明史卷二百六十七 列傳第一百五十五 高名衡

高名衡(字は仲平)。沂州の人。崇禎四年の進士で、如臯・興化の知縣から御史に召され、崇禎十二年に河南巡按となった。李自成が洛陽を陥れて開封に迫ると、周王朱恭枵や總兵陳永福とともに城を守り、三度にわたる包囲を凌いだ。第三次包囲では援軍がことごとく潰走したため、黄河を決して賊を沈める策に同意したが、賊も同時に馬家口を決したため大水が城を貫き、汴梁の町はことごとく水没した。功を叙されて兵部右侍郎を加えられたが辞退し、帰郷後、大清の軍が沂州を破った際に夫婦ともに殉難した。

年表(14件)

出自と河南巡按

  • 高名衡は字を仲平といい、沂州の人である。崇禎四年(1631年)の進士で、如臯知縣に任じられ、才を認められて興化に転じ、召されて御史となった。
  • 崇禎十二年(1639年)、河南巡按に出て、翌年に任期が満ちたがとどめられ、さらに一年巡按を務めた。

開封の第一次・第二次包囲

  • 崇禎十四年(1641年)正月、李自成が洛陽を陥れ、勢いに乗って開封を包囲した。巡撫の李仙風はそのとき河北にいた。名衡は人を集めて守り、周王朱恭枵は庫の金百万両を出して決死の士を募って賊を殺させ、米を蒸し麦を挽いて炊いで軍に供した。これが七昼夜続いた。
  • 仙風が馬を駆って開封に戻り、副將の陳永福が城を背にして戦い二千を斬首し、游擊の髙謙が挟撃して七百を斬首したので、賊は囲みを解いて去った。
  • 仙風は帰還後、名衡と互いに弾劾し合った。帝は福王の藩を陥れた罪で仙風の逮捕を詔し、襄陽兵備副使の張克儉を後任としたが、克儉はすでに先に難に死んでいたので、名衡を右僉都御史に抜擢して後任とし、永福を總兵官・都督僉事として河南を鎮守させた。
  • このころ賊は南陽・鄧・汝など十余の州県を次々に陥れ、唐王・徽王の二王が害された。名衡は救うことができなかった。
  • 開封の周王邸は図書・文物の豊かさが他藩に勝り、士大夫の家も富み蓄えが満ちていた。自成は攻めても落とせず、それでも手に入れたいと執着した。年の暮れに賊がふたたび開封を包囲すると、永福が矢を放って自成の左目を射抜き、砲で上天龍らを殺した。自成は怒って猛攻した。
  • 開封はもと宋の汴都で、金の帝が南遷した際に築き直したもので、城壁は厚さ数丈、内側は堅密だが外側は粗かった。崇禎十五年(1642年)正月、賊が火薬を用いて仕掛けたところ、火が発すると外側へ吹き飛び、瓦や煉瓦が鳴りを立てて飛び、賊の騎兵はみな砕け散った。自成は大いに驚いた。折しも楊文岳の援軍も到着したので、囲みを解いて去った。
  • 西華・郾・襄・雎・陳・太康・商邱・寧陵・考城がいずれも陥落した。

