明史卷二百六十六 列傳第一百五十四 吳麟徵

出自と初任

  • 字は聖生、海鹽の人。天啟二年(1622年)進士、建昌府推官に除せられる。豪猾を捕らえ劇盜を捕らえ、治績の評判が日に日に聞こえた。
  • 父の喪で帰り、興化府に補せられた。廉直・公平で威があり、僚属は私事を持ち込めなかった。

諫垣での建言

  • 崇禎五年(1632年)吏科給事中に擢かれ、内臣の派遣を罷めるよう請うた。曰く、古は内臣を用いて乱に至り、今は内臣を用いて治を求めている。君が臣に対するのは父が子に対するようなもの。僕従を信じて子を捨て、家を治める道理はない。
  • また言う。民を安んずる本は守令にある。郡守が廉であれば県令は貪らず、郡守が慈であれば県令は虐げず、郡守が精明であれば県令は叢脞にならない。宣宗が况鍾を用いた故事に倣い、精選して礼をもって遣り、璽書を重ねて便宜を許し久しく任じ、民生の疾苦と吏治の善悪を自ら天子に達せられるようにすべきである。当時これは行われなかった。
  • 麟徴は諫垣にあって直言の声望が甚だ著しかった。
  • やがて上疏して父を葬るための休暇を乞うた。去るにあたり言路に公掲を贈った。曰く、言官が自ら軽んじられて以来、廟堂ではしばしばその言を逆にして用いる。奸人はこの意を見て取り、公然と君父に告げて朋党呼ばわりし、自らは孤立と称する。下は公論に背き、上は主上の権を竊むものだ。諸君子は沾沾たる自負の意をことごとく捨て去り、その罠に落ちて清流の禍をこの明るい御代に再び現出させてはならない。
  • 久しくして還朝し、吏部尚書の田維嘉の贓汚を弾劾して罷めさせた。再遷して刑科給事中。継母の喪に服し、服喪を終えて吏科都給事中となった。
  • 当時、賄賂が公然と行われ、銓曹の資格制はすべて廃れていた。麟徴の上言――年を限って平等に配するのは銓政の弊ではあるが、これを捨てては中程度の才を待遇する手立てがない。今は遷転が流れるように早く、資格に循わないので、巧みな者は速やかに昇り、拙い者は積み上げた薪の下になる。奔競の門を開くだけで軍国の計には益がない。帝は深くこれを然りとした。

西直門の防衛と殉節(崇禎十七年)

  • 十七年(1644年)春、太常少卿に推された。まもなく賊が京師に迫り、麟徴は命を奉じて西直門を守った。門は賊の攻撃の要衝に当たった。賊が勤王の兵と詐って入城を求め、中官が入れようとしたが、麟徴は許さず、土石で門を堅く塞ぎ、死士を募って城壁から縄で降ろして襲撃させ、多く斬獲した。
  • 賊の攻撃がいよいよ急となり、麟徴は朝に趨り入って帝に見え事を申し上げようとしたが、午門で魏藻徳が麟徴の手を引いて「国家は天の福があり、必ず他の憂いはない。旦夕のうちに兵と餉が集まる。公は何をそう急くのか」と言い、引いて出した。そこで西直門に戻った。
  • 翌日、城が陥ちた。邸に帰ろうとしたがすでに賊に占拠されていたので、道傍の祠に入り、家人への訣別の書を作った。曰く、祖宗二百七十余年の宗社が一日にしてここに至った。上には亢龍の悔い、下には魚爛の殃があるとはいえ、身は諫垣に居りながら匡救するところがなかった。法として服を剥がれるべき身である。殮には角巾・青衫を用い、単衾で覆って我が哀しみを表せ。
  • 帯を解いて自経したが家人に救われて蘇生した。皆が泣いて「祝孝亷が来るのを待って一別してからでは」と請い、許した。祝孝亷は名を淵といい、かつて劉宗周を救って下獄した、麟徴と親しい人である。
  • 翌日、淵が至った。麟徴は慷慨して「登第したとき、隠士の劉宗周が文信国(文天祥)の零丁洋の詩を吟ずる夢を見たのを憶えている。今や山河は砕けた。死なずして何とする」と言い、酒を酌んで淵と別れ、自経した。淵は含殮を見届けて去った。
  • 兵部右侍郎を贈られ、諡は忠節。本朝は諡貞肅を賜った。

寧遠撤兵の議

  • 賊が山西を陥れたとき、薊遼總督の王永吉が、寧遠の吳三桂の兵を撤して関門を守らせ、士卒を選んで西へ行かせて寇を遏め、京師に警報があれば旦夕のうちに援けられるようにと請うた。天子はその議を廷議に下し、麟徴は深く賛成した。
  • しかし輔臣の陳演・魏藻徳は不可とし、「故なく地二百里を棄てることになる。臣はその咎を負うに堪えない」と言い、漢が涼州を棄てた例を証拠に引いた。麟徴はさらに数百言の議を作ったが、六科は署名せず、独りで疏を上げて直言したが省みられなかった。
  • 烽煙が大内にまで届くに及んで、帝は初めて麟徴の言を用いなかったことを悔い、旨を永吉に下した。永吉は馳せて関を出、寧遠の五十萬の衆を移したが、日に数十里しか進めず、十六日に入関、二十日に豐潤に至ったときには京師はすでに陥ちていた。
  • 城が破れて諸門は一斉に開いたが、ただ西直門だけは堅く塞がれていて通れず、五月七日に民夫を集めて掘り返してようやく開いた。