出自と言官としての活動
- 范淑泰は字を通也といい、滋陽の人である。崇禎元年(1628年)の進士で、行人に任じられた。崇禎五年(1632年)冬、工科給事中に抜擢され、刑獄が繁多であるとして刑官に整理を命じるよう請い、帝は褒めてこれを容れた。
- 流賊が河南を侵すと、先任の巡撫樊尚璟の罪を追及し、總兵鄧玘の淫掠のありさまを弾劾した。
- 当時、中官の張彞憲が天下の未納の税は千七百余万に達すると述べ、科道官を派遣して徴収を督させるよう請うた。帝は大いに怒って巡撫・巡按に回答を責めた。淑泰は、民が貧しくて盗賊が起こっている以上、未納分を督促するのは難しいと述べたが、容れられなかった。
- 給事中の莊鼇獻・章正宸が建言によって吏の取り調べに下されると、抗議の上疏をして二人を救った。
張捷・王應熊との対立
- 吏部の張捷が逆党の呂純如を推薦すると、淑泰はその誤りを強く論じ、あわせて大學士王應熊が徒党を組んで私を行っていると論じた。さらに捷が應熊の意に従い、その私人である王維章を蜀の巡撫に用いようとしたことを弾劾し、維章は西寧の官にあったとき増徴によって変乱を招いた罪で職を落とされ閑居していたのに、捷が事実をあいまいにして上申したのは明らかに欺瞞だと述べた。
- 帝が捷に釈明を責めると、捷は淑泰を党派の同異で人を攻撃する者だと詰った。帝は問いただすことをしなかった。
- 当時、皇陵が毀たれて巡撫の楊一鵬が罪を得たが、應熊は科挙の座主であった縁から強くこれを庇った。淑泰はその上奏を握りつぶして隠していたことを暴いたが、帝はやはり追及しなかった。淑泰はそこで應熊が賄賂を受けた数件を拾い上げて上奏した。應熊が私財を出して陵の工事を助けると、淑泰はさらに、寇を招き奸を庇う者だと弾劾した。帝は私情をもって勝ちを求めていると責め、ついに容れなかった。
崇禎十一年の上疏と兗州での殉難
- 崇禎十一年(1638年)冬に上疏して述べた。いま借餉のために財を搜括し借助させているが、それを実行しても、再び戦があればもう一度できるものではない。長く続く見込みを立てずに、あわてて場当たりの救済策に走るのは忠とはいえない。陛下は清廉をもって天下を導こうとしながら、百官の金銭の多寡を並べ立てるのは、かえって貪りを教えることになる。とりわけ借貸の説は行ってはならない。京師は根本の重地でありながら、近ごろは物力が尽き、富商大賈の大半が帰り去っている。内が安んじないのに、どうして外を攘えようか。この説はただちに取りやめていただきたい、と。
- また、兵を強くするには法を行うのが一番だと述べた。いまの兵は餉を求めるときは強く、敵に向かうと弱く、良民を殺して功を偽るときは強く、暴を除き民を救うときは弱い。法令を明示し、命を尽くして賊を殺せる将はただちに大将に抜擢し、そうでなければ死罪として赦さないこととし、降級や戴罪といった身に痛みの及ばぬ処分で済ませてはならない、と。帝はその言を是とした。
- 崇禎十五年(1642年)、吏科に遷り、浙江の郷試を主宰し、任を終えて帰郷した。同年十二月、大清の軍が兗州を包囲した。淑泰は力を尽くして固守したが、城が破られて死んだ。詔によって太僕少卿を贈られ、子の一人が官に就けられた。