出自と延寧の兵糧整備
- 張伯鯨は字を繩海といい、江都の人である。萬厯四十四年(1616年)の進士で、㑹稽・歸安・鄞の三県の知縣を歴任した。天啓年間の大計(官吏の考課)で盧氏に転補され、崇禎二年(1629年)にようやく戸部主事に遷った。
- 延・寧二鎮の軍需の監督に出た。黄甫川から西の寧夏に至る千二百里は五穀が実らず、飼葉も穀物も内地に頼っていた。賀蘭山から黄河沿いの漢渠・唐渠の二渠を経て東の花馬池に至る一帯はもともと沃野でありながら、荒廃がはなはだしかった。
- 伯鯨はその実情を上奏し、商いを通じ職人を優遇して豆・麦を運ばせ、また辺境の商人に塩の引換えを許す仕組みにならって官市の法を立て、人を呼び寄せた。軍民はこれを便利とした。
延綏の兵備と巡撫
- 大盗が延綏に起こると、伯鯨は兵備僉事に抜擢されて榆林中路を管轄した。賀思賢を撃破し、一座城・金翅鵬を斬り、長樂堡で套寇(オルドスの敵)を破った。巡撫の陳竒瑜がその功を上申し、詔によって三階を進めて右參政とし、なお兵備の事を見させた。
- 崇禎七年(1634年)春、奇瑜が總督に遷ったので、伯鯨を右僉都御史に抜擢してその後任とした。總兵の王承恩らを督して道を分け、雙山・魚河の二堡で察罕部の長および套寇を撃破し、三百を斬首した。
- 翌年、拾遺(官吏弾劾)の議によって罷免されたが、まもなく延綏の功を論じて起用の詔が下り、子は錦衣千戸に廕せられた。
兵食の監理から揚州の落城まで
- 崇禎十年(1637年)秋、楊嗣昌が大挙して賊を討つことを議し、戸部の侍郎一人を池州に駐在させて専ら兵糧を管理させることとなり、帝は傅淑訓を命じた。翌年、淑訓が喪に服して去ったので、家に居た伯鯨を起用して代わらせ、淑訓と同じ官に就けた。
- さらに翌年、熊文燦の招撫策が破綻し、嗣昌みずから出て師を督することになると、伯鯨は襄陽へ移された。文燦が逮捕されたとき、討伐の兵糧六十余万が届かなかったと述べたため、伯鯨は連座して秩を貶された。
- 崇禎十五年(1642年)、召されて兵部左侍郎となった。翌年、尚書の馮元飇が休職中で伯鯨が部務を代行し、萬歳山で召対を受けたが、発病して中官に扶けられて退出し、そのまま退官を願い出た。
- さらに翌年、京城が陥落すると、身をやつして逃げ帰った。福王が南京で立つと、伯鯨は家に居て出仕しなかった。久しくして揚州が包囲されると、当事者と城を分けて守り、城が破られると自ら縊れて死んだ。