明史卷二百六十四 列傳第一百五十二 宋師襄

内操の廃止を請う

  • 宋師襄は耀州の人。萬厯四十四年(1616年)の進士。御史を歴官した。天啓三年五月(1623年)、内操を罷めるよう請うて言った。
  • 劉朝が営を脱して死を免れて以来、沈㴶と謀って寵を固める計とし、㴶は募兵をもって朝の外護とし、朝は内操をもって㴶の内援とし、宮府の内外は朝があるのを知って天子があるのを知らぬ有様となった。天が聖聡を開き、ひとたび発覚して南京に屏けられた。しかし朝は去ったとはいえ三千の虎旅はどこへ帰するのか。世に、怨を蓄え怒を蔵する者を密かに左右に配しておいて患いとならなかった例はない。今はただこれを散ずるほかない。
  • そもそも平生から朝を卵翼したのは黄克纘であるが、いくばくもなく戎政をもって内に宣べられた。朝を抄参したのは毛士龍であるが、まもなく搆陥されて削籍された。これは兵を握り要を拠って互いに恐喝し合った結果ではないか。
  • 帝は内操は祖宗の故事であるとして納れなかった。
  • また足財の策を陳べ、上供を減らし、冗官を汰し、営造を覈べ、賚賞を省くよう請うたが、いずれも宦官の不便とするところで、格して行われなかった。
  • 奉聖夫人客氏の民子および中官の王體乾・宋晉・魏進忠ら十二人がそろって錦衣を世襲した。進忠とは魏忠賢である。師襄は力諫した。また、左都御史の熊尚文、工部侍郎の周應秋、登萊巡撫の袁可立は去るべきなのに去らず、光禄卿の須之彦、太常卿の吕純如は来るべきでないのに来た、と言ったが、帝はいずれも聴かなかった。

河南巡按の陛辞と最期

  • 四年(1624年)、河南を巡按するにあたり陛辞して言った。今、口を開く者は皆「治平の要務」と称し、終日、辺事を籌り国計を商り吏治を飭え民生を計り盗賊を弭めていながら、まるで実効がない。その理由はこうである。台諫は進言を職責とするので、条奏がひとたび入れば職を尽くしたと言い、その言が行われるか否かは置いて問わない。六曹は題覆を職責とするので、題覆がひとたび上れば事は畢ったと言い、その事が行われるか否かは置いて問わない。内閣は票擬を職責とするので、票擬がひとたび定まれば明綸とみなし、その旨が行われるか否かは置いて問わない。上は謾き下は欺き、大患を醸成した。今、人の怨みはすでに極まり、天の怒りはすでに甚だしく、災害が並び至り、民は生を楽しまず、相集まって乱を思う者が十のうち八九である。臣が恐れるのは、今日の患いが遼左や黔・蜀にあるのではなく、数百年休養してきた赤子にあることである。
  • 翌年復命し、部内の人才を薦めるのに盛以𢎞を筆頭に挙げた。魏忠賢は私情を徇うと責めて一秩を貶して調任し、師㐮は遂に帰った。
  • 崇禎元年(1628年)、召されて復官、太僕少卿に擢でられ、累遷して太常卿に至り致仕した。奸人の宋夢郊が師㐮の手書を偽って兵部の事を働きかけ、発覚して師㐮は逮えられ獄に繋がれること二年、徐石麒が刑部に就いてようやく雪がれた。十六年冬(1643年)、賊が耀州を陥れ、師襄はこれに殉じて死んだ。