明史卷二百六十五 列傳第一百五十三 倪元璐

倪元璐(字は玉汝、?–1644年)。上虞の人。天啓の末に魏忠賢が誅されたのち、東林を崔呈秀・魏忠賢と並べて詆った楊維垣に真っ向から反駁し、二度の上疏で清議を回復させた。逆璫の私書『三朝要典』を燬つよう請うてその板を焼かせ、のち「制実八策」「制虚八策」を上って温體仁を規切したため落職した。崇禎末に戸部尚書として餉目の統合や海運の試行など窮迫した財政の立て直しにあたったが及ばず、李自成に京師が陥ちると南に向かって自縊した。文正と諡された。

年表(10件)

出自と楊維垣への反駁

  • 倪元璐は字を玉汝といい、上虞の人。父の涷は撫州・淮安・荊州・瓊州の四府を知り、官にあって称賛された。天啓二年(1622年)、元璐は進士に成り庶吉士に改まって編修に授けられた。德府の冊封に赴き、病と称して帰った。還朝して江西郷試を典り、復命したときには莊烈帝がすでに践阼し、魏忠賢は誅に伏していた。
  • 楊維垣は逆奄の遺孽で、このとき上疏して東林と崔呈秀・魏忠賢とを並べて詆った。元璐は不平として、崇禎元年正月(1628年)に上疏した。

第一疏の趣旨

  • 章奏を閲するに、崔・魏を攻める者が必ず東林と並べて邪党と称している。東林を邪党とするなら、崔・魏を何と名づけるのか。崔・魏がすでに邪党であるなら、忠賢や呈秀を撃った者もまた邪党なのか。
  • 東林は天下の才藪である。高明の幟を樹て、人の過を繩すこと刻に過ぎ、持論が深すぎたとしても、中行ではないとは言えても、狂狷ではないとは言えない。かつ天下の議論は假借してでも名義を失ってはならず、士人の身の処し方は矯激であっても廉隅を忘れてはならない。假借・矯激を大きな咎とするから、彪虎の徒が公然と名義に背き廉隅を決裂し、頌徳して已まず勧進に至り、建祠して已まず呼嵩に至ったのに、人はなお「やむを得なかった」と寛くしている。この「やむを得ぬ、そうせざるを得なかった」という心を推し広げれば、何をしでかすか分からない。議者が忠厚の心でこの輩を曲げて原しながら、ひとり已甚の論で我らの徒を苛責するのは、道理が合わない。
  • 今、大獄ののち湯火のなかを僅かに生き残った者たちについて、しばしば明綸を奉じて酌み用いさせようとしているのに、当事者はなお道学・封疆をもって鉄案としている。報復を深く防ごうとしているのか。だが年来、東林を借りて崔・魏に媚びた者はおのずと敗れており、東林の報復を待つまでもない。崔・魏に附かず、しかも攻め去ることができた者はすでに喬嶽であり、東林が百あっても報復などできない。
  • また聖旨に「韓爌は清忠にして執がある、朕の鑑知するところである」とあるのを伏読したが、近ごろ廷臣の議に異同があるのは怪しむべきである。爌の相業は光偉で他は論ずるまでもないが、紅丸の議が起こって挙国が沸き立ったとき、爌ひとりが侃侃と条掲してそうでないことを明らかにした。孫慎行は君子であるが、爌はそれにさえ附かなかった。まして他人においてをや。しかるに今、推挙が及ばず点灼が横から加わるのは、ただ熊廷弼を票擬した一事のためである。廷弼はもとより誅せられるべきで、爌の言い分にも理はある。封疆の失事は累々としてあるのに、ひとり廷弼だけを殺そうとするのは平らかな論ではない。だから爌は筆を閣いたのだ。しかも廷弼は結局、封疆によって死んだのではなく局面によって死に、法吏によって死んだのではなく奸璫によって死んだ。ならば、後の人が廷弼を殺せて爌だけが殺せなかった、とも言えない。
  • また詞臣の文震孟は正学勁骨、古の大臣の品格があり、在官三月で昌言して罪を得た。人は羅倫・舒芬に比べる。今、起用の旨が再び下ったのに謬悠の議論が已まないのは、「門戸」の二字を再び持ち出せぬからか、話の端を変えて遮り抑えているのか。書院と生祠とは互いに勝負するものである。生祠が毀たれた以上、書院はどうして修復されないのか。

