言官としての建言
- 凌義渠は字を駿甫といい、烏程の人。天啓五年(1625年)の進士、行人に除せられた。崇禎三年(1630年)、禮科給事中に授けられ、知って言わぬことがなかった。
- 三河知縣の劉夢煒が餉銀三千を失い、償いを急に責められて自縊して死に、有司がその家に責め立てたので、義渠は「金銭のために命を落としたのです。天下が、朝廷は金を重んじると議するのを恐れます。心は盗にあったのではありません」と言い、帝は特にこれを許した。
- 宜興・溧陽および遂安・壽昌で民が乱れ巨室を焚掠したとき、義渠は言った——魏の羽林軍が領軍張彝の邸を焼いたとき、高歓は天下の事が知れると考えた。近ごろ、告密がしだいに開かれ、藩国の悍宗が入京し、里閭の小事を越級して奏し、閽に叫んで寃を訴え、僕豎が家長を侮り、下吏が上官を鉗し、市儈が縉紳を握っている。これは『春秋』にいう六逆である。天下が治まるのは上下の分に恃むのであって、防維が決裂すれば、九重はいったい何によって万霊を提挈できようか。
言路・軍務をめぐる争論
- 義渠は温體仁と同郷であったが附くところがなかった。給事中の劉含輝が體仁の擬旨の失当を弾劾して二秩を貶されたとき、義渠は「諫官が執政の失を正せず、申飭の権を部院に委ねれば、かえって言路を制せられる。大臣は権を攬るのを奉旨とし、小臣は舌を結ぶのを尽職とするようになり、国家に無窮の憂いを残す」と言った。
- 兵部尚書の張鳳翼が廃将の陳壯猷の功を叙して給事中の劉昌に駁され、昌がかえって斥けられたとき、義渠は「今は上下がことごとく互いに眩まし合い、疆場の欺蔽が甚だしく、官の任用はことごとく濫で武弁の倖功が甚だしい。中樞が職を尽くさぬのに、その大を捨ててその細を摘むだけでも言う者の恥じるところなのに、弁疏がひとたび入れば調用がそれに随う。今より奸弊が叢生し功罪が倒置すれば、言う者は口を閉ざす」と言ったが納れられなかった。
- 三たび遷って兵科都給事中。東江は毛文龍の後、叛く者が相継いだ。義渠は「東島は海外に孤懸し、餉を転送するのが難しく、かねて朝鮮に仰いでいたが、今は路が絶えて食を得られず、内から潰えるのが慮られる」と言った。いくばくもなく衆は果たして潰え、帥を挟んで撫を求めた。義渠は「陽に撫し陰に剿せば、悪を同じくする者は必ず互いに傷つけ合う」と言った。新帥に海へ出るよう命じたときは「渠魁を殲し党を散ずるのは速やかにすべきで、速やかならば功を図れるが、遅ければさらに他の釁を生ずる」と言った。後にその語はいずれも的中した。
大理卿と殉節
- 義渠は諫垣に居ること九年、建白が多かった。吏科給事中の劉安行がこれを憎み、年例で義渠を福建参政に出した。まもなく按察使に遷り、山東右布政使に転じ、至る所で清操があった。召されて南京光禄寺卿を拝し、應天尹の事を署理した。十六年(1643年)、入って大理卿となる。
- 翌年三月(1644年)、賊が都城を犯し、召対の旨があって長安門に趨り赴いたが、朝になっても扉が開かず、まもなく城が陥ちたと伝えられた。還ってから帝の崩を聞き、牆を背にして哀号し、まず柱に頭を打ちつけて血が顔を被った。門生が死なぬよう勧めると、義渠は厲しい声で「お前は道義をもって励ますべきだ。何を姑息するのか」と言い、手を振って去らせ、几に拠って端坐し、生涯好んだ書籍を取ってことごとく焼き「賊の手に汚させぬ」と言った。翌朝、緋衣を着けて闕を拝し、書を作って父に別れを告げ、自ら縛して身を奮い、喉を絶って死んだ。年五十二。刑部尚書を贈られ忠清と諡された。本朝は忠介を賜諡した。
史論
- 贊に曰う。范景文・倪元璐らはみな莊烈帝の腹心の大臣で、ともに社稷を図った者である。国が亡ぶとともに身も亡んだのは正しい。当時、顔を厚くし節を屈して僥倖に生き延びようとした者の多くは刑掠を被って死に、身も名も倶に裂け、詬りを残すこと限りがなかった。しかるに景文らは義烈を千秋に樹て、褒揚を本朝に受け、名は日月と光を争う。彼とこれとを比べれば、その隔たりと得失はいかばかりであろうか。