明史卷二百五十七 列傳第一百四十五 梁廷棟

出自と急速な昇進

  • 梁廷棟は鄢陵の人。父の克從は太常少卿。廷棟は萬厯四十七年(1619年)の進士で、南京兵部主事に任じられ、召されて禮部に改まり儀制郎中を歴任した。天啟五年(1625年)、撫治西寜參議に遷った。七年(1627年)、永平兵備副使に転じた。督撫以下が魏忠賢のために生祠を建てたが、廷棟だけは参らず、親の養育を理由に辞して帰った。
  • 崇禎元年(1628年)、旧官で起用され口北道を分巡した。翌年、右參政を加えられた。十一月、大清の兵が遵化を攻め落とし巡撫の王元雅が縊死したので、ただちに廷棟を右僉都御史に抜擢して代えた。廷棟は面と向かって方略を陳べたいと請い、許可された。
  • まもなく督師の袁崇煥が獄に下ると、さらに廷棟を兵部右侍郎に抜擢し旧官を兼ねさせて薊遼保定の軍務および各地の援軍を総督させた。廷棟は才があって軍事に通じ、奏対は明晰快活で、帝は内心これを非凡と見た。
  • 三年(1630年)正月、兵部尚書の申用懋が罷免され、特に廷棟を召して部の事務を掌らせた。当時、京師の戒厳は解けたものの軍書がひっきりなしで、廷棟は滞りなく裁決した。しかし廷臣はその急な登用を見て内心これを嫉んだ。
  • 給事中の陳良訓がまず廷棟を刺し、同官の陶崇道が後に言った。廷棟は数か月前には一介の監司にすぎなかったのに、たちまち巡撫・総督・本兵となった。国士の待遇にどう報いるべきか。ところが通州にいた頃には、遵化・永平は取り戻しやすく灤州は破りにくいと言って自ら神算と称したが、今はなぜ難しいはずのものが易しく易しいはずのものが難しくなったのか。また自ら陣中に身を置き敵を追撃したいと請い、これこそ主君に報いる熱血だと言ったが、今は中枢にふんぞり返っている。熱血はどこへ消えたのか。敵を制するのは戦だけによらないと言うのはもっともらしいが、謀を伐ち間諜を用いる計はどこにあるのか、と。帝は崇道の言を聴かず、廷棟は疏で弁じて辺境の一地で身を尽くしたいと乞うたが、丁重な詔で慰留された。
  • まもなく工部主事の李逢申が廷棟の虚名を弾劾し、崇道もまた廷棟が軽々しく発言したために臨洮・固原の入衛の兵が変を起こしたと言ったが、帝はいずれも容れなかった。
  • 五月、永平の四城が回復されると、廷棟の采配の功を賞して太子少保を加え、錦衣僉事を世襲で蔭した。

加賦の議

  • その秋、廷棟は兵糧が足りないので賦を加えようとして言った。今日、庶民が窮しているのは確かだが、遼餉のせいで窮しているのではない。一年の間にひそかに加派されるものは数知れない。たとえば朝覲・考満・行取・推陞では少ない者でも五六千金を費やす。天下で合計すれば、国家が守令を一度選ぶたびに天下では数百萬の加派となる。巡按の査盤・訪緝・餽遺・謝薦では多い者は二三萬金に達する。天下で合計すれば、国家が巡方を一度遣わすたびに天下では百餘萬の加派となる。それでいて民が遼餉で窮していると言うのはどうしたことか。臣が九辺の定額の兵餉を調べたところ、兵は五十萬に過ぎず餉は千五百三十餘萬に過ぎない。何を足りないと憂えようか。だから今日の民の窮乏の原因はひとえに官の貪欲にある。貪の風が除かれなければ加派しなくても民の愁苦は変わらず、貪の風がひとたび止めば重ねて加派しても民の喜びはやはり変わるまい、と。
  • 疏が入ると帝はその言を可として戸部に下し協議させた。戸部尚書の畢自嚴は廷棟の意に迎合し、今日の策は加賦に越すものはないと言い、一畝あたり九釐に加えてさらに三釐を増すことを請うた。そこで賦は百六十五萬余増え、天下はこぞって怨嗟した。
  • のちに弊を正す五事を陳べた。屯田・鹽法・錢法・茶馬・積粟である。また陝西が寇を招いた原因を極言し、将吏で貪汚な者を重く懲らして軍民の憤りを和らげ叛乱の源を塞ぐことを請うた。帝はいずれも褒めて容れた。

収賄の告発と失脚・死

  • 廷棟は中枢に居ること一年余り、陳べた軍事の議は多く時宜に適い、帝は甚だ信任した。しかし頗る策謀を用いて私を行い、朝廷の議論には重んじられなかった。
  • 給事中の葛應斗が、御史の袁宏勛が參將の胡宗明から金を受け取って兵部に口利きを頼んだと弾劾した。廷棟もまた宏勛および錦衣の張道濬の収賄の状を弾劾し、二人はついに獄に下った。この二人は吏部尚書の王永光の身内であった。廷棟は永光まで除いて自分が代わろうと謀り、軍事の担当から解かれることを得た。永光はついにこれによって去った。
  • 御史の水佳允は宏勛と同じ郡の人で、二度の疏で力を尽くして廷棟を攻め、廷棟が司官と交わした自筆の書簡を暴き、あわせて奸人の沈敏を放って薊撫の劉可訓と通じ賄賂を納れて私腹を肥やさせたと言った。廷棟は疏で弁じて辞去を求めたが、帝はなお慰留した。
  • 安國棟という者は、はじめ通判として察罕への撫賞の事を主管していた。廷棟はその才を推薦して特に職方主事に抜擢し、引き続き撫賞を主管させたが、頗る不正の利を得ていた。廷棟はこれを庇った。
  • 後に佳允は別件に坐して行人司副に左遷されたが、また上疏して二人の癒着の状を暴き、あわせて将領の地位を賄賂で売った数件を列挙した。事はいずれも証跡があり廷棟は危うかったが、宦官が取りなしたおかげで閑居の処分で去ることができ、熊明遇が代わった。
  • 八年(1635年)冬、召されて兵部右侍郎兼右都御史を拝命し、楊嗣昌に代わって宣大山西の軍務を総督した。
  • 翌年七月、大清の兵が間道から天夀山を越えて昌平を攻め落とし京師に迫った。山後の地は廷棟の管轄であったので、罪を負ったまま援けに入るよう命じられた。兵部尚書の張鳯翼も罪を懼れて自ら督師を請うた。二人は臆病で戦おうとせず、近畿の地は多く荒廃した。言官が次々と弾劾し、二人はいよいよ懼れ、戒厳が解けたら必ず重い譴責を受けると見て、日々大黄の薬を服して死を求めた。
  • 八月十九日に大清の兵が塞を出て、九月一日に鳯翼が没し、十日余りして廷棟も没した。のちに法司が罪を定め廷棟は死刑に坐したが、既に死んでいたので追及しなかったという。
  • 廷棟が没した後も父の克從はなお存命であったが、のちに賊が鄢陵を破ったので開封に避難し、開封が水攻めに遭って溺れ死んだ。