第二疏の趣旨

  • 当時、国を柄る者はみな忠賢の遺党だったので、疏が入ると論奏が不当だとして責められた。ここで維垣がまた疏して元璐を駁し、元璐は再び疏した。
  • 前の疏はもともと維垣のために発したものである。陛下の明旨に「門戸を分別するのは治の徴ではない」「異を化して同となす」「天下を公とする」とあるのに、維垣は孫党・趙党・熊党・鄒党の説を倡えている。陛下が方隅を化さぬところがないのに維垣だけが化さず、陛下が正気を伸ばさぬところがないのに維垣だけが伸ばそうとしない。
  • 維垣は臣が東林を盛んに称するのを怪しみ、東林がかつて李三才を推し熊廷弼を護ったからだと言う。だが東林には魏忠賢を力撃した楊漣、崔呈秀を首劾した高攀龍がいたのを知らぬのか。忠賢の窮凶極悪に対し、維垣はなお「厰臣は公である」「厰臣は銭を愛さぬ」「厰臣は国のため民のためを知る」と尊称した。それでどうして三才を責められようか。五彪・五虎の罪を刑官がわずかに削奪に擬したとき、維垣は駁正しなかった。それでどうして廷弼を誅せよと言えようか。
  • 維垣はまた臣が韓爌を盛んに称するのを怪しむが、爌が昭然と璫に忤らった大節を捨てておいて、利を罔るという莫須有の事を加えるのは、すでに公平を失している。廷弼の行賄の説に至っては、忠賢がそれを借りて清流を誣陥し、楊漣・左光斗ら諸人への追贓の口実にしたもので、天下の誰が知らぬものか。維垣はなおこの説を守るのか。
  • 維垣はまた臣が文震孟を盛んに称するのを怪しむ。震孟は璫に忤らって削奪された。その「破れ帽に驢馬」の姿は「蟒玉馳驛」の輩に傲ったもので、どうして非とできようか。維垣は数年来、破れ帽に驢馬の輩と、階を超え級を躐えた輩と、どちらが栄でどちらが辱かを見よ。この義が明らかでないから、破れ帽に驢馬を畏れる者は相率いて頌徳建祠し、蟒玉馳驛を希う者は父と呼び九千歳と呼んで恥じない。歎くに堪えようか。
  • 維垣はまた臣が鄒元標を盛んに称するのを怪しむ。都門で聚講したのを非とするのはよいが、元標の講学に他の下心があったとするのはいけない。当日、忠賢が諸人を駆逐し書院を毀廃したのは、まさに学士大夫の口を鉗して不義を恣にしたかったからである。元標が偽学として駆られてから逆璫は真儒を自任し、学宮のうちで儼然と先聖に揖して対等の交わりとした。元標ら諸人が在ったなら、どうしてここまで至ったか。
  • 維垣はまた臣の「假借矯激」の語を駁す。崔・魏の世に、人はみな任真率性のままに頌徳建祠した。もし一人でも假借矯激して頌せず建てぬ者があったなら、その人にこそ頼るところがあったではないか。維垣は「真の小人は貫が満ちるのを待って攻め去ればよい」と言うが、これは計ではない。貫が満ちるのを待てば、天下の事を敗壊すること言い尽くせず、攻め去っても遅すぎる。崔・魏の貫が満ちて久しかったが、聖明に遇わなければ誰が攻め去れたか。
  • 維垣は結局「やむを得なかった」を頌徳建祠の者の弁護とするが、これは訓とすべきでない。かりに呈秀ひとりが逆璫に舞蹈稱臣したとき、諸臣もやむを得ぬとして従ったのか。またかりに逆璫が兵で諸臣を劫して叛逆に従わせたなら、諸臣もまた靡然と従い「やむを得ぬ」としたのか。
  • 維垣はまた今日の忠直を崔・魏と対案にすべきでないと言うが、臣はまさに対案にすべきだと考える。人品は崔・魏に照らして定まる。東林の人で崔・魏に恨まれ、その牴触を畏れ才望を畏れて必ず殺し逐おうとされた者、これは正人である。東林を攻めた人でも、崔・魏に借りられながら勁節にして阿らず、あるいは遠ざけられ逐われた者、これもまた正人である。崔・魏で邪正を定めるのは、明鏡で妍媸を別つようなものだ。維垣はここに証を取らずして、どこに取るのか。
  • 要するに東林が逆璫に憎まれることひとり深く、禍を受けることひとり酷かった。今日はその抑えられた苦を曲げて原すべきで、その尺寸の瑕を毛挙して、逆璫に首功を帰し逆璫に代わって謗を分かつべきではない。これもまた論の立て方が善くない者である。
  • 疏が入ると、国を柄る者は互いに詆訾したものとして両者を解いた。当時、元兇は殛されたがその徒党はなお盛んで、あえて東林を頌言する者はいなかった。元璐の疏が出てから清議はしだいに明らかになり、善類もやや登進した。

