明史卷二百五十七 列傳第一百四十五 張鳯翼
代州の人。萬厯四十一年の進士。天啟三年に遼東巡撫となったが、關門だけを守るべきだとして關外八城の回復を進める樞輔の孫承宗と対立し、その経営を妨げて「才は卑しく識は暗い」と罵られた。崇禎三年に薊遼保定總督として遵化・永平の四城を回復した功で兵部尚書に進み、温體仁と親しかったため中枢の長官が次々替わるなかで独り五年その位に居た。しかし辺境の失機、鳳陽皇陵の焼失、剿賊の不首尾と失態が続き、言官の弾劾は絶えなかった。剿賊では洪承疇と盧象昇に關の内外を分担させる方略を立てたものの成らず、大清の兵が昌平に入ると責めを逃れようとみずから督師を請うたが、諸将は尻込みして畿内の州県が相次いで失われた。王洽の先例に死を悟って大黄を服し、戒厳の解けた翌日に没した。
年表(10件)
- 萬厯四十一年1613年進士に及第し、戸部主事に任じられる
- 天啟三年1623年五月に遼東巡撫となり、關門を守るのみとする策を主張して孫承宗と議を異にする
- 天啟四年1624年孫承宗を揺さぶったところで母の喪に遭い解任される
- 天啟六年1626年秋に旧官で起用されて保定を巡撫し、翌冬に薊遼總督となる
- 崇禎元年1628年保定巡撫時代に魏忠賢の生祠を建てたと弾劾され、病を理由に去る
- 崇禎三年1630年薊遼保定の軍務を総督し、遵化・永平四城の回復の功で兵部尚書に進む
- 崇禎七年1634年大清の兵が宣大の境に入った失機の処分を担当し、総督・巡撫らを流刑に処す
- 崇禎八年1635年正月に賊が鳳陽の皇陵を焼き、弾劾を受けて戴罪のまま職務に当たる
- 崇禎九年1636年七月に大清の兵が昌平に入ると自ら督師を請い、九月一日に病没する
- 崇禎十一年1638年七月、先の剿寇の功を論じて奪われた官を復される
出自と遼東巡撫
- 張鳯翼は代州の人。萬厯四十一年(1613年)の進士で、戸部主事に任じられ、廣寜兵備副使を歴任し、喪で帰った。天啟のはじめ、右參政に起用されて遵化の兵備を整えた。
- 三年(1623年)五月、遼東巡撫の閻鳴秦が罷免され、鳯翼を右僉都御史に抜擢して代えた。王化貞が廣寜を棄てて以来、関外の八城はすべて空になり、樞輔の孫承宗が意を決して回復しようとしていたが土木工事はまだ始まっていなかった。鳯翼は任命を聞くと、承宗が朝廷に還って遼の事を自分に押し付けるつもりではないかと疑い、ひどく懼れてただちに上疏して関門だけを守ることを請うた。その座主の葉向髙と同郷の韓爌が政を執っていたので、抑えて上げさせなかった。
- 関に着くと八月に前屯・寜逺の諸城を巡視し、上疏して承宗の経営の功を大いに称えた。かつ言った。八城の土木は一年でできる工事ではなく、六年の傷は一時に癒せる病ではない。今日、討伐を議しても戦を口にすることはできず、計が立たない。ただ固守すべきで、山海を根拠地とし寜逺を門戸とし廣寜を偵察の地とすべきである、と。その意は専ら関を守ることにあり、承宗と議を異にした。
- 当時、趙率教が前屯に駐して田を開き兵を練って成果を上げ、袁崇煥・滿桂が寜逺を守って関外の態勢はおおよそ定まっていた。ところが突然、中左所が兵を受けたという噂が立ち、永平の吏民は騒然として逃げ出そうとした。鳯翼は動揺し急いで妻子を西へ帰した。承宗は「私が関を出なければ人心は落ち着かぬ」と言い、四年(1624年)正月に東へ向かった。
- 鳯翼は人に語った。樞輔は寜前の荒れた辺塞に私を置こうとしている。これは私を殺すことだ。国家が遼左を棄てても全盛を失うわけではない。大寜や河套のように棄てて何の害があろう。今、世を挙げて遼を回復したいとは思っていないのに、彼一人が回復したいのか、と。ひそかに言路にいる知人に命じて馬世龍の貪淫と三大将に司令部を置くことの非を罵らせ、承宗を揺さぶった。承宗は不快に思い、その言を挙げて上申した。ちょうど鳯翼が母の喪に遭ったので解任された。承宗は重ねて上疏して世龍らを弁護し、ついでに鳯翼を、才は卑しく臆病、識見は暗く狡猾、利を追うのが巧みで難を避けるのが上手だと罵った。廷議は既に去った者として重ねて問わなかった。
薊遼総督と兵部尚書への復帰
- 六年(1626年)秋、旧官で起用され保定を巡撫した。翌年冬、薊遼總督の劉詔が罷免され、鳯翼を右都御史兼兵部右侍郎に進めて代えた。
- 崇禎元年(1628年)二月、御史の寗光先が、鳯翼は前に保定を巡撫していたとき魏忠賢の生祠を建てたと弾劾した。鳯翼は罪を認めて罷免を乞うたが許されず、まもなく病を理由に去った。生祠を建てた者はみな逆案に入れられたが、鳯翼は辺境の臣であるため赦された。
- 三年(1630年)、旧官で起用され劉䇿に代わって薊遼保定の軍務を総督した。遵化・永平の四城を回復した後、功を叙して太子少保・兵部尚書に進み、錦衣僉事を世襲で蔭した。鳯翼は西協が手薄なので、良将を増やす・重兵を置く・火器を備える・軍需を予め蓄える・偵察を遠くまで出すなどの数事を条奏し、従われた。
- のちまた病を理由に去った。久しくして召されて兵部尚書となった。翌年二月、平臺で召対され、吏部尚書の李長庚とともに、国のために事に当たり身を清くして属僚を率いよとの諭を奉じた。
- まもなく宣府・大同の兵が少ないとして上言した。国初の定額の軍は宣府が十五萬一千であったが今はわずか六萬七千、大同は十三萬五千であったが今はわずか七萬五千である。両鎮でそれぞれ一萬人を増募して営を分けて訓練させたい。また月の給与はわずか五銭では、どうして勇猛な士を集められようか。一人に二人分の糧を給されたい、と。帝はいずれも従った。
- 給事中の周純修、御史の葛徵奇らが、軍事が日々切迫しているとして鳯翼の職務怠慢を弾劾した。鳯翼は続けざまに疏して引退を乞うたが、いずれも許されなかった。
辺境の失機と鳳陽皇陵の焼失
- 七年(1634年)、登州回復の功で太子少保を加えられた。七月、大清の兵が察罕を西征し、軍を返して山西・大同・宣府の境に入った。帝は守臣が機を逸したことを怒り、兵部に下して罪を論じさせた。部の議は巡撫の戴君恩・胡沾恩・焦源清を革職して杖罪を贖わせ、總督の張宗衡を閑居とするものであった。帝は軽すぎるとして鳯翼に釈明させ、そこで総督・巡撫および三鎮の總兵である睦自强・曹文詔・張全昌はいずれも流刑となり、監視中官の劉允中・劉文中・王坤も浄軍に充てられた。
- 当時、討賊總督の陳奇瑜が招撫で事を破綻させ、給事中の顧國寳が鳯翼の人選の誤りを弾劾したが、帝はこれも問わなかった。奇瑜が罷免されると、ただちに三邊總督の洪承疇に河南・山西・湖廣の軍務を兼督させて中原の群盗を討たせた。言官は承疇の勢いでは兼ね見るのは難しいとして別に一人を総督として遣わすよう請うたが、鳯翼は決断できなかった。やがて承疇はついに功を挙げられなかった。
- 賊が南を犯そうとしたとき、江北巡撫の楊一鵬を鳯陽に鎮させて皇陵を守らせるよう請うたが、温體仁が聴かず、鳯翼も重ねて請うことができなかった。八年(1635年)正月、賊は果たして鳯陽の皇陵を焼いた。言官が次々と鳯翼を弾劾し、鳯翼も自ら危ぶんで罪を認め罷免を乞うたが、帝は許さず罪を負ったまま職務に当たらせた。
- はじめ賊が江北を犯したとき、給事中で桐城の孫晉が郷里を憂えたところ、鳯翼は「公は南の人だ。何を賊に憂えることがあろう。賊は西北に起こったので稲米を食わず、賊の馬は江南の草では養えぬ」と言った。聞く者は笑った。事がいよいよ急になってからようやく朱大典に鳯陽を鎮させ、まもなく盧象昇を総理に推して洪承疇と南北の賊を分けて討たせたが、賊は既に広