明史卷二百五十九 列傳第一百四十七 楊鎬

商邱の人。萬厯八年の進士で、遼海道を分守し董一元と蒙古の帳を襲うなど辺才で知られた。豊臣勢との再戦にあたり朝鮮軍務の経略に抜擢されたが、蔚山攻めでは李如梅の功を先んじさせようとして落城寸前に鉦を鳴らして兵を収め、援軍の到来に狼狽して真っ先に逃げ、二万に近い戦死を百余人と偽って報じた。丁應泰に敗状二十八条を暴かれて罷免されたが、のち功を叙されて遼東巡撫に復した。萬厯四十六年、撫順の陥落を受けて遼東経略となり、朝廷の督促に押されて四道分進の大挙に出たものの、期日が洩れて杜松・馬林・劉綎が相次いで潰え、将吏三百十余人・軍士四万五千八百余を失った。開原・鉄嶺も失われて逮えられ、詔獄で死罪に論じられ、崇禎二年に処刑された。

年表(7件)

篇首の立伝者一覧

  • 楊鎬(附伝=割注: 李維翰/周永春)
  • 袁應泰(附伝=割注: 薛國用)
  • 熊廷弼(附伝=割注: 王化貞)
  • 袁崇煥(附伝=割注: 毛文龍)
  • 趙光抃 范(志完)

出自と初期の官歴

  • 楊鎬は商邱の人。萬厯八年(1580年)の進士。南昌・蠡の二県の知県を歴任し、入って御史となった。事に坐して大理評事に調され、さらに山東参議に遷って遼海道を分守した。
  • かつて大帥の董一元とともに雪の夜に墨山を越えて蒙古綽哈の帳を襲い、大いに獲るところがあり、副使に進んだ。荒田百三十余頃を開墾し、年に粟一万八千余石を積み、参政に進んだ。
  • 萬厯二十五年(1597年)春、副将の李如梅とともに塞に出たが、部将十人・士卒百六十余人を失った。

朝鮮経略と蔚山の敗戦

  • ちょうど朝鮮で再び用兵となったので、鎬の罪を免じ、右僉都御史に抜擢して朝鮮の軍務を経略させた。
  • 鎬はまだ到着せぬうちに十事を上奏した。朝鮮の官民が粟を納めれば秩を増し官を授け罪を贖えるようにすること、郷吏や奴丁の役を免ずることなどを請うたが、おおむね姑息な事ばかりであった。さらに朝鮮の君臣が蓄えを隠して軍に糧を出さないと弾劾したので、朝鮮では恨む者が多かった。
  • このとき倭将の行長・清正らはすでに南原・全州を占拠し、兵を引いて全羅・慶尚を犯し、王京に迫ってきわめて鋭かった。沈惟敬が捕らえられて郷導が絶えたこと、また朝鮮が兵火のあと千里蕭条として賊が掠奪しても得るところがなかったことにより、賊はただ全羅に粟を積んで長く留まる計を立てた。中国の兵もしだいに集まった。
  • 九月朔、鎬はようやく王京に至った。副将の解生らがしばしば賊を挫き、朝鮮軍にも数々の功があったので、倭は退いて蔚山に屯した。
  • 十二月、鎬は総督の邢玠、提督の麻貴と進兵の方略を議し、四万人を三協に分け、副将の高策が中軍を、李如梅が左を、李芳春・解生が右を将いて蔚山を合攻することにした。まず少数の兵で賊を試すと、賊は出て戦って大敗し、ことごとく島山に走り拠って城外に三つの柵を結んで固めた。
  • 鎬が遼東にいたころ如梅と深く結んでいた。このとき遊撃の陳寅が賊の柵二つを連破し、第三の柵も落ちようとしていたが、鎬は如梅がまだ来ておらず、陳寅の功が如梅の上に出るのを望まず、にわかに鉦を鳴らして軍を収めた。賊はそこで城を閉ざして出ず、堅く守って援を待った。
  • 官兵は四面から囲んだが、地は泥濘で、しかも真冬にあたり風雪が肌を裂き、士卒に固い志がなかった。賊は日夜砲を放ち、薬で煮た弾を用いたので、当たった者はたちまち死んだ。官兵は十日攻め囲んでも落とせなかった。賊は官兵の緩みを知り、偽って降を乞い時を稼いだ。
  • 翌年正月二日、行長の救援兵が急に至った。鎬は大いに懼れ、狼狽して先に奔り、諸軍もこれに続いた。賊が前から襲撃して死者は数知れなかった。副将の吳惟忠、遊撃の茅國器が殿を務めてようやく賊は還ったが、輜重の多くを失った。
  • この役は一年をかけて謀り、海内の全力を傾け、朝鮮一国の衆を合わせながら、一朝にして棄て去られた。朝廷こぞって嗟き怨んだ。
  • 鎬は奔ってのち麻貴を提げて慶州に走り、賊の追撃を懼れて兵をことごとく撤して王京に還り、総督の邢玠とともに偽って勝報を報じた。諸営が軍籍を上げたところ士卒の死亡はほぼ二万に及んだが、鎬は大いに怒って握りつぶし、わずか百余人と称した。

