言官としての弾劾
- 麻僖は慶陽の人。父の永吉は庶吉士から御史となり湖廣按察使で終わり、清操で聞こえた。僖は萬厯三十五年(1607年)の進士、吉士に授けられ兵科給事中に改まった。
- 代王の長子の鼎渭が父を訐って長を廃し幼を立てようとしたので、僖は代王には君がなく鼎渭には父がないと弾劾した。四十年(1612年)、諫諍を納れること、枚卜を挙げること、大僚を補うこと、遺佚を登用すること、考選を速やかにすることなど数事を疏陳したが報ぜられなかった。さらに武科を重んじ、比試を復し、納級を清め、家丁を汰し、班操を恤み、辺餉を急にするよう請うたが、このときも用いられなかった。
- 遼東巡撫の楊鎬が旧将の李如梅を用いるよう請うたのを、僖の言によって張承䕃に改めさせた。承䕃が着任しないうちに鎮遠堡と曹莊が相継いで失事したのに、鎬はいずれも実のままには報告しなかった。僖は二度疏して弾劾し、鎬はまもなく引いて去った。のち同官の孫振基らとともに熊廷弼が人を殺して人に媚びたことを弾劾し、また湯賓尹が韓敬を取ったのは関節が顕然であると言った。その語は振基の伝に具わる。
- まもなく假を乞うて帰った。四十五年(1617年)の京察で、賓尹の党が権を執り、僖が東林に倚附したとして山西按察知事に謫した。天啓二年(1622年)、兵部主事に起こされ、尚寶丞・少卿を歴て太常に改まった。五年六月(1625年)、魏忠賢の党の御史陳世埈が弾劾し、遂に落職した。崇禎の初め、復官して致仕し家に居た。十六年冬(1643年)、李自成が慶陽を陥れ、僖はこれに殉じて死んだ。