『三朝要典』を燬つ

  • 元璐はまもなく侍講に進んだ。その年四月、『三朝要典』を燬つよう請うて言った。
  • 梃撃・紅丸・移宮の三議は清流のあいだで鬨されたものであるが、『三朝要典』一書は逆豎の手で成ったものである。その議は兼ね行ってよいが、その書は必ず速やかに燬つべきである。
  • そもそも事が起こり議が興って盈廷が互いに訟えたとき、梃撃を主とした者は力めて東宮を護り、梃撃を争った者は神祖を安んずる計であった。紅丸を主とした者は仗義の言であり、紅丸を争った者は原情の論であった。移宮を主とした者は変を機先に弭め、移宮を争った者は事後に平を保った。いずれもそれぞれ是があり、偏って非とすべきでない。要は、逆璫が用いられる前は、はなはだしく水火のようであっても塤篪の和を害さなかった。これが一つの局面である。
  • やがて楊漣の二十四罪の疏が発せられ、魏廣微らの門戸の説が興り、ここに逆璫は人を殺すのに三案を借り、群小は富貴を求めるのに三案を借りた。この二つの借用を経て三案はすっかり別物になった。ゆえに慈を推し孝を先皇に帰するのは正しいが、義父に頌徳称功するのは、また一つの局面である。
  • 網はすでに密なのになお遺れた鱗を疑い、勢いはすでに重いのに局面の翻ることを憂え、崔・魏の諸奸がはじめて私編を創り立てて『要典』と標題した。これで今日を批根すれば衆正の党碑となり、これで死を免れるなら他年の上公の鉄劵となる。これがまた一つの局面である。
  • こうしてみれば、三案は天下の公議、『要典』は魏氏の私書であって、三案は三案、要典は要典である。今これを金石不刊の論とする者は、まことに深く思っていない。臣が思うに、翻せば紛囂し、改めてもまた多事であり、ただ燬つのみである。
  • 帝は礼部に詞臣を集めて詳議させ、議が上ると遂にその板を焼いた。侍講の孫之獬は忠賢の党で、これを聞いて閣に詣って大哭し、天下が笑った。

制実・制虚の八策と落職

  • 元璐は歴遷して南京司業・右中允。四年(1631年)、右諭德に進んで日講官に充てられ、右庶子に進んだ。「制実八策」を上った——部を間插す、京邑を繕う、守兵を優す、降人を靖んず、寇餉を益す、辺才を儲う、輦轂を奠む、教育を厳にす。また「制虚八策」を上った——政本を端す、公議を伸ぶ、義問を宣ぶ、条教を一にす、久遠を慮る、激勧を昭かにす、名節を励ます、体貌を假る。
  • その「端政本」はことごとく温體仁を規切し、「伸公議」は張㨗が吕純如を薦めて逆案を翻そうと謀った事を詆った。㨗は大いに怒って上疏し力めて元璐を攻め、元璐は疏辨したが、帝はいずれも問わなかった。
  • 八年(1635年)、國子祭酒に遷る。元璐はかねて時望を負い、位もしだいに通顕となり、帝の意向も深かったので、體仁に忌まれた。ある日、帝が手ずからその名を書いて閣に下し履歴を進めるよう令じたので、體仁はますます恐れた。ちょうど誠意伯の劉孔昭が戎政を掌ろうと謀っていたので、體仁は孔昭を餌で釣って元璐を攻めさせ、「その妻の陳氏はなお存命なのに、妾の王氏を継配と冒し、礼を敗り法を乱した」と言わせた。詔して吏部に核奏させたところ、同郷の尚書姜逢元、侍郎の王業浩・劉宗周および従兄の御史元珙がみな「陳氏は過ちにより出され、継いで王を娶ったのだから妾ではない」と言い、體仁の意は沮まれた。部議は撫按に勘奏させることになったが、そのまま擬旨して「登科録に二氏が並び列しており罪跡は顕然である、勘を待つまでもない」とし、遂に落職・閒住となった。孔昭は京営を得られず、そのかわり南京操江を与えられた。