第三次包囲と援軍の潰走

  • 崇禎十五年四月、賊はふたたび開封に至り、包囲したまま攻めず、干上がらせて落とそうとした。
  • 六月、詔によって前の尚書侯恂を獄から釈放し、保定・山東・河北・湖北の軍務を督させ、あわせて平賊など諸鎮の援討の官兵を統轄させた。知縣の蘇京・王漢・王燮を抜擢して御史とし、蘇京には延・寧・甘・固の軍を監させて孫傳庭に関を出るよう促させ、王漢には平賊鎮標の楚・蜀の軍を監させて侯恂らとともに急撃させ、王燮には陽・懷・東・晉の軍を監させて期日を切って黄河を渡らせた。
  • 總兵の許定國が晉の軍を率いて沁水に陣したが、一夜のうちに潰えて去り、寧武の兵もまた懷慶で潰えた。詔によって定國は逮捕された。
  • 七月、黄河沿いの兵が潰えた。督師の丁啟睿、保定總督の楊文岳が左良玉・虎大威・楊徳政・方國安の諸軍と合して朱仙鎮に陣したが、良玉は襄陽へ走り帰り、諸軍はみな潰え、啓睿と文岳は汝寧へ逃げた。
  • 詔によって山東總兵官の劉澤清が開封の救援に向かった。城中の食糧は尽きていた。名衡と永福は監司の梁炳・蘇壯・吳士講、同知の蘇茂灼、通判の彭士竒、推官の黄澍らとともに、いよいよ堅く守った。
  • 澤清が兵を率いて救援に来たが、諸軍は河北の朱家寨に集まったまま進もうとしなかった。澤清は言った。朱家寨は開封から八里、自分が兵五千で南へ渡り、川に沿って営を構え、水を引いて周囲を巡らせ、順に八つの営を結んで大堤まで達し、甬道を築いて河北の粟を運び城中に供給する。賊の兵はすでに疲れているから一戦で追い払えるはずだ、と。諸軍はみな賛成した。
  • そこで兵三千人がまず渡って営を立てた。賊がこれを攻め、三昼夜戦ったが、後続の軍は続かず、甬道もできなかったので、澤清は営を引き払って帰った。城中は日夜𫝊庭(孫傳庭)が関を出るのを待ったが、来なかった。

黄河の決壊と開封の壊滅

  • 賊が開封を狙ったのはこれで三度目で、兵馬の損傷が多く、憤りを積んで必ず抜くと誓っていた。だが囲んで半年、兵は疲れ糧は乏しくなり、黄河を決して灌ごうと考えたものの、城中の子女や財宝が惜しくてためらい決めかねていた。秦の軍がすでに東へ向かったと聞き、諸鎮の兵に挟撃されるのを恐れて計を変えようとしていた。
  • 折しも巡按御史の嚴雲京に献策する者があり、河を決して賊を水に沈めるよう請うた。雲京がこれを名衡と澍に語ると、名衡と澍ももっともだとした。周王恭枵は民を募って羊馬墻を築かせ、高い岸のように堅く厚く仕上げた。賊の営は大堤にじかに接しているので、河が決すれば賊を殲滅でき、城の方は心配ないという読みであった。
  • こちらが朱家寨の口を掘り始めると、賊はそれを察して営を高台に移し、大船や巨大な筏を並べて待ち構え、逆に民夫数万を駆り集めて馬家口を決壊させ、城に水を灌ごうとした。
  • 九月癸未、望の夜半に二つの口が同時に決した。大雨が十日余り続いて黄河の流れが急に増し、水音は百里に聞こえた。鍬を担いだ人夫は堤とともに十数万が押し流されて沈み、賊もまた一万が沈んだ。水は北門から入り、東南門を貫いて出て、渦水に流れ込んだ。
  • 名衡と永福は小舟に乗って城頭に至った。周王は宮眷および寧鄉ら諸郡王を率いて水を避け城楼に籠もり、雨の中に座して七日絶食した。王燮が舟で王を迎え、王は城上から舟に乗って脱出し、名衡らもみな脱出した。茂灼と士奇は長く飢えて起き上がれず、ともに溺死した。
  • 賊は艦を浮かべて城に入り、生き残った民を殺し尽くし、営を引き払って西へ去った。城が包囲され始めたときには百万戸あったが、その後飢えと疫病で十のうち二、三が死んだ。汴梁の華やかさは中州随一で、群盗が心を奪われたところであったが、このときことごとく水没した。
  • 帝はこれを聞いて痛み悼んだが、なお諸臣が守り抜いた労をおもんぱかり、功を叙するよう命じ、名衡に兵部右侍郎を加えた。名衡は病を理由に辞退し、王漢が右僉都御史に抜擢されて名衡に代わって河南を巡撫した。
  • 名衡が帰郷してまもなく、大清の軍が沂州を破り、名衡は夫婦ともに殉難した。

