出自と養和・好生の二疏
- 陳龍正は字を惕龍といい、嘉善の人。父の于王は福建按察使。龍正は高攀龍の門に遊んだ。
- 崇禎七年(1634年)に進士となり、中書舎人に授けられた。
- 当時、政は綜核を尚び、中外は競って厳しい条文を用いて罪を避け、東厰の緝事はとくに冤罪が濫れた。
- 十一年(1638年)五月、熒惑(火星)が心宿に留まったため、詔を下して身を省みて修め、上帝に哀懇する語があった。龍正はこれを読んで泣き、「養和」「好生」の二疏を上げた。
- 天に回えるのは好生にあり、好生は死を減ずるに過ぎるものはない。臯陶が舜を賛えて「罪の疑わしきは惟れ軽くす」と言ったのは、聖人でも獄を折くのに誤りが無いとはいえぬからである。獄情はきわめて隠れ、人命はきわめて重い。ゆえに専ら信ずるを貴ばず疑いを兼ね取り、必ず得ようと務めず時に失うのを甘んずる。
- 臣が家に居て見聞したところ、四方の罪犯にひどく窮凶奇謀の者はいなかった。ところが京師に来てみると、この種の者が絶える月がない。しかも罪案が一つ成れば直ちに誅磔となる。懲戒するところがあってしかるべきなのに、なぜ犯す者がこうも累々といるのか。
- 願わくは陛下、帝舜の疑いを懐かれよ。むしろ聖主に仁に過ぎる挙があり、臣下が常ならぬ咎を得るほうがよい。
- ――これはひそかに東厰の事を指したものである。
- 数日して果たして提督中官の王之心に「人命を軽んじてはならぬ」と諭が下った。
- その冬、京師が戒厳となり、廷臣に督撫に堪える者を挙げさせた。御史の葉紹顒が龍正を挙げた。久しくして刑部主事の趙奕昌が天下の真の賢才を訪ね求めるよう請い、帝が奕昌自身に挙げさせると、これも龍正を挙げた。帝はいずれも用いなかった。
災異への条奏と墾荒の議、最期
- 龍正は閑職にありながら事を言うのを好んだ。十二年(1639年)十月に彗星が現れ、その年の冬至には大雷電と雨雹があり、十三年(1640年)二月には京師に大風が吹き、天は黄ばみ日は翳って十日ほど晴れなかった。龍正はいずれも詔に応じて条奏し、大意は言を聴くことと刑を省くことにあった。
- 十五年(1642年)夏、帝が再び詔を下して言を求め、「困を拯い残を蘇らすのはいかなる道によるか分からない」と言った。龍正は上言した。
- 困を拯い残を蘇らすには財を生むのが本ですが、財とは折色(銀納)のことではありません。折色を財とすれば人から取るので尽きやすく、本色(現物)を財と知れば地から生ずるので窮まりません。
- いま籌を持つ臣は「設処」「捜括」「加派」と言いますが、みな下を損なう事で、聚斂の別名です。民は日ごとに病み、国はどうして足りましょう。
- 臣は思うに、専ら意を墾荒に注ぎ、累朝の「永く科を起こさず」の制を申し明らかにし、南方の巨商を招集して荒田をことごとく墾かせるべきです。畿輔・河南・山東で菽粟が日ごとに増えれば、京倉の積み、辺軍の餉はみな宜しきに随って取り給できます。あるいは平糴し、あるいは爵を拝し、あるいは中監にする。国家の命脈が数千里の外からの転運だけに倚らなくなれば、民間の加派は自ずとことごとく除けます。
- ――しかしこの時、中原は荒廃が多く、田があっても耕せなかった。龍正は常理を執ったにすぎない。
- 翌日さらに「用人探本」の疏を進めた。帝はいずれも寛く容れた。
- 給事中の黄雲師が「学は非にして博く、言は偽にして弁ずる」と弾劾し、また墾荒の議を進めたことを陵競(分をこえた競い)としたが、帝は問わなかった。
- 当時、龍正を吏部に用いようとの議があったが、御史の黄澍が偽学であると詆った。
- 十七年(1644年)正月、南京国子監丞に左遷された。家に着いたばかりのところで京師が陥ちた。福王が南京に立つと祠祭員外郎に用いたが就かなかった。南京が守れなくなったとき、龍正はすでに病を得ており、まもなく没した。
史論
- 贊にいう――崇禎のときは邪佞の徒が相次いで政を執り、天下は事多く、言うべきことは数多い。許譽卿ら諸人は時の宰相を攻撃し、直臣の風があった。しかし傅朝佑は杖下に死に、姜埰・熊開元は重い譴めを受け、詹爾選だけは雷霆の威に抗しながら放免を得た。天子に言うのは易く、大臣に言うのは難い――まことにそのとおりである。湯開遠は疎遠な外僚の身でありながら侃々と事を論じ、憤りと歎きが言葉の外にあふれた。その列挙したところに就いてみれば、国勢もまた大いに慨嘆すべきものであった。