弾劾と殉節
- 田時震は富平の人。天啓二年(1622年)の進士。光山・靈寶を知り、崇禎二年(1629年)に入って御史となった。疏して南京戸部尚書の范濟世、順天巡撫の單明詡、御史の卓邁の党逆の罪を弾劾し、あわせて故御史の夏之令が贓を誣坐されたのを免ずるよう請い、いずれも従われた。
- 劉鴻訓が田仰の金を納れて吏部尚書の王永光に嘱し、四川巡撫に用いさせたことを弾劾し、仰はついに罷め去った。時震は鴻訓の私を発いたことで秩を進められた。まもなくまた永光および温體仁を弾劾して旨に忤い切責された。
- 御史の袁𢎞勛は永光の心腹で、弾劾されて罷職されたのを永光が力めて援けた。時震は言った——𢎞勛は閣臣劉鴻訓の賄が発覚したことにかこつけて、みだりに瀆辨している。だが鴻訓が人の意を快くしたのは、まさに徐大化・霍維華ら諸人の奸を見分けて斥け去ることができたからで、どうしてこれを借りて翻案の端としてよかろうか。𢎞勛の計が行われれば、大化・維華の輩が間に乗じ隙を衝き、その害は言い尽くせない。そして故光禄少卿の史記事が四壁蕭然のなかで講学著書していることを薦め、急ぎ召用すべきだとした。帝は納れなかった。
- 時震はしばしば永光に忤ったため、年例で出て江西右参議となり、山西に調され、そのまま左参政に遷り、罷帰した。十六年冬(1643年)、流賊が富平を陥れ、偽職を授けようとしたが屈せず死んだ。
朱崇德――富平の陥落と自縊
- 同じ邑の朱崇徳は字を淳菴といい、侍郎の國棟の父である。國棟は天啓二年(1622年)の進士に中り、戸科給事中を歴任した。吏部侍郎の張㨗が逆案の吕純孺を薦めたので、國棟は上疏して力めて詆った。また両廣総督の熊文燦が海盗の劉香を招撫したことについて、奏詞が掩飾欺罔である五罪を弾劾した。帝は文燦を切責した。國棟は累遷して山東を巡撫する右僉都御史となり、昌平の督治にあたって十五年(1642年)に卒した。
- 國棟が卒した翌年、富平が賊に陥ち、賊は崇徳を駆り立てて長安へ向かわせたが、道中で病と称した。賊はその老いを見て本当に病だと思い、帰るのを許した。崇徳は「初め私が耐え忍んだのは九族のためだった。今こそ死に場所を得た」と言い、北面して再拝し自縊して死んだ。
- このとき関中の諸々の死節者はやっと恤典が議されたところで国変が至り、福王が立ってはじめて崇徳に右副都御史を贈った。
史論
- 贊に曰う。流賊が中原を茶毒し、至る所が糜爛し、士大夫で難に遭った者は死ななければ辱を受けた。しかし当時、徘徊し隠忍し垢を蒙ってついに自ら身を戕った者も少なくない。賀逢聖ら諸人は従容として義に就き、患難に臨んでもその節を易えなかった。一度の死は、やはり重いのではないか。逢聖と南居益・周士樸は公方清正、吕維祺は邃学純修で、もとより中朝の賢士大夫であった。宋師襄のいわゆる「上は謾き下は欺き、大患を醸成した」というのは末季の習であって、痛ましいことばである。