篇首の立伝者一覧
- 馬從聘(耿䕃樓)
- 張伯鯨
- 宋玫(族叔應亨、陳顯際・趙士驥ら)
- 范淑泰
- 高名衡(王漢)
- 徐汧(楊廷樞)
- 鹿善繼(薛一鶚)
出自と初期の官歴
- 馬從聘は字を起莘といい、靈壽の人である。萬厯十七年(1589年)の進士となり、青州推官に任じられた。
- のちに御史に抜擢された。勛衛の李宗城が平秀吉(豊臣秀吉)を冊封する使節に立ちながら逃げ帰った事件では、その父の李言恭に戎政の統轄を続けさせるべきではないと論じたが、容れられなかった。
- 兩淮の鹽課を管理に出たとき、近ごろ泰山が崩れ一里あまりにわたって地割れが生じたのは、鉱山を開いて地脈を断ち切ったせいだと述べ、採鉱を早く停止するよう求めたが、返答はなかった。
- 奸人の田應璧が、官に没収された余塩を引き当てて売り、大工事の費用に充てることを願い出て、帝は中官の魯保を派して監督させた。從聘はその欺瞞ぶりを激しく述べ立てたが、聞き入れられなかった。
地方巡按と引退
- 朝廷に戻って浙江の按察に転じ、さらに蘇州・松江を按察したときには、蘇・松・常・鎮に加増された税課の免除を請うたが、これも返答はなかった。
- 在職年数を重ねたことで太僕少卿に進み、右僉都御史を拝して延綏を巡撫した。失態があって俸を奪われ、まもなく賊の巣を突く功があったが叙されず、病と称して帰郷した。
- 兵部右侍郎を加えられたが、二十余年にわたって家に居り、熹宗の一代を通じてついに出仕しなかった。
崇禎十一年冬・靈壽の落城と殉節
- 崇禎十一年(1638年)冬、大清の軍が靈壽を破った。從聘はこのとき八十二歳であった。
- 三人の子に「わしは死に場所を得た」と言い、さらに「わしは大臣であるから義として生きながらえることはできぬ。お前たちは生きても差し支えない」と告げた。だが三子は従わず、從聘が縊れると三子もみな縊れた。
- 兵部尚書を贈られ、介敏と諡され、子の一人が官に就けられた。
耿䕃樓(馬從聘の附伝)
- 耿䕃樓は從聘と同じ邑の人で、字を旋極という。天啓年間に臨淄知縣となった。
- 長く旱が続いたとき、囚人の服を着て烈日の中に身をさらし、壇で哭したところ、雨がたちまち降り注いだ。壽光の県政を代行したときも、臨淄と同じように雨を祈った。
- 崇禎年間に中央へ入って兵部主事となり、吏部に移って員外郎を歴任し、休暇を請うて帰郷した。城が破られると子の耿參とともに死んだ。光禄少卿を贈られた。