明史卷二百六十五 列傳第一百五十三 李邦華

李邦華(字は孟闇、?–1644年)。吉水の人で、同郷の鄒元標に学び、そのゆえに東林と目されて再三排斥された。萬厯末には福王の莊田増給の伝旨に最初に諫争し、浙江巡按として中官の奸を極論した。崇禎初年に戎政を協理して京営の占役・虚冒を洗い出し、軍額と餉額を定めて壊れきった京営を立て直したが、利を失った者に怨まれて罷免された。晩年は南京兵部尚書・左都御史として江防を建策し、東下する左良玉の潰兵を大義で鎮めた。京師陥落に際して太子の南都監国を密請したが容れられず、文天祥の祠で自ら縊れた。忠文と諡された。

年表(17件)

出自と法祖用人の十事

  • 李邦華は字を孟闇といい、吉水の人。同じ里の鄒元標に受業した。父の廷諫とともに萬厯三十一年(1603年)の郷試に挙がり、父子互いに切磋し、布衣・徒歩で公車に赴いた。翌年(1604年)、邦華は進士に成り、涇縣知縣に授けられて異政があった。行取されて御史に授けられるはずだったが、党論が起こり始めた時で、朝士の多くが顧憲成を詆るのに邦華が突っ張ったため、東林と指目され、二年越しでようやく拝命した。
  • 「法祖用人」の十事を陳べた——内閣は詞臣を専用すべきでない、詞臣は館局を専守すべきでない、詞臣は内書堂を教習すべきでない、六科都給事中は内外で隔てられるべきでない、御史の陞遷は一概に考満で論ずべきでない、吏部の乞假は積み重ねて正郎に至らせるべきでない、関・倉の諸差は挙貢・任子を専用すべきでない、調簡の推知はにわかに京秩に遷すべきでない、進士の改教は一概に内転に従わせるべきでない、辺方の州県はことごとく郷貢を用いるべきでない。疏が上ったが報ぜられなかった。

福王の莊田と浙江巡按

  • 四十一年(1613年)、福王の之藩にすでに期日が定まっていたのに、突然「莊田は必ず四万頃を足せ」との伝旨があった。廷臣は顔を見合わせて愕き、田数が満たなければ期日がまた変わると計ったが、あえて抗言して争う者がなかった。邦華が最初に疏諫し、廷臣も相継いで争って、期日は変わらずに済んだ。
  • 銀庫を巡視して弊を祛る十事を上ったが、中官の不便とするところで格して行われなかった。
  • 浙江を巡按した。織造の中官劉成が死に、その事を有司に帰すよう命じられたのに、別に中官の吕貴を遣って成の遺した資財を録させた。貴は奸民の紀光を嗾けて機戸と詐称させ、闕に詣らせて、貴が成に代わって督造することを保留させようとした。邦華は二人が交わり通じて奸をなした罪を極論し、紀光の疏が通政を経ず内閣にも下されずに中旨で行われたことを三度疏して争ったが、いずれも報ぜられなかった。
  • このころ神宗は貨を好み、中官に進奉するものがあって「孝順」と名づけられていた。疏中にこれを刺し、あわせて左右の大奄の党である貴を弾劾した。そのため任期が満ちても久しく交代を得られず、四十四年(1616年)に病と称して帰った。

東林と目されて排斥される

  • 当時、群小が力めて東林を排して鄒元標を党魁と指した。邦華は元標と同郷で師友であり、また性として黒白を分けるのを好んだ。ある人が世に随うよう勧めると、邦華は「偏枯の学問となっても、反覆の小人にはならぬ」と言い、聞く者はますます嫉んだ。
  • 翌年(1617年)、年例で出て山東参議。その父の廷諫は当時南京刑部郎中であったがやはり罷帰していたので、邦華は疾と辞して赴かなかった。
  • 天啓元年(1621年)、故官に起こされて易州の兵備を飭え、翌年(1622年)光禄少卿に遷り、すぐ家に還って父を省みた。四月、右僉都御史に擢でられ畢自嚴に代わって天津を巡撫した。軍府は新設で庶務は草創だったが、邦華が着任して極力振飭し、津門の軍は諸鎮の筆頭となった。兵部右侍郎に進み、また家に還って父を省みた。
  • 四年夏(1624年)、都に着くと奄党が大いに騒ぎ、「樞輔の孫承宗が萬壽節に入覲して君側の悪を清めようとしており、実は邦華がこれを召んだのだ」と言った。そこでただちに承宗に鎮へ還るよう勒し、邦華は病と称して去った。翌年秋(1625年)、奄党が弾劾してその官を削った。

