明史卷二百五十九 列傳第一百四十七 袁應泰

出自と地方官の治績

  • 袁應泰は字を大來といい、鳳翔の人。萬厯二十三年(1595年)の進士。臨漳知県に授けられ、長堤四十余里を築いて漳水を防いだ。
  • 繁劇の河内に調され、太行山を穿って沁水を引き、二十五の堰を造って数万頃の田を灌漑した。近隣の邑もみなその利を享けた。
  • 河が朱旺で決したとき、役夫に死ぬ者が多かったので、應泰は蓆で仮小屋を設け、飲食と作業・休止に節度を設けたので、民は喜んで事に赴いた。治績は両河に冠たるものであった。
  • 工部主事に遷り、兵部武選郎中を歴任し、仮冒の世職数百人を汰して遣り返した。淮徐兵備参議に遷った。
  • 山東が大飢饉となると、粥厰を設けて流民を養い、城を繕い濠を浚え、先聖の廟を修めた。飢えた者はみな食を得た。さらに額外の税および漕折・馬価の数万金を捜し出して先後に振給した。戸部が「官の廩を擅に移した」と弾劾したときは、すでに副使に遷っていたが、そこで病と称して帰った。
  • 久しくして河南右参政に起用され、按察使として永平で兵を治めた。遼の事がまさに厳しく、應泰は兵を練り甲を繕い、亭障を修め、櫓を整え、関外に必要な秣・火薬の類は呼べばたちまち応じたので、経略の熊廷弼は深くこれを頼りにした。

遼東経略と降人の受け入れ

  • 泰昌元年(1620年)九月、右僉都御史に抜擢されて周永春に代わり遼東を巡撫した。月を越えて兵部右侍郎に抜擢され、前職を兼ねて廷弼に代わって経略となり、薛國用を巡撫とした。
  • 應泰は事を受けるとすぐ白馬を刑して神を祀り、身を遼に委ねると誓った。上疏して「臣は遼と終始をともにしたい。さらに願わくは文武の諸臣に二心なく、臣と終始をともにさせ、故にかこつけて事を辞する者は罪して赦さぬように」と言った。熹宗は優詔で褒めて答え、尚方剣を賜った。
  • そこで貪将の何光先を戮し、大将の李光榮以下十余人を汰し、撫順への進取を謀り、兵十八万・大将十人を用いる方略を上奏した。
  • 應泰は歴官して精敏・強毅であったが、用兵は得意とするところでなく、規画はかなり疎かった。廷弼は辺にあって法を持すること厳しく部伍は整粛であったが、應泰は寛をもってこれを矯め、改めたところが多かった。
  • このとき蒙古の諸部が大飢饉で、多く塞に入って食を乞うた。應泰は「我が急ぎ救わねば彼らは必ず敵に帰す。それは敵の兵を増やすことだ」と言い、令を下して招降した。そこで帰する者が日ごとに多くなり、遼陽・瀋陽の二城に置き、月々の廩を優遇して民と雑居させた。□(底本欠字)ままに淫らな掠奪を行い、居民は苦しんだ。
  • 議する者は「降を収めることが多すぎる。あるいはひそかに敵に用いられ、あるいは敵が間諜をその中に雑えて内応させるやも知れず、禍は測りがたい」と言った。しかし應泰はまさに計を得たと誇り、これを藉りて大清に抗そうとしていた。ちょうど三岔児の戦いで降人が前鋒となり、陣中で死んだ者が二十余人あったので、應泰はこれを用いて群議を釈いた。

瀋陽・遼陽の陥落と自尽

  • 翌年、天啟と改元(1621年)した三月十二日、我が大清の兵が来て瀋陽を攻めた。総兵官の賀世賢・尤世功が城を出て力戦したが敗れて還った。
  • 翌日、降人が果たして内応し、城はついに破れ、二将は戦死した。総兵官の陳策・童仲揆らが援に赴いたが、これも戦死した。
  • 應泰はそこで奉集・威寧の諸軍を撤して力を併せ遼陽を守った。水を引いて濠に注ぎ、濠に沿って火器の兵を並べ、四面をめぐって守った。
  • 十九日、大清の兵が城に臨んだ。應泰は自ら総兵官の侯世祿・李秉誠・梁仲善・姜弼・朱萬良を督して城を出て五里で迎え撃ったが、軍は敗れて死ぬ者が多かった。その夕、應泰は営中に宿して城に入らなかった。
  • 翌日、大清の兵は城の西の閘を掘って濠の水を洩らし、兵を分けて城の東の水口を塞ぎ、諸将の兵を撃ち敗った。兵はついに濠を渡り、大声を上げて進んだ。鏖戦は久しく、来る騎はいよいよ多く、諸将の兵はみな敗れて城を望んで奔り、殺され溺れ死ぬ者は数知れなかった。
  • 應泰はそこで城に入り、巡按御史の張銓らと城壁を分けて固守した。諸監司の高出・牛維曜・胡嘉東および督餉郎中の傅國はみな城を越えて逃げ、人心は離れ沮んだ。
  • また翌日、攻城が急となり、應泰は諸軍を督して楯を並べて大いに戦ったがまた敗れた。夕暮れに譙楼が火を発し、大清の兵が小西門から入ると城中は大いに乱れた。民家の多くは扉を開き松明を掲げて待ち、婦女もまた盛装して門に迎えた。降人が導いたのだという者もある。
  • 應泰は城楼にいて事の成らぬのを知り、太息して張銓に「公には城を守る責はない。急ぎ去られよ。私はここで死ぬ」と言い、そのまま剣と印を佩びて自ら縊れて死んだ。妻の弟の姚居秀もこれに従った。僕の唐世明は屍に凭れて大いに慟き、火を放って楼を焼いて死んだ。
  • 事が聞こえると兵部尚書を贈られ、祭葬を賜り、一子を官につけた。

附伝・薛國用

  • 薛國用は洛南の人。山東右参政を歴任し、遼海道を分守した。右僉都御史として應泰に代わって遼東を巡撫した。
  • 應泰が死ぬと、廷議は廷弼を起用しようとしたが、道が遠くてまだ到着しなかったので、國用を兵部右侍郎に進めて應泰に代えて経略とした。
  • 歴官して醇厚謹直であり、久しく遼にあって日夜、戦守を憂えて備えたが、たまたま大清の兵が来なかったので、その位を安んずることができた。まもなく告暇を請い、ついに官に没した。