明史卷二百六十六 列傳第一百五十四 周鳳翔

経歴と殉節

  • 字は儀伯、浙江山陰の人。崇禎元年(1628年)進士、庶吉士に改められ編修を授かり、南京國子司業に遷った。靈璧侯の奴僕が諸生を辱めたとき、鳳翔はこれを捕らえて法司に付した。
  • 中允・諭徳を歴任し、東宮講官となった。かつて平臺で召対して滅寇の策を陳べ、言論は慷慨で帝は悚然として聴いた。
  • 軍需が急となり間架錢の課税が議されたとき、鳳翔は「事ここに至れば急いで人心を収めるべきである。なお民財を括り取って国勢を揺るがしてよいのか」と言った。
  • まもなく京師が陥ち、莊烈帝は社稷に殉じた。御駕が南へ幸したとの誤報があり、鳳翔は帝の所在を知らず朝廷に趨り入ったところ、魏藻徳・陳演・侯恂・宋企郊らが群れをなして入り、賊の李自成が御座を占めて朝賀を受けていた。鳳翔は殿前に至って大いに哭し、急いで左掖門から趨り出た。賊も咎めなかった。
  • 邸に帰り、二親に辞する書を作り、壁に詩を題して自経した。詩に「碧血九原 聖主に依り/白頭の二老 忠魂を哭す」とあった。天下の人がこれを悲しんだ。帝の崩御からわずか二日後であった。
  • 後に禮部右侍郎を贈られ、諡は文節。本朝は諡文忠を賜った。