戎政協理と京営の粛清

  • 崇禎元年四月(1628年)、工部右侍郎に起こされて河道を総督し、まもなく兵部に改まって戎政を協理した。還朝して召見され、まもなく武会試の事を掌り、終わって営に入った。故事、冬至の郊祀では隊を列ねて蹕に扈するのに軍八万五千人を用いたが、このときは十万有余に増えた。ちょうど郊の総督にあたる勲臣が欠けていたので邦華がその事を兼ね摂り、設けた雲輦・龍旌・寶纛・金鼓・旗幟・甲冑・劍戟は煥然と一新し、帝は悦んだ。翌年春(1629年)、学に幸するときも同様にし、兵部尚書を加えるよう命じられた。
  • 当時、戎政は大いに壊れていた。邦華はまず九事を陳べた——操法を更める、揀選を慎む、戦車を改める、火薬を精しくする、器械を専らにする、典守を責める、金銭を節する、兌馬を酌る、大礮を練る。
  • 京営にはもとより占役・虚冒の弊があった。占役とはその人が諸将に使役されるもので、一小営で四五百人に達し、そのうえ賣聞・包操の諸弊があった。虚冒とはその人が存在せず、諸将および勲戚・奄寺・豪強が蒼頭を選鋒・壮丁と偽って月々厚い餉を受け取るものである。邦華は占役一万を洗い出して還し、虚冒千三百を清めた。
  • 三大営の軍十余万は半ばが老弱で、故事では軍が欠ければ告補を許したが、おおむね賄で得ていた。邦華は必ず自ら校べ、年壮力強でなければ録さず、これより軍の冒濫が少なくなった。
  • 三営の選鋒は一万、壮丁は七千で、餉は他軍の倍なのに疲弱は変わらなかった。邦華は令を下し、把総ごとに兵五百につき月に自ら五人を選び、年は必ず二十五以下、力は必ず二百五十斤以上、技は必ず弓矢と火礮を兼ねる者とし、月に一度解送して選鋒・壮丁の欠を補わせた。これより人々が奮い立った。
  • 三大営は六副将を領し、さらに三十六営に分かれ、官は三百六十七人。用いる掾史はみな年季の入った狡猾者だったので、邦華は十余人を罪に按じ、また一年に二度の考察の令を行い、これより諸奸は戢まった。
  • 営馬の額は二万六千だったが、このときは一万五千に止まっていた。他官が公事で借騎するほか、総督・協理および巡視の科道には例として坐班馬があり、不肖の者はさらにそれを換金して懐に入れたので、営馬は大いに耗した。邦華はまず自分の班馬を三分の一減らし、他官が馬を借りるのは公事でなければ騎けぬこととし、これより濫借は稀になった。
  • 京営は歳ごとに太僕銀一万六千両、屯田籽粒銀一千六十両を受け、犒軍・製器・胥徒の工食をここから取っていたが、各官が際限なく取るので歳用が足りなかった。邦華は建議して、まず協理が歳に千四百を取り、総督・巡視は順に節減することとし、これより営の帑は裕かになった。
  • 営将三百六十、聴用の者もこれに準じ、一官が欠けると請託が紛々と至ったが、邦華はことごとくこれを杜絶した。「計日省成」の法を行い、小営ごとに簿を置いて月ごとに事状を協理に上げて優劣を定めた。
  • 旧制では三大営のほかにさらに三備兵営を設け、営は三千人、餉は正軍並みなのに技撃を習わず、いっそう豪家の隠冒の場となっていた。邦華は四千余人を洗い出して去らせ、また老弱千人を汰し、三大営に併せて別に設けぬよう疏請した。これによって戎政は大いに整った。
  • 倉場総督の南居益が「京営の歳支は米百六十六万四千余石で、萬厯四十六年に比べ五万七千余石増えているから減省すべきだ」と言い、邦華はそこで議を上げて、軍は十二万を額とし、餉は百四十四万石を額とし、歳に二十二万有余を省くこととし、帝も可と報じて令とした。
  • 帝は邦華の忠を知って奏に従わぬことがなく、邦華もまた帝の知遇に感じて後患を顧みなかったので、利を失った者たちは骨に徹して恨み、怨謗が紛然と起こった。

畿輔の戒厳と罷免

  • その年十月(1629年)、畿輔が兵を被り、精卒三千を選んで通州を守らせ、二千で薊州を援け、自ら諸軍を城外に督して軍容は甚だ壮んだった。にわかに邦華の軍を撤して還らせ城壁を守れとの命があり、これより偵者は遠く出られず、消息が絶えた。そこで寇賊を防ぎ、間諜を捕らえ、奸宄を散じ、譌言を禁ずるよう請うた。邦華は警を聞いてから衣の帯を解かず、私財を捐じて礮車および諸火器を造り、また外城が単薄なので自ら出て守ることを請うた。
  • しかし不逞の徒が蜚語を構えて大内に入れ、襄城伯の李守錡は京営を督していたが邦華に自分を扼されたのを恨み、隙に乗じて詆り誹った。邦華は自ら危ぶんで上疏陳情し、身を帝の命にゆだねた。
  • ちょうど満桂の兵が大清兵を德勝門外に拒んだとき、城上が大礮を発して桂を助けようとして、誤って桂の兵を多く傷つけた。都察院都事の張道澤が遂に邦華を弾劾し、言官がかわるがわる章を上げて論列し、遂に邦華は罷められ閒住となった。これより代わる者は戒めとして、おおむね因循姑息し、戎政は問うべくもなくなった。

