明史卷二百六十六 列傳第一百五十四 馬世竒

篇首の立伝者一覧

  • 馬世竒
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  • 周鳳翔
  • 劉理順
  • 汪偉
  • 呉甘來
  • 王章
  • 陳良謨
  • 陳純徳
  • 申佳允
  • 成徳
  • 許直
  • 金鉉

出自と経歴

  • 字は君常、無錫の人。祖父の濂は進士で桂林知府。世竒は幼くして頴異、学を好み文名があった。
  • 崇禎四年(1631年)進士。庶吉士に改められ編修を授かる。
  • 十一年(1638年)帝が詞臣を分けて諸藩に諭旨を伝えさせたとき、世竒は山東・湖廣・江西の諸王府へ使いし、行く先々で贈り物を却けた。帰って左諭徳に進む。父の喪で郷里に帰り、久しくして還朝、左庶子に進んだ。

禦寇の献策

  • 帝はしばしば廷臣を召して寇を禦ぐ策を問うた。世竒の言――闖・獻の二賊のうち、獻は除きやすく闖は難しい。人心は獻を畏れて闖に附くが、それは闖に附いているのではなく、兵に苦しめられているのである。今、人心を収めるには、督撫・鎮將に勅して部伍を厳しく束ね、兵が民を虐げず民が兵に苦しまないようにすれば、乱は止められる。
  • 帝はその言を善しとし、詔を下して申飭した。
  • 寇の警報が日ごとに切迫し、召対のたびに諸大臣は一つの策も出せなかった。世竒は邸に帰るたびに太息して涙を落とし「事はもう為すべくもない」と言った。

城陥と殉節(崇禎十七年)

  • 十七年(1644年)三月、城が陥ちた。世竒はちょうど朝食中で、箸を投げて起ち、帝はどこにおられるか、東宮と二王はどこかと問うた。帝はすでに出城したと言う者、崩じたと言う者、東宮と二王が捕らえられたと言う者があった。世竒は「ああ、私が死なずしてどこへ行こう」と言った。
  • 僕が「太夫人(母君)はいかがなさいます」と言うと、世竒は「まさにその太夫人を辱めることを恐れているのだ」と答えた。
  • 自経しようとしたところ、二人の妾、朱氏と李氏が盛装して前に出た。世竒が訝しんで「私が死ぬので暇乞いに来たのか」と問うと、「ご主人が節に殉ぜられると聞き、私ども二人は従死しに参りました」と答えた。世竒は「そういうことか」と言った。二妾はともに自経し、世竒は端坐して帛を引き、自ら力をこめて縊れて死んだ。
  • これより先、兵部主事の成徳が死のうとして世竒に書を贈り、慷慨と従容の二つの義について質した。世竒は答えて「励めよ元升。我らは危うきを見て命を授ける者だ。私がその難きを為さねば誰が為すのか。君と手を携えて黄泉へ行こう。この盟をあらかじめ約し、息壤の誓いを忘れまい」と言った。

人となり

  • 修頤・廣顙・揚眉・大耳の相であった。名行を砥き、館閣にあって声望があり、後進を推奨するのを好んだ。
  • 人となりは廉であった。父が死んだとき、蘇州推官の倪長圩が贖鍰三千で喪を助けようとしたが、世竒は辞して「蘇州は飢饉である。これを留めておけば振恤に使える」と言った。
  • 座主の周延儒が再び宰相となったとき、世竒は同郡であるがゆえに嫌疑を遠ざけ、服喪を終えても都に赴かなかった。還朝したときには延儒はすでに賜死されており、親しかった者はみな避け去ったが、世竒はその喪を取り仕切った。その義を好むことはこのようであった。
  • 禮部右侍郎を贈られ、諡は文忠。本朝(清)は諡文肅を賜った。