明史卷二百六十四 列傳第一百五十二 王道純

山東巡按と登萊の乱

  • 王道純は字を懐鞠といい、蒲城の人。天啓五年(1625年)の進士、中書舎人に授けられた。崇禎三年(1630年)、御史に擢でられ、疏して資格を破る説を陳べ、銓除・挙劾・考選で甲科と乙科の高下が甚だしすぎるので変通すべきで、そうすれば賢才が日ごとに広がると言った。帝は所司に即行を命じたが、甲科の勢いが重くついに覆せなかった。
  • 流賊が関中を躙ると、道純は急ぎ饑民を振わせて賊に従わせぬよう請い、可と報ぜられた。のち光禄卿の蘇晉、参政の張爾基を劾して罷めさせた。四年(1631年)、吏部尚書の王永光について去るべき三つ・留めるべきでない四つを挙げて弾劾したが納れられなかった。
  • 山東を巡按した。ちょうど李九成・孔有徳が吳橋で叛いて南下し、道純は巡撫の余大成に書を送って討捕させたが、大成は信じなかった。再び促すと病と称して告を請い、登萊巡撫の孫元化とともに使を遣って招撫した。道純はこれを非として、二撫に速やかに剿すよう勅せと請うた。賊が登州を陥れ元化が縛られるに及んでも、大成はなお招撫を主張した。道純は憤って抗疏し力争した。
  • 帝はただちに道純に監軍を命じた。徐從治が大成に代わり、謝璉が元化に代わって、ともに萊州に入って賊に囲まれ、外にあって調度するのは道純ひとりとなった。賊が人を遣って偽って撫を乞うたので、道純は書を焼き使者を斬り、疏を馳せて言った——賊は撫をもって我らを愚弄している。一度撫して六城が陥ち、再び撫して登州が亡び、三度撫して黄縣を失い、いま四度目の撫で萊州が囲まれた。我が軍はしばしば挫け、どうしてまた戦えようか。速やかに大軍を発してこの危地を拯うよう乞う。
  • そのころ周延儒と熊明遇が撫の議を主としていたので、道純はかえって責譲された。明遇は職方主事の張國臣を遣って軍事を賛画させ、國臣が賊中に入って招諭したが、賊は偽って許しながら攻囲は元のままだった。総督の劉宇烈が至って沙河へ進兵し、道純もこれに同行したが、宇烈は内心怯えて兵を止めて進まず、日々撫を議し、まもなく軍を棄てて奔った。道純はまた速討を請うたが納れられなかった。
  • 巡撫の謝璉が捕らえられるに及んで帝は震怒し、宇烈を逮えて道純を召し還した。明遇もまた罷め去った。宇烈は吏に下されて道純を引き込んで過を分けようとしたので、道純は疏してその奏した十余事を駁した。所司に併せて按ぜよと命じられた。さらに明遇と國臣が交通して国を誤った十罪を弾劾し、その語が延儒に及んだ。疏がまだ下されないうちに延儒がこれを國臣に洩らし、國臣もまた道純の十罪を弾劾し、道純は遂に併せて延儒を弾劾したが、帝はいずれも問わなかった。
  • やがて賊が平らぐと、道純はついに監軍の溺職に坐して民に斥けられた。十五年(1642年)、廷臣の薦めで起用されようとしたが実らなかった。李自成が蒲城を陥れると、道純は節に抗して死んだ。福王の時、贈恤は制の通りであった。