南京兵部尚書と江防の建策

  • 邦華は前後の罷免で家に居ること二十年、父の廷諫は無事であった。十二年四月(1639年)、南京兵部尚書に起こされ、営制を定め、急を要さぬ将を汰し、分けて設けられた営を併せた。
  • 「江南を守るのは江北を守るに如かず、下流を防ぐのは上流を防ぐに如かず」と言い、浦口から滁・全椒・和を歴て形勢を相し、図に描いて献じた。浦口には沿江の敵台を置き、滁には戍卒を設け、池河には城垣を建て、滁・椒の咽喉には藕塘に堡を築いた。和は屠戮に遭ったので太平に隷するよう請い、また采石の山に開府し、太平の港に哨を置き、当塗の閒田数万頃を大いに墾いて軍儲に充てるよう請うた。徐州は南北の要害で水陸が交わる地であるから、重兵を宿し総督を設け、一片の檄で徴調して陵京万全の勢を定めるよう請うた。いずれも所司に下されたが行われないうちに、父の憂で去った。

左良玉の潰兵を鎮める

  • 十五年冬(1642年)、故官に起こされて南京都察院の事を掌り、まもなく劉宗周に代わって左都御史となった。都城が兵を被ると即日、東南の援兵を督して入衛することを請い、病を押して道に上った。
  • 翌年三月(1643年)、九江に着くと、左良玉の潰兵数十万が餉が乏しいと声言して帑を南京に寄せようとし、艨艟が江を蔽って東下していた。留都の士民は一夜に何度も居を移し、文武の大吏は顔を見合わせて愕くばかりだった。邦華は歎じて「中原で安静な土地は東南の一角だけだ。身は大臣でありながら決裂を坐視し、袖手して局外に去るに忍びようか」と言い、舟を停めて檄を草し、良玉に告げて大義で責めた。良玉は気が沮み、答書の語はかなり恭しかった。邦華は便宜をもって九江の庫銀十五万を発してこれに餉し、自らその軍に入って誠を開いて慰労した。良玉およびその配下はみな感激して賊を殺し国に報いようと誓い、一軍は遂に安んじた。
  • 帝はこれを聞いて大いに喜び、陛見して嘉労した。邦華が跪いて奏するあいだ、しばしば詔して起立させ、温かな語は家人に対するようであった。中官は息を屏めて遠く後ろに伏した。百官を召対するときも、帝はいつも邦華に目を注いだという。
  • 旧例では御史が巡按から回道して考覈されたが、邦華は「回道の後に黜けるのでは害政がすでに多い」として、巡按・巡鹽御史各一人を論罷し、命を奉じて御史を考試して冒濫の者一人を黜け、顕著な過はないが前任の推官のとき貪の評判が著しかった御史一人を追黜した。台中ははじめて法を畏れた。

南遷の策と殉節

  • 十七年二月(1644年)、李自成が山西を陥れ、邦華は密疏して、帝は京師を固守し、永樂朝の故事に倣って太子に南都で監国させるよう請うた。数日たっても命が下らないので、さらに定王・永王を太平・寧國の二府に分封して両京を拱護させるよう請うた。帝は疏を得て心が動き、殿を巡って歩きながら、読んでは歎じ、その言を行おうとした。
  • ちょうど帝が群臣を召対したとき、中允の李明睿が疏して南遷が便であると言い、給事中の光時亨が「言い触らして密を洩らした」と糾した。帝は「国君が社稷に死するのが正しい。朕の志は定まった」と言い、遂に邦華の策は罷んで議られなかった。
  • まもなく賊が都城に逼り、急ぎ内閣に詣って事を言ったが、魏藻德はぼんやりと「しばらく待とう」と応じた。邦華は太息して出た。のち諸御史を率いて城に登ろうとしたが、群奄が拒んで上れなかった。
  • 十八日、外城が陥ち、走って文信國(文天祥)の祠に宿った。翌日、内城も陥ちた。そこで信國に三たび揖して「邦華は国難に死にます。先生に九京にお従いさせてください」と言い、詩を作った——堂堂たる丈夫よ、聖賢を徒とす。忠孝の大節よ、死を誓って渝らず。危に臨んで命を授く、吾に愧じるところ無し。そのまま繯に投じて絶えた。
  • 太保・吏部尚書を贈られ忠文と諡された。本朝は忠肅を賜諡した。