言官としての海防・馬政の論
- 王家彦は字を開美といい、莆田の人。天啓二年(1622年)の進士、開化知縣に授けられ蘭谿に調され、刑科給事中に擢でられた。権貴を弾撃して避けるところがなかった。崇禎四年(1631年)、大學士の錢龍錫を獄から釈すよう請い、龍錫は減死を得た。按月奏報の例を四方の獄囚にも推し行って、久しく淹留させぬようにするよう請うた。
- 閩海の盗の劉香が郡邑を擾し、撫・鎮が追剿してしばしば失利したので、朝議は将を召募して大挙しようとした。家彦は言った——旧制では衛所の軍は官から餼を受け、別の兵はなく将も別になく、各衛の指揮に統べられ、寨に号船を設けて連絡呼応した。また遊撃などの官を添え設け、遠い洋や奥まった港でも戈船が相望んだ。愚考するに、今日の海を防ぐ策は、旧制を復して訓練に勤めるに如くはない。練れば衛所の軍もみな勁卒であり、練らなければ召募兵を添え設けても市人を駆り立てて戦わせるようなもので、餉を糜し民を擾すだけで益がなく、賊はついに尽くせない。当時、名言とされた。命を奉じて青州方面を巡り、条奏するところが多く議行された。
- 先に隆慶年間、太僕の種馬の額は十二万五千で、辺馬は二十六万に達していた。言う者が、民間は馬を養うのが最も苦しく、納められた馬も用に足りぬとして、馬一頭につき銀十両を徴し草料銀二両を加えれば歳に銀百四十四万両を得られると議したが、中樞の楊博が不可として持ちこたえ、詔してその半分に折り、馬政はここから変わり始めた。萬厯九年(1581年)、ことごとく改折することに議し、南寺は歳に銀二十二万、北寺は五十一万を徴した。銀は冏寺に入って馬政は日ごとに弛んだ。家彦はその弊を極めて陳べ、国初の種馬および西番の茶馬の制に改めるよう請うた。
- また班軍の旧額は十六万、後に七万に減り、このときは二万有余に止まっていたが、さらに行糧・月糧をことごとく徴して番上を免ずるという建議があった。家彦は当時京営を巡っており、力めて不可を陳べ、あわせてその工役を免じてことごとく行伍に帰すよう請うた。帝はいずれも褒めて納れた。
- 遵化の鉄冶は久しく廃れていたが奸民が開くことを請い、家彦は害あって利なしと言った。また開化の雲霧山を開いて屯を興そうと請う者があり、これも家彦の言によって止んだ。
加派の反対と荒政の建言
- 屢遷して戸科都給事中。軍興で餉が詘し、総督の盧象昇に「糧に因って餉を加える」議があり、戸部尚書の侯恂は、まだ寇を被っていない地では士大夫の家で賦銀のある者に二銭を加え、民間で五両以上の者には一両ごとに一銭を加えるよう請うた。家彦は「民の賦が五両以上の者は、おおむね百十家で一戸を成しているのであって、富民ではないから搾り取ることはできぬ」と言った。
- 軍食が不足し、畿輔・山東・河南・江北で米豆を召買して天津に輸すこと九十余万石に及んだが、吏胥の侵耗がおおむね数十万に及んだので、家彦は厳治を請い、帝はいずれも採納した。憂により帰った。
- 十二年(1639年)、吏科都給事中に起こされる。流寇が日ごとに熾んなのは墨吏が民を搾るためで、民はますます走って盗となり、盗は日ごとに多く民生は日ごとに窮まった。家彦は上疏して言った——臣が見るに、秦・晉の間では饑民が互いに煽って千百で群れをなすが、その始まりはおおむね一郷一邑からであって、守令が早くに手を打ち、『周官』の荒政十二を行っていれば、民がどうして踵を接して盗となろうか、盗がどうして潰え裂けて極まろうか。論者は功令がそうさせるのだと言う。催科の急な者は上考に書かれ、督責の厳しい者は循良と呼ばれ、不肖で貪墨な者は苛酷さでその饕餮を賄う。一二の賢明な吏は文法に縛られて手腕を伸ばすすべがない。ただ文網をやや寛くし、ひとえに撫綏させれば、聚まった盗も散らせ、散った者は再び聚まらない。また旧制で蝗を捕らえるのに吏部が毎年九月に有司へ勘合を頒つことになっているので、実意をもって挙行するよう請う。帝はいずれも納れた。
- 大理丞に擢でられ、本寺少卿に進んだ。十五年(1642年)、太僕卿に遷る。家彦はかねて馬政を論じており、帝は兵部に下して陝西の督撫に檄させたが行えなかった。このとき四度疏して馬の耗った理由を述べ、官牧および金牌差発の遺制を行うよう請い、かつ「課馬の改折は旧増ですでに二十四万両に達して重く困っているのに、楊嗣昌は民を恤まずさらに三十七万を増したため、旧額のほうがかえって滞るに至った。釐正せずにおけぬ」と言った。帝はその疏を手にして執政に語り「家彦の奏はみな善い、議行を勅せよ。しかし軍興がまさに急で、尽くは挙げられぬ」と言った。
安定門を守って殉節
- ほどなく戸部右侍郎に擢でられた。都城が兵を被り、戎政を協理するよう命じられ、即日、城壁に登って内外城の十六門を閲視した。雪の夜に灯ひとつを携えて歩いて城堞を巡り、知る者がなかった。翌日、勤惰を校べると将士はみな服して争って自ら励んだ。初めは阜城門を分守し、後に安定門に移り、城楼に寝起きすること半年。厳を解いて午門で宴を賜り、秩を一等増された。十七年二月(1644年)、廷推で戸部尚書とされたが、帝は「戎政は家彦でなければならぬ」と言って特に留任させた。
- 賊が京師に逼り、襄城伯の李國禎が京営を督し、さらに中官の王德化に内外の軍をことごとく督させた。國禎が三大営の軍を城外に出したので、城壁を守る者はいよいよ少なくなった。諸軍は城を出るや賊を見てすぐ降り、降った卒がかえって城を攻めた。城上の人はみなその同輩であり、ますます固い意志がなかった。
- 廷臣が門を分けて守り、家彦は安定門を守ったが、号令の進止は中官が握り、諸臣が城に登るのを沮んだ。また叛いた監の杜勲を縄で城上に引き上げ、密約させて去らせた。帝は手ずから兵部尚書の張縉彦に敕して城に登って察視させたが、家彦が同行しても中官はなお固く拒んだ。手敕を示して「勲はどこにいる」と問うと「去った」と言う。秦・晉の二王が城に上ろうとすると、家彦は「二王は賊に降った。すなわち賊である。賊がどうして上れようか」と言い、足を踏み鳴らして哭した。縉彦とともに宮門に詣って謁見を請うたが入れなかった。
- 黎明に城が陥ち、家彦は城下に身を投じたが死なず、民家で自縊した。賊に遭ってその片腕を焼き残され、僕が残った体を収めた。太子太保・兵部尚書を贈られ忠端と諡された。本朝は忠毅を賜諡した。