篇首の立伝者一覧
- 范景文
- 倪元璐
- 李邦華
- 王家彦
- 孟兆祥(附伝=子の章明)
- 施邦曜
- 淩義渠
篇首の序――甲申の殉節と清朝の表彰
- 崇禎十七年三月(1644年)、流賊の李自成が京師を犯し、十九日丁未に莊烈帝が社稷に殉じた。文臣で国に死んだ者は東閣大學士の范景文以下、あわせて二十一人。福王が南京に立ってからいずれにも贈官と諡を与えた。
- 皇清の順治九年(1652年)、世祖章皇帝が前代の忠臣を表彰し、所司は范景文・倪元璐・李邦華・王家彦・孟兆祥・(その子の)章明・施邦曜・淩義渠・吳麟徴・周鳳翔・馬世竒・劉理順・汪偉・吳甘来・王章・陳良謨・申佳允・許直・成德・金鉉の二十人の名を上った。
- 所在の有司にそれぞれ地七十畝を給して祠を建て致祭させ、あわせて美諡を与えるよう命じた。
出自と初任
- 范景文は字を夢章といい、吳橋の人。父の永年は南寧知府。景文は幼くして器量と識見をそなえていた。萬厯四十一年(1613年)の進士、東昌推官に授けられた。名節をもって自らを励まし、賄賂がその門に及ぶことはなかった。歳が大いに饑えたとき、心を尽くして振救し、郡全体がこれに頼った。
- 治績が高等と評されて吏部稽勲主事に擢でられ、文選員外郎を歴て選事を署理した。泰昌の時、群賢が登用されたのは景文の力によるところが多かった。まもなく假を乞うて去った。
魏忠賢の世に孤立を守る
- 天啓五年二月(1625年)、文選郎中に起こされた。魏忠賢と魏廣微が中外に権を振るっていたが、景文は同郷でありながら一度もその門に詣らず、また東林にも附かず、ただ孤立して自分の意のままに行っただけであった。
- かつてこう言った——「天地の人才は天地のために惜しむべきであり、朝廷の名器は朝廷のために守るべきであり、天下万世の是非公論は天下万世とともにすべきである」。当時、名言とされた。視事して一月にも満たず、病と称して去った。
河南巡撫と通州の練兵
- 崇禎の初め、薦めによって召され太常少卿となる。二年七月(1629年)、右僉都御史に擢でられ河南を巡撫した。京師が戒厳すると、所部八千人を率いて勤王し、餉はすべて自ら携えていった。涿州に着くと四方の援兵の多くが剽掠していたが、河南軍だけは犯すところがなかった。都門に移駐し、さらに昌平に移り、遠近はこれを恃んで恐れがなかった。
- 翌年三月(1630年)、兵部添注左侍郎に擢でられ通州で練兵した。通鎮は設けられたばかりで兵はみな召募だったが、景文の綜理に法があったので軍はことに精強であった。かつて有司が一条鞭法を実行し、徭役を官に帰して民は少しその費を助けるだけにし、供応は平常価で買い上げて官価という名を立てぬようにするよう請い、帝は永く例とせよと命じた。二年おいて父の喪で官を去った。
南京兵部尚書と削籍
- 七年冬(1634年)、南京右都御史に起こされ、まもなく兵部尚書・参贊機務を拝した。しばしば兵を遣って池河・浦口を戍らせ、廬州を援け、滁陽を扼し、警があればただちに発し、節制は精明であった。かつて南京戸部尚書の錢春と軍食のことで互いに訐って奏し、秩を鐫られたまま視事することに坐した。のち援剿の功を叙して元の秩に復した。
- 十一年冬(1638年)、京師が戒厳し兵を遣って入衛した。楊嗣昌が奪情して輔政し、廷臣が力争して多く謫せられたので、景文は同列を率いて言葉を合わせ論救した。帝は悦ばず首謀を詰めたが、景文は自ら罪を引き、あわせて衆論がみな同じであることを言った。帝はますます怒り、削籍して民とした。
入閣と殉節
- 十五年秋(1642年)、薦めによって召され刑部尚書を拝したが、着任しないうちに工部に改められた。入対すると帝は迎え労って「卿に会わずに久しい。何とやつれたことか」と言い、景文は謝した。
- 十七年二月(1644年)、本官のまま東閣大學士を兼ねて機務に参ずるよう命じられた。まもなく李自成が宣府を破り、烽火が京師に迫った。帝の南幸を請う者があり、閣中で集議するよう命じられると、景文は「人心を固く結び、堅守して援を待つのみです。それ以外は臣の知るところではありません」と言った。
- 都城が陥ちると、趨って宮門に至ったが、宮人が「駕はもうお出になった」と言う。また朝房へ趨ると賊がすでに道を塞いでいた。従者が服を着替えて邸に還るよう請うと、景文は「駕がお出になったのに、どこへ帰るというのか」と言い、道端の廟に就いて遺疏を草し、さらに大書して「身は大臣でありながら賊を滅ぼし恥を雪ぐことができなかった。死んでも余りある恨みだ」と記した。そのまま演象所に至って闕を拝辞し、雙塔寺のかたわらの古井に赴いて死んだ。景文は死ぬときまで、帝は南幸したものと思っていた。
- 太傅を贈られ文貞と諡された。本朝(清)は文忠を賜諡した。