎を伏せていて包囲し、矢がはりねずみの針のように集中した。賊は相手が文詔とは知らなかったが、ある小卒が縛られて苦しみ「将軍、我を救いたまえ」と大声で叫んだ。賊中の裏切り兵がこれを聞きつけて「これは曹総兵だ」と賊に教えた。賊は喜んで包囲をいっそう厳しくした。
  • 文詔は左右に躍り込んで手ずから数十人を撃ち殺し、転戦すること数里に及んだが、力尽きて刀を抜き自刎して死んだ。遊撃の平安以下、死者は二十余人。承疇はこれを聞いて胸を打って号泣した。
  • 帝もまた深く悼み、太子太保・左都督を贈り、祭葬を賜り、代々指揮僉事を世襲させ、役所に祠を建てて春秋に祭祀を行わせた。文詔の忠勇は当時に冠たるもので、明の末期の良将第一と称された。その死に際して賊の中では互いに祝いあったという。

曹文耀

  • 弟の文耀は兄に従って征討し、たびたび功があった。河曲の戦いでは斬獲が多かった。のち忻州で賊を撃ち、城下で戦死した。詔により贈官と恤典が与えられた。甥の変蛟には別に伝がある。