明史卷二百六十六 列傳第一百五十四 汪偉

出自と抜擢

  • 字は叔度、休寧の人、上元に寄籍した。崇禎元年(1628年)進士。
  • 十一年(1638年)慈谿知縣から行取された。帝は国家に事変が多いのに、朝臣は詞苑から起家して儒緩で吏事に習熟せず、紛乱を治め変事を禦ぐに足りないとし、旧例を改めて知縣・推官のうち治績卓絶な者を選んで翰林に入れることとし、偉は檢討に擢かれた。休暇を給わって帰り、還朝して東宮講官を充てられた。

上江防備の疏(崇禎十六年)

  • 十六年(1643年)賊が承天・荊襄を陥れると、偉は留都(南京)が根本の地であるとして、上江の防備を綢繆する疏を上げた。
  • 金陵は城の周囲百二十里、十萬の衆でも守り切れない。議者は守城の法はなく防江の法があると言う。賊が北から来れば淮安が要地、上流から来れば九江が要地である。淮を禦ぐのは江を禦ぐゆえん、九江を守るのは金陵を守るゆえんである。
  • 淮には史可法が屹然と保障している。九江の一郡には重臣を置いて鎮めさせ、上は武昌に至り、下は太平・采石・浦口に至るまで、南京兵部の大臣に牙を建て閫を分けさせて声援を接がせれば、金陵の門戸は固くなる。
  • 南京兵部には重兵があるが用いる術がなく、操江は兵を用いようにも人がない。緩急互いに応ずるようにさせ、府尹・府丞の官はその権を重くし任を久しくして、百萬の士民の心を聯ね、兵部・操江の責を分かたせるべきである。
  • 帝は嘉納し、九江總督を設けた。
  • また、兵の定員がすでに欠けているので衞所の官舍の餘丁で伍を補って操練させ、兵船を修理整備して防禦に資し、定額の餉が足りなければ暫く鹽課・漕米を借りて支給すべきだと言った。条奏はみな時務に切実なものであった。

京師の城守論と殉節(崇禎十七年)

  • 翌十七年(1644年)三月、賊兵が東へ進み、偉は閣臣に語った――事は急である。速やかに大僚を遣って畿内の郡を守らせよ。都中の城守は、文は内閣から、武は公・侯・伯以下、各々子弟を率いて地を分けて守り、庶民は紳士が統率し、家ごとに自ら守り、京軍は番を分けて巡邏して勤王の師を待つべきである。
  • 魏藻徳は笑って「大僚に畿輔を守らせるとて、誰が肯んじよう」と言った。偉は「これが何という時か。なお尊卑を較べて安危を計るのか。一つの難治の郡をお委せ願いたい」と言ったが、藻徳はその早計を嗤った。
  • まもなく真定遊擊の謝加福が巡撫の徐標を殺して賊を迎えた。偉は泣いて「事はここまで来たか」と言い、友人に書を寄せた。曰く、賊は真定に拠り、奸人は都城に満ち、外郡の上供の絲・粟は届かず、諸臣には危亡を支えられる者が一人もいない。聖主をどうお助けすればよいのか。平時に国を誤った人々は終日、門戸のことばかり言って朝廷を顧みなかった。今どこでその狂喙を伸ばすというのか。
  • 賊が都城に迫り、守兵は餉が乏しくて食えなかったので、偉は餅餌を買って送った。
  • やがて城が陥ち、偉は寓に帰って継室の耿氏に幼子をよく育てるよう語った。耿氏は泣いて「私だけが公に従って死ねないのですか」と言い、幼子をその弟に託し、新しい衣を上下縫い合わせて着、刀を引いて自ら首を刎ねたが死にきれず、さらに縊れて絶命した。時に年二十三。偉は欣然として「これで我が志が成る」と言い、その屍を堂に移し、子の観に書を遺して忠孝に励めと勧め、そして自経した。
  • 少詹事を贈られ、諡は文烈。本朝は諡文毅を賜った。