明史卷二百六十六 列傳第一百五十四 申佳允

地方官としての治績

  • 字は孔嘉、永年の人。崇禎四年(1631年)進士、儀封知縣を授かった。県はもとより盗が多かったが、佳允は保甲の法を厳しくして盗は容れられるところがなくなった。長雨で黄河が決壊すると、怒濤の中に舟を並べてその決口を塞いだ。大猾を捕らえて法に処した。才によって杞縣に転じた。
  • 八年(1635年)賊の掃地王が万人を率いて攻めて来た。城の土垣は多く崩れていたが、佳允は死士を募って賊を撃退し、そこで城を甓で築いた。
  • 唐王聿鍵が勤王して開封に至ろうとしたとき、諸大吏は怖れ集まって議し「留めても聴かれない。行かせれば守土の者が罪を得る」と言った。佳允は「ただ周王だけがこれを留められる」と言い、衆は善しとしてその計を用いた。

京師陥落と殉節

  • 治績が卓異で吏部文選主事に擢かれ、備辺の五策を上り、考功員外郎に進んで京察を佐けた。大學士の薛國觀が少詹事の文安之を陥れようとしたとき、安之は佳允の座主であったので事が佳允に連座し、南京國子博士に左遷された。久しくして大理評事に遷り、太僕丞に進んで近畿で馬を閲した。
  • 李自成が居庸を破ったと聞いて歎じ「京師は守れまい。君父に難があるのに、どこへ逃れて死を免れよう」と言い、馳せて都に入り、大臣を遍く訪ねて戦守の策を画したが、みな省みられなかった。
  • 子の涵光に書を遺した――己を行うを義といい、数に順うを命という。義は背けず、命は違えられない。天下の事で、生を貪り死を畏れることによって壊れないものはない。病で死に、利で死に、刑戮で死に、閨房で死に、門前の戦いで死ぬ、いずれも死である。これらで死んで君父のために死なないのは、思うに死を善く用いていないのだ。今日の事は君父の事であり、義として死ぬべきことであり、また命でもある。我はこれを行う。
  • 京師が陥ちると、冠帯して母に辞し、馬を策って王恭厰に至った。従者が服を易えて賊を避けるよう請うと、佳允は「我は微賤から起って禄を食むこと十三年、国事ここに至って、敢えて死を惜しもうか」と言った。二人の僕が周りを守って去らないので、「我は死なぬ。よい場所を択ぶのだ」と欺いて馬を下りた。傍らに畑に灌ぐ大きな井戸を見つけ、急いで躍り入った。僕が叫んで引き出そうとすると、佳允もまた叫んで「太安人に告げよ、子は忠臣となったと。過ぎて傷むな」と言った。そして死んだ。年四十二。
  • 太僕少卿を贈られ、諡は節愍。本朝は諡端愍を賜った。