明史卷二百五十七 列傳第一百四十五 熊明遇

八憂・五漸・三無の疏

  • 熊明遇は字を良孺といい、進賢の人。萬厯二十九年(1601年)の進士で、長興縣を知った。四十三年(1615年)、兵科給事中に抜擢され、まもなく科の事務を掌った。
  • 上疏して時弊を極言した。今春以来、天鼓が晋の地で二度鳴り、流星が清豐で昼に隕ち、地震が二十八度、天火が九度、石首では豆が雨のように降り、河内には女の妖異、遼東には兵端、それに火を吐く怪。春秋の二百四十年間でも今日ほど頻々としたことはない。しかも山東は大凶作で人が人を食い、黄河の水は天に届くほどである。加えて太白が天を経て輔星が沈み没し、熒惑が月を襲い、金星・水星が運行を誤り、あるいは日光に芒がなく、日と月が同時に暈をなし、絶え間ない風となり旱となる。天の譴めはいよいよ深いのに、陛下の行われるところはみな天を欺き常道に背く事ばかりである。これこそ禽息が頭を砕き賈生が痛哭した時である。あえて八憂・五漸・三無の説を進めたい。
  • 八憂は次のとおり。内庫が満ちすぎ外庫が空きすぎているのが憂の一。兵糧の担当者は糧に乏しいのに辺境の臣は辺を広げようとするのが憂の二。套部の圖王・察罕が賞をねらっているのが憂の三。黄河が氾濫し運河が詰まっているのが憂の四。齊は凶作の天に苦しみ楚は土地の割き取りに苦しんでいるのが憂の五。宰相の任にふさわしい者がおらず国の棟梁が常にたわんでいるのが憂の六。人々の騒ぎが街に満ち流言が道にあふれているのが憂の七。吳の民が乱を喜び上下の序が逆さまになっているのが憂の八。
  • 八憂がやまぬうちに五漸が続く。太阿の柄が次第に宦官の手に渡りつつある。傑出した人物が次第に竹の皮が落ちるように失われつつある。科挙の法が次第に不正の巣窟となりつつある。武庫の器が次第に無くなりつつある。商旅の道が次第に塞がりつつある。
  • 五漸がやまぬうちに三無が続く。一介の匹夫が天子を惑わすことができ、下級の武官が濫りに詔勅を求められる。これは朝廷に紀綱が無いのである。滇黔の守令はみな行き詰まった者ばかり、揚・粤の監司は多くが責任逃れをする者ばかり。これは遠方に吏治が無いのである。讒言と讒構の口は矛や戟より恐ろしく、人を陥れる禍は蘇秦・張儀より惨い。これは士大夫に人の心が無いのである。天下の事、寒心せずにいられようか、と。
  • 帝は省みなかった。亓詩教らは明遇が東林と通じているとして福建僉事に出し、寜夏參議に遷した。

提督操江と魏忠賢による罷免

  • 天啟元年(1621年)、尚寳少卿から太僕少卿に進み、まもなく南京右僉都御史・提督操江に抜擢された。伏虎山に営を建て蒼頭軍を選んで訓練し守備の力とした。
  • 永樂年間、齊王榑が罪で廃され、その子孫は南京に住んで齊庶人と号していた。睿爁という者が異相を自負して奸人と謀反を謀ったので、明遇はこれを捕らえその一味十餘人を処罰した。
  • 魏忠賢の一党が東林を尽く追い出そうと謀り、明遇がかつて御史の游士任を救ったことがあるので、五年(1625年)三月、給事中の薛國觀が党を庇い私に阿ったと弾劾し、忠賢はただちに旨を偽って革職した。まもなく汪文言の獄に連坐して不正の金千二百を追徴され、貴州の平溪衛に流されて戍った。莊烈帝が即位して釈放され帰った。

崇禎の兵部尚書

  • 崇禎元年(1628年)、兵部右侍郎に起用され、翌年、左侍郎に進み、南京刑部尚書に遷った。四年(1631年)、召されて兵部尚書を拝命した。上疏して四司の積年の弊を陳べ、悉く採用された。
  • 楊鶴が逮捕されたとき、明遇は言った。秦中の流寇について明旨は招撫と討伐を並び行うことを許している。臣の考えでは、首魁が降を乞えば招撫すべきであり、脅されて従い険に拠る者は討つべきである。今、鶴は賊を撫して功なく逮えられた。もし諸臣が鶴の一件のゆえに脅されただけの無辜の者まで尽く殺してその生きる道を絶とうとするなら、急ぎ新任の督臣洪承疇に命じて賊の一党に賊を殺して功を立てるよう諭させ、神一魁・劉金らが果たして目覚ましい功を立てたなら同様に叙録し、諸将で吳宏噐らのようによく手なずける者にはやはり昇進を与えるべきである。そうすれば賊の一党は日ごとに孤立しよう、と。帝もこれを容れた。
  • 五年(1632年)正月、山東の叛将李九成らが登州を陥れた。明遇は巡撫の余大成の言を過信して招撫の議を強く主張したが、時がたつほど賊は猛威をふるい、萊城は囲まれて危うく陥ちかけた。そこで関外の軍を回して討ち平らげた(詳細は徐從治の伝にある)。
  • ちょうどその頃、大清の兵が宣府に入り、巡撫の沈棨が中官の王坤らと使者を遣わして和を議し、金帛や供応を贈って軍はようやく引き揚げた。事が聞こえると帝は棨の独断を憎み、明遇らを平臺に召対した。明遇が言葉を曲げて棨を弁護したので帝は喜ばず、棨を逮えて官に下した。そこで給事中の孫三杰が力を尽くして、明遇は棨と通じて国を誤ったと罵り、同官の陳贊化・吕黄鐘、御史の趙繼鼎が続けて弾劾した。明遇は再び疏して罷免を乞い、帝は粗略かつ凡庸で事を破綻させたと責めて任を解き取り調べを待たせた。まもなく旧官のまま引退した。久しくして推薦により南京兵部尚書に起用され、工部に改まり、病を理由に帰った。国が滅んだ後に没した。