明史卷二百六十七 列傳第一百五十五 宋玫

家系と初期の官歴

  • 宋玫は字を文玉といい、萊陽の人である。父の宋繼登は萬厯三十二年(1604年)の進士で、陜西右參議まで歴任したが、天啓五年(1625年)の大計で官を貶された。
  • 玫はその同じ年に、族叔の宋應亨とともに進士に及第した。玫は虞城知縣に任じられ、應亨は清豐を得た。崇禎元年(1628年)には玫の兄の宋琮も進士に及第して祥符を知り、玫は才を認められて繁劇の把縣に転じた。三人の任地は境を接し、そろって治績の評判を得た。
  • 應亨は禮部主事に遷り、玫も吏科給事中に抜擢された。

言官としての進言と廷推事件

  • 玫はかつて人材登用について上奏し、陛下の治を求める心が急であるほど、浮薄で事を起こしたがる者が偽りを飾って奇を衒い、破格の登用を望む意が篤いほど、巧言の佞人が機に乗じて先を争うのだ、と論じた。人々はその言を正しいとした。
  • そのころ應亨はすでに吏部に移り、稽勲郎中まで累進していたが、職を落とされて帰郷した。玫は母の喪を終えたところで旧官に復し、刑科都給事中を歴任した。夏の暑さを考慮した審理(熱審)を天下一般に行うよう請い、また獄囚の裁きが滞って病死する者が処刑される者とほぼ相半ばしているから憐れんで釈放すべきだと述べ、帝はこれを採用した。
  • 太常少卿に遷り、大理卿・工部右侍郎を歴任した。
  • 玫の父の繼登は久しく廃されていたが、このとき浙江右參政となっていた。大學士周延儒の食客の盛順という者が、浙江巡撫の熊奮渭のために内召を働きかけ、はたして南京戸部侍郎に抜擢されたので、繼登父子はこの盛順を信用した。
  • 崇禎十五年(1642年)夏、閣臣を廷推する際、順は玫のために強く推薦運動をした。折しも再度の推挙を命じる詔が下り、玫もその中に入った。だが帝はすでに流言を耳にして諸臣に私曲があるのではないかと疑っていた。召対に入った玫は、帝の意にかなおうとして堂々と意見を述べたが、帝は怒って叱りつけて退け、吏部尚書の李日宣らとともに下獄させた。日宣らは戍地に送られ、玫は除名された。順はこれに驚いて逃げ隠れた。

萊陽の守城と殉難

  • 崇禎十五年閏十一月、臨清が破られると、應亨は知縣の陳顯際と城を守る策を謀った。應亨は城の北側が低く薄いのを見て、千金を出して甕城を築き、十日で完成させた。玫および邑の人の趙士驥もまた財を出して守備の道具を整えた。
  • まもなく大清の軍が城に迫り、城上から火砲・矢石が一斉に放たれ、包囲はいったん解けた。だが翌年二月にふたたび来て城はついに破られ、玫・應亨・顯際・士驥はともに死んだ。
  • 顯際は真定の人、士驥は中書舍人の官にあり、いずれも進士から身を起こした者である。玫と應亨は文名があった。

沈迅(附伝)――言官としての台頭

  • 沈迅もまた萊陽の人である。崇禎四年(1631年)に進士に及第し、新城・蠡の二県の知縣を歴任した。膠州の張若騏とは同年の友であった。
  • 崇禎十一年(1638年)、行取(地方官の中央召還選考)で都に入った。帝は吏部の考選が私情に流れていることを憂え、みずから諸臣を試したところ、迅と若麒はともに刑部主事となった。二人は大いに恨み、楊嗣昌に取り入って兵部に移してもらった。
  • その年の冬、畿輔が兵禍を受けると、迅は廣平・河間・定州・蠡縣にそれぞれ兵備一人を置くことを請い、また天下の僧に尼を配して里甲に編入し、三丁に一人を徴発すれば数十万の兵を得られると請うた。その他の条奏も多く、上奏は兵部に下された。嗣昌は迅の言を大いに称揚して採用できるとしたので、兵科給事中に任じられた。
  • 迅は帝に取り入ろうとしてしばしば意見を上申し、いずれも帝の裁可を得た。当時は軍事が切迫し、廷臣で兵を論じる者はすぐ兵に通じているとされ、大きくは督撫、小さくは兵備に推されたが、いったん任に当たれば罪が次々に及んだ。そこで上下ともに兵を語ることを避け、上奏でそれに触れる者がいなくなった。迅はその弊害を強く論じ、廷臣に五日以内に方策を述べさせるよう命じることを求め、帝はただちにその言に従った。
  • 迅は考選のとき、掌河南道御史の王萬象に抑えられたことがあり、事にかこつけて萬象を弾劾して罷免させ、勢いをいよいよ強め、若騏とともに山東の事をすべて牛耳った。
  • 順天府丞の戴澳が平遠知縣の王凝命と嘉興推官の文德翼を貪汚だと誣告して弾劾すると、迅は上疏して二人の清廉と有能を称え、澳は取り調べのうえ削籍された。

沈迅(附伝)――失脚と最期

  • 迅は累進して禮科都給事中となった。陳新甲が和議を主張すると、迅は面と向かってその非を斥け、長く廷議で争った。また、楊嗣昌は死んでもなお誅すべき者であり、古い案件を持ち出して功を求めているだけだ、陳新甲は罪を負ってあわてているのに、辺境の労を功として録し廕を与えるのは功を論じ罪を議する法にかなわない、と述べた。帝はその言を是とした。
  • 迅はもともと嗣昌の引き立てで進んだ身でありながら、世間に合わせて嗣昌を誹謗したので、当時の論はこれを卑しんだ。まもなく高斗光を鳳陽總督に保挙したのが不当だとして國子博士に貶され、休暇を請うて帰郷した。
  • 新甲が誅されると、兵科が新甲の罪を糾弾しなかった責を追及するよう命が下り、吏部が迅の名を挙げた。帝は「迅は御前で駁議した者だ、朕はまだ覚えている。旧官に復してよい」と述べた。だが赴任しないうちに京師が陥落した。
  • 迅は家に居り、弟の沈迓とともに砦を築いて自衛した。迓は小柄だが精悍で、馬上で百斤の鉄椎を振るった。兄弟は里の壮士を率いて土寇をほぼ討ち尽くした。大清の軍が至って砦が破られ、迅は一門ことごとく死んだ。
  • 若騏は嗣昌に媚びて黄道周を弾劾し、職方郎中を歴任した。新甲に寧錦へ派遣されて戦いを督したが、洪承疇ら十余万の軍を全滅させ、独り海を渡って逃げ帰り、死罪と論じられて獄に繋がれた。李自成が都城を陥れると、出て降伏した。