出自と刑科での上言
- 字は和受、江西新昌の人。父の之才は西安府同知。甘來は兄の泰來とともに郷試に挙げられ、崇禎の改元の年(1628年)に甘來が進士となって中書舍人を授かった。三年後に泰來も進士となり南京太常博士を授かった。
- 五年(1632年)甘來は刑科給事中に擢かれた。
- 七年(1634年)西北が大旱で秦・晉の人が互いに食い合った。粟を発して振うよう疏請し、あわせて言った――山西總兵の張應昌らは難民の半ばを殺して功を冒している。中州の諸郡は曹變蛟の兵を賊よりも畏れている。陛下が生かそうとされても武臣が殺して顧みない。臣は実に心を痛める。
- また言う――賞罰は将を将いる大いなる機権である。陛下は辺陲に意を用い、賞に遅滞はない。しかるに紅夷の献俘では黔・蜀が功を争い、昌黎の死守は功がなお勘定を待っている。急なときはその死を守る働きを用い、緩やかなときは文法で束ねる。かつ封疆の罰は武と文で二つに分かれ、内と外で二つに分かれ、人卒と将帥で二つに分かれる。命を受けて牙を建てた者は逮えられたり逐われたりして封疆の罪に問われるのに、跋扈する将帥は罪状がすでに露わでも戴罪に止まる。偏裨は士卒を令することができず、将帥は偏裨を令することができず、督撫は将帥を令することができない。賊が自ずから来て自ずから去るに任せるのなら、誰が陛下のために凶逆を翦るのか。
戸科都給事中としての言と殉節
- 喪で帰り、服喪を終えて吏科に起ち、兵科右給事中に進んだ。休暇を乞うて帰郷。
- 十五年(1642年)起用されて戸科都給事中を歴任した。中外に事変が多く、荊襄の数郡では賊が来る前に撫・道の諸臣が藩を護るという名目で去った。甘來は「それでは地方を棄てて逃げるのだ。城社と人民は誰と守るのか」と言い、上疏した。
- 天子が親族を多く封建するのは屏藩とするためであり、故に「宗子は維れ城」という。ところが烽火がわずかに伝わるや一朝にして棄てて去り、それを民の望みだと称し、諸臣はなお喧しく擁衛したことを自らの功として失地の罪を掩っている。これでは維城たる藩王は留まるも去るも可なる人となり、名都は守るも棄てるも可なる土地となり、撫・道は有っても無くてもよい官となる。功罪が明らかでなく賞罰が著明でないこと、これより甚だしいものはない。
- 疏が入り、帝は大いに嘉歎した。
- ある日、帝が戸部尚書の倪元璐に餉額を詰問したとき、甘來は「臣の科は戸曹と表裏をなす。餉は帳簿に按じて調べられる。臣が憂えるのは、兵が賊を聞いて逃げ、民が賊を見て喜ぶことである。餉が無い患いではなく、民が無い患いを恐れる。急いで賦税を軽くして人心を収めるべきである」と言い、帝は頷いた。
- 甘來は病を得て続けて休暇を請い、たまたま帝が編修の陳名夏に戸科を掌らせよと命じたので、甘來は交代が得られたことを喜んだ。数日せずして賊が都城に迫った。
- 時に泰來は禮部員外郎であった。甘來は兄に帰って母に仕えるよう託し、自らは必ず死ぬと誓った。
- 翌日、城が陥ちた。御駕が南へ幸したと言う者があったが、甘來は「主上は明決であられる。必ず軽々しくは出られない」と言った。疾く皇城に走ったが入れず、返って机上の疏の草稿を検べ、「賊寇が縦横しているとき、いたずらに議論を持していても毫末の益もない」と言ってすべて取って焼き、「後世の名を釣ってはならぬ」と言った。そして縊れて死んだ。
- 太常卿を贈られ、諡は忠節。本朝は諡莊介を賜った。