戸部尚書としての財政

  • 十五年九月(1642年)、詔して兵部右侍郎兼侍讀學士に起こされ、翌年春に都に着いて制敵の機宜を陳べ、帝は喜んだ。五月(1643年)、超えて戸部尚書兼翰林院學士を拝し、なお日講官に充てられた。祖制で浙人は戸部に官たりえないため元璐は辞したが許されなかった。帝の元璐に対する眷顧は甚だしく、五日に三たび賜対した。そこで「陛下がまことに臣を用いられるなら、臣が兵部の謀に参ずることをお許しいただきたい」と奏し、帝は「すでに樞臣に諭して卿と協計させている」と言った。当時、馮元飇が兵部にあって元璐と志を同じくし、兵と食を鈎考したので、中外は治平を想望した。ただ帝もまた両人を用いるのが晩く、時事はいよいよ手のつけようがなく、左を支えれば右が詘して、すでに如何ともし難かった。
  • 故事、諸辺の餉司はことごとく中差であったが、元璐は大差に改めて兵部の銜を兼ねさせ、軍伍を清核して不適任の者はただちに人を遣って代えさせるよう請うた。先にはしばしば科臣を遣って四方の租賦を督させていたが、元璐は民を擾すだけで益がないとして罷め、専ら撫按に責めさせた。戸部侍郎の莊祖誨が剿寇の餉を督したが、盗に劫されるのを憂えて遠く長沙・衡州へ避けたので、元璐は督撫が自ら催して朝使を煩わせぬよう請うた。軍興以来、正供のほかに辺餉・新餉・練餉があり、款目が多く黠吏が奸をなしやすかったので、元璐は合わせて一つにするよう請うた。帝はいずれも可と報じた。
  • 時に国用はいよいよ詘し、災傷による蠲免も多く、元璐は策の出しようがなく、贖罪の例を開き、かつ着任して満歳の者には資を輸させて封誥を給するよう請い、帝もこれに従った。
  • 先に崇明の人の沈廷揚という者が海運の策を献じ、元璐が奏聞して試行を命じ、廟灣の船六艘で運ばせた。一月余りして廷揚が元璐に会いに来たので、元璐は驚いて「私はすでに奏聞して、上には公はもう出発したと申し上げた。なぜここにいるのか」と言った。廷揚は「すでに行って、また戻ったのです。運は着きました」と答えた。元璐はまた驚喜して上に奏聞し、上も喜んで酌議を命じ、歳糧は艘漕と海運で各半分ずつとすることに議が定まって行われた。

京師陥落と殉節

  • 十月(1643年)、吏部の事を兼ね摂るよう命じられた。陳演は元璐を忌み、魏藻德に含めて帝に「元璐は書生で銭穀に習わぬ」と言わせた。元璐もしばしば解職を請うた。十七年二月(1644年)、原官のまま専ら日講に直するよう命じられた。
  • 一月余りして李自成が京師を陥れた。元璐は衣冠を整えて闕を拝し、几の上に大書して「南都はなお為すべきである。死は吾が分だ。衣衾をもって斂めるな、わが屍を曝して、いささかわが痛みを志せ」と記し、そのまま南に向かって坐り、帛を取って自縊して死んだ。少保・吏部尚書を贈られ文正と諡された。本朝は文正を賜諡した。