明史卷二百六十六 列傳第一百五十四 陳純徳

出自と山西巡按

  • 字は静生、零陵の人。諸生として学行を称された。かつて夜に洞庭に舟を泊めて盗に窘められ、躍り出て水に落ち、再び躍って中洲に入った。夜明けに気づくと蘆葦の中に坐しており、泊めた舟から数十丈も離れていた。
  • 崇禎十三年(1640年)進士。年すでに六十であった。莊烈帝が諸進士を召して時事を諮ったとき、純徳の奏が旨に称い、たちまち御史に擢かれ、山西を巡按した。
  • 七月、管内に厳しい霜が降りて民が凍え飢え、純徳は上疏して恤みを請い、あわせて抽練(兵の抽出練成)の弊を陳べた。
  • 兵を抽けば、人は故郷の居を失い、父母妻子の依るところも田園・丘壠の恋うところもない。帰りたくなれば逃げ、敵に逢えば潰える。抽き残された者は餉が薄いので無用でいることに安んじ、抽き去られた者は遠く調されて用いられるのを楽しまない。
  • 伍は空になっても餉は依然として出るので、主帥に帰さなければ偏裨に帰す。彼らは兵の逃亡を喜びその餉を利とし、これに藉って昇進を営求する者はみなこの手合いである。精神は伍を束ねることにではなく餉を侵すことに用いられ、厚い餉は士を養うことにではなく官を求めることに用いられる。伍が空であれば人がいない、どうして練成を望めようか。餉が食い潰されればいよいよ欠ける、どうして充実を望めようか。これが今日の軍中の大弊である。
  • 帝は用いることができなかった。

殉節

  • 還朝して畿輔の学政を督し、管内を巡按しに出ようとしたところで都城が陥ちた。賊が百官に某日入見せよと令し、衆が純徳を引き立てて入らせた。邸に還って慟哭し、そして自経した。
  • 京山の人、秦嘉系が地を買って永定門外に葬り、石を立てて墓に表した。
  • 太僕卿を贈られ、諡は恭節。