王漢(附伝)――出自と地方官としての武功

  • 王漢は字を子房といい、掖縣の人である。崇禎十年(1637年)の進士で、高平知縣に任じられ、河内に転じた。天壇山の巨寇である劉二を捕らえ、また雪の夜に乗じて妖僧の智善を破り、夜半に黄河を渡って賊の楊六郎を破った。
  • 李自成が開封を囲むと、漢は金龍口の桞林に火を放って疑兵とし、決死の士を賊中に送り込んで、諸鎮の兵が数十万ずつ援けに来たと言い触らさせた。賊はこれを聞いて驚き走った。
  • 漢は気概のある人柄で、士を愛し、人に一つでも長所があると口を極めて感嘆した。僚属や紳士が民の苦しみを述べ、自分の過ちを指摘すれば、はっと改めて拝礼した。兵を用いるときは士卒と苦楽をともにしたので、人は喜んでその下で死のうとした。間諜をよく使ったので、賊中の虚実で知らぬことはなかった。天壇山の賊を攻めたときは山が険しく切り立ち、登る者を布で引き上げたが、漢は刀を手にまっすぐに登り、人はその勇を称えた。
  • そのころ賊の勢いは日ごとに盛んで、帝は朝に臨むたびに嘆いていた。漢の前後の破賊の功に対し、優遇して叙するよう詔が下った。

王漢(附伝)――監軍と開封救援

  • 崇禎十五年(1642年)春、減俸の身のまま行取で都に入り、蘇京・王燮とともに召対して帝の意にかない、三人ともに試御史として監軍を命じられた。漢は平賊鎮標の楚・蜀の軍を監し、督臣の侯恂とともに南から汴を援けることとなった。
  • 当時、兵部は援討の兵十万を上申し、その十分の四を京と燮に属させ、六を漢に属させた。漢が監したのは五万九千だが、大半はすでに潰散しており、兵部の名ばかりの数であった。
  • そこで漢は自ら標営を立てることを請い、兵千人・騎二百を認められた。保営の兵百余人を選び、邯鄲・鉅鹿の壮士三百人を募り、さらにかつて河内で治めていたときに訓練した義兵、および修武・濟源で従軍討伐の経験のある者五百人、それに親族知友の子弟を合わせて千人とした。
  • 八月朔の夜半、范家灘で賊を襲い、赤い甲を着た賊の首領一人を斬った。諸将に檄を飛ばして合同で討たせ、自らは襄陽へ走って左良玉の兵を督して汴を救おうとした。潼關に至ったところで、漢を河南巡按とする詔が下った。
  • そのとき賊が開封に水を灌いだと聞き、諸将を促して栁園から夜半に黄河を渡り、西岸に兵を伏せ、卜從善らに檄して挟撃させ、九十余級を斬首した。こうして汴に入り、大いに旗鼓を張って疑兵とし、賊を追って朱仙鎮に至り、連戦して勝った。
  • 巡撫の高名衡が病を理由に退くと、漢が右僉都御史に抜擢されてこれに代わった。漢は間諜を広く用い、土豪を収め、屯田を議し、賊を図る策を練った。

王漢(附伝)――永城の劉超の乱と戦死

  • まもなく劉超が永城で反した。超は永城の人で、足が不自由だが狡猾で、貴州總兵となったが罪に連座して免ぜられ、上疏して兵の計を述べ、陳新甲に用いられて河南總兵となった。私怨によって同郷の官である御史の魏景𤦺の一家三十余人を殺し、罪を恐れてついに城に拠って反した。
  • 漢は上疏して討伐を請うたが、その内容が漏れ、超は備えを固めた。翌年正月、漢は招撫すると称して永城に入ったところ、賊に殺された。參將の陳治邦、遊擊の連光耀父子もみな戦死した。遊擊の馬魁が漢の屍を背負って脱出したが、顔は生きているようであった。
  • 詔によって兵部尚書を贈られ、錦衣世襲百戸に廕せられ、祠を建てて祭ることが命じられた。まもなく超は誅され、首は九辺に回された。