丁應泰の弾劾と罷免、再起用

  • 鎬は父の喪に遭ったが、詔があって奪情して事を視た。御史の汪先岸がかつて他の罪を弾劾したが、閣臣がこれを庇い、擬旨は褒め称えるものであった。旨は久しく下らなかった。
  • 賛画主事の丁應泰は鎬の敗北を聞き、鎬のもとを訪ねて後の計を諮った。鎬は張位・沈一貫の手書と、まだ下っていない擬旨とを示して、得々と功を誇った。應泰は憤り、抗疏して敗状をすべて列挙し、鎬に罪すべきこと二十八、羞ずべきこと十を挙げ、あわせて張位・沈一貫が結託して奸を働いたと弾劾した。
  • 帝は震怒して法を行おうとしたが、首輔の趙志臯が救いに奔走したので、鎬を罷めて取り調べを待たせ、天津巡撫の萬世德を代わりに充てた。
  • のち東征の事が終わると、給事中の楊應文が鎬の功を叙し、詔があって復用を許された。
  • 三十八年(1610年)、遼東巡撫に起用され、綽哈を鎮安に襲って破ったが、御史の田生金は「釁端を開いた」と弾劾した。
  • 当時、遼左は事が多く、鎬は力をこめて李如梅を薦め、大将として復用するよう請うたが、給事中の麻僖、御史の楊州鶴に弾劾された。鎬は上疏して弁明し、休を乞うた。帝は問わず、鎬はついに退いて去った。

遼東経略とサルフの大敗

  • 萬厯四十六年(1618年)四月、我が大清の兵が起こって撫順を破り、守将の王命印が死んだ。遼東巡撫の李維翰は総兵官の張承廕を促して救援に赴かせたが、副総兵の頗廷相らとともに戦死し、遠近が大いに震えた。廷議は鎬が遼の事に習熟しているとして、兵部右侍郎に起用して経略に赴かせた。
  • 到着すると紀律を申し明らかにし、四方の兵を徴して大挙を図った。
  • 七月に至り、大清の兵が鴉鶻関から清河を克ち、副将の鄒儲賢が戦死した。詔があって鎬に尚方剣を賜り、総兵以下の官を斬れることとした。そこで清河の逃将である陳大道・高炫を斬って軍中に晒した。
  • その冬、四方の援兵が大いに集まり、ついに進軍を議した。当時、蚩尤旗が天を貫き、彗星が東方に現れ、星が隕ち地が震えたので、識者は敗れる徴と考えた。
  • 大学士の方從哲、兵部尚書の黄嘉善、兵科給事中の趙興邦らはみな、軍が久しく餉が乏しいとして紅旗を発し、日ごとに鎬に進兵を促した。
  • 翌年正月、鎬は総督の汪可受、巡撫の周永春、巡按の陳王庭らと会して、十月十一日に誓師し、二十一日に塞を出ると議定した。
  • 兵を四道に分けた。総兵官の馬林は開原から出て北を攻め、杜松は撫順から出て西を攻め、李如柏は鴉鶻関から出て清河に趨いて南を攻め、東南は劉綎が寛甸から出て晾馬甸を経て後ろを衝き、朝鮮兵にこれを助けさせた。号して大兵四十七万、三月二日に二道関で会して並び進むこととした。
  • 天が大雪となり兵が進まず、出師の期日が洩れた。杜松は首功を立てようとして期日より先に渾河を渡り、進んで二道関に至ったところ伏兵が起こって軍はことごとく覆った。馬林は開原の兵を統べて三岔口から出たが、杜松の敗を聞いて営を結んで固めた。大清の兵が高きに乗じて奮撃し、馬林は支えきれず大敗して遁れ去った。
  • 鎬はこれを聞いて急ぎ檄して如柏・劉綎の両軍を止めた。如柏はそこで進まなかった。劉綎はすでに三百里深く入って深河に至っていた。大清の兵がこれを撃ったが動かなかったので、ついに杜松の旗幟を掲げその衣甲を着けて劉綎を欺き、営に入るや営中は大いに乱れ、劉綎は力戦して死んだ。ただ如柏の軍だけが全きを得た。
  • 文武の将吏で前後に死んだ者は三百一十余人、軍士は四万五千八百余人、失った馬・駱駝・甲仗は数知れなかった。
  • 敗報が聞こえて京師は大いに震えた。御史の楊鶴が上疏して弾劾したが返答がなかった。まもなく開原・鉄嶺も相次いで失われ、言官が重ねて章を上げて鎬を弾劾し、逮えて詔獄に下し、死罪に論じられた。
  • 崇禎二年(1629年)に処刑された。

附伝・李維翰

  • 李維翰は睢州の人。萬厯四十四年(1616年)、右副都御史として遼東を巡撫した。
  • 遼は三面に敵を受け、兵を用いぬ年がなかった。税使の高淮が十余年にわたって搾り取ったので軍民はいよいよ困窮した。しかも先後の撫臣はみな凡庸で、その場しのぎに年月を過ごし、天子もまた万機を措いて理めず、辺臣の呼びかけは漠然として聞き入れられず、遼の事は大いに壊れるに至った。
  • 張承廕が敗没したときも維翰はなお無事に帰任できたが、天啟の初めに至ってようやく吏に下されて死罪に論じられた。

附伝・周永春

  • 周永春は金郷の人。礼科都給事中を務め、斉党が盛んなころ、永春は亓詩教とともにその魁であった。
  • まもなく太常少卿から右僉都御史に抜擢され、李維翰に代わって巡撫となった。喪敗の後を承け、経略を佐けて軍と糧を調度し、苦労を重ねた。二年を越えて罷めて帰った。
  • 天啟の初め、言官が開原失陥の罪を追及し、遣戍された。