遅い登第と気節
- 字は復禮、杞縣の人。萬厯中に郷試に挙げられたが、会試には十度も赴き、崇禎七年(1634年)に至って初めて及第した。廷対で帝が親しく第一に擢き、宮に還って喜んで「朕は今日、一人の耆碩を得た」と言った。修撰を拝した。ますます学に勤め、それにふさわしい人でなければ交わらなかった。
- 十二年(1639年)春、畿輔に警報があり、疏を上げて、士気を作興し、窮民を憐れみ、良吏を選び、出師の期を定め、賞罰を信にし、脅されて従った者を招く、の六事を陳べた。
- 南京司業・左中允・右諭徳を歴任し、経筵に入侍して東宮講官を兼ねた。楊嗣昌が奪情で入閣したとき、理順は朝廷で公然と論じたので、嗣昌はその講官の職を奪った。
- 開封が陥ちかけたとき、理順は河北に重臣を置いて敢死の士を練り後図とすべきだと建議したが、疏は差し止められて行われなかった。
- 嗣昌・薛國觀・周延儒が代わる代わる政権を握ったが、理順は一つも寄り附かなかった。温體仁の門から出た身であったが、言論は少しも迎合しなかった。
京師陥落と殉節
- 賊が京師を犯し、守卒は餉を欠き、陰雨の中で飢え凍えた。理順は朝房に詣って諸執政に急ぎ内帑を請うよう語ったが、衆は唯唯とするばかりであった。理順は太息して帰り、家財を捐じて城を守る卒を犒った。
- 僚友が進退を問うと、正色して「存亡は国と一つである。なお商量の余地があるか」と言った。
- 城が破れ、妻の萬氏と妾の李氏が先に死ぬことを請い、絶命した。理順は大書して「成仁取義は孔孟の伝えるところ、文信(文天祥)はこれを践んだ。我がなぜそうしないでいられよう」と書き終えて縊れた。年六十三。僕四人もみな従死した。
- 群盗の多くは中州の人で、弔いに入って「これは我らの郷、杞縣の劉狀元だ。郷にあって徳が厚かった。なぜ急に死んだのか」と言い、居並んで拝し号泣して去った。
- 後に詹事を贈られ、諡は文正。本朝は諡文烈を賜った。