出自と楊嗣昌弾劾
- 成勇は字を仁有といい、樂安の人。天啟五年(1625年)の進士。饒州推官に授けられた。
- 鄒元標を吉水に訪ねて師事した。中使が至ったとき知府以下は郊外に出迎えたが、勇は行かず、しかもその従者を捕らえて笞打った。
- 父母の喪に丁い、開封・歸德二府の推官を歴任した。流賊が歸德を攻めたとき撃退した。
- 崇禎十年(1637年)、行取されて入京した。当時、考選の例が変わり、優れた者は翰林になれることになっていた。公論は勇を筆頭としたが、吏部尚書の田唯嘉がこれを抑え、勇は南京吏部主事を得て去った。
- 翌年二月、帝が経筵に出御して講官に保挙・考選の得失を問うたとき、諭德の黄景昉が勇および朱天麟の不遇を訴えた。帝が親しく諸臣を策試すると天麟は翰林を得たが、勇は先に南京へ赴いていたので与らなかった。まもなく御史の涂必泓の言によって南京御史に授けられた。
- 楊嗣昌が喪に服したまま入閣し、言う者はみな譴めを受けた。勇は憤り、その年九月に上疏した――嗣昌は枢を秉ること二年、一つの策も展べられず、辺警はしばしば驚き、群寇は野に満ちている。清議を畏れず、名教を畏れず、万世の公義を畏れない。臣はひそかに青史のために憂える、と。
- 疏が入ると帝は大いに怒って削籍し、提訊して主使者の姓名を詰った。勇は獄中から上書して言った――臣は十二年外吏を勤め、南台にあること数十日。招くべき権もなく納れるべき賄もなく、党があることなど存じません、と。
- 帝は怒って、ついに寧波衛に戍した。中外から十余通の疏が上がったが召されなかった。
- のち副都御史の張瑋の言により、執政が言葉を合わせて抜擢を請うたが、帝は「勇は罪を宥されたばかりで復職すべきでない」として他の官で用いるよう命じた。命を聞いたばかりのところで京師が陥ちた。
- 福王のとき御史に起用されたが赴かず、緇衣をまとって僧となり、十五年を越えて終わった。