出自と四川巡按
- 字は士亮、鄞の人。崇禎四年(1631年)進士、大理推官を授かった。初めの名は天工といったが、莊烈帝が上帝に虔んで仕えたので、群臣で名に「天」の字がある者はみな改めよと詔があり、そこで良謨と改めた。
- 職にあること六年、二度上等の考課に付され、行取されて陛見し、御史に擢かれた。
- 十二年(1639年)四川に出按した。任期満ちて交代すべきところ、再び留任した。時に流寇が大挙して蜀に入り、詔して良謨は専ら蜀王を護り、巡撫の邵㨗春は専ら賊を処理することとした。良謨は守備を整え、堅壁清野を行った。賊が成都を犯すと、将を遣って要害に拠らせて掎角の勢をなし、一再の戦で賊は潰えて奔った。
- 帝は賊が蜀を擾すと聞いて詔を下して良謨を責めたが、その善く守禦したことを聞いて優旨を下し銀幣を賜った。
- 還朝すると賊の勢いはいよいよ迫り、計画したことは概ね行われず、京師は陥ちた。
殉節と後嗣
- 良謨はかつて堂下で文天祥を拝する夢を見た。文天祥は揖して上らせ「公と予は先後するとはいえ一つの筋道である。なぜ下って拝するのか」と言った。覚めて異とした。
- ここに至って城が陥ち、良謨はちょうど病を得て邸中に臥していたが、一慟してほとんど絶命しかけた。以来、水も漿も口にしなかった。ある者が死ぬなと勧めたが答えず、同郷の李天葆に言った――我は国のために死ぬ。義として家を顧みない。ただ母が老い、亡父はまだ葬れず、後嗣も定まっていない。一言しておかねばならぬ。そこで詩を賦して天葆に託した。
- まもなく帝が煤山で崩じたと聞いて大いに慟き「主上が冕服でおられないのに、臣子が敢えて冠帯を具えられようか。我が巾は褻れている。どこで明の巾を得られようか」と言った。天葆が巾を進めると、良謨は巾を著け藍色の便服を着て起ち、戸に入った。妾の時氏がこれに随い、ついに妾とともに自縊して死んだ。
- 時氏は京師の人、年十八。良謨は五十を過ぎて子がなかったので礼をもって納れたのだが、良謨に侍したのはわずか百三日であった。
- 良謨が卒すると、その族人は兄の子の久樞を後嗣としたが、まもなく久樞も卒し、良謨はついに後がなかった。
- 太僕卿を贈られ、諡は恭愍。本朝は諡恭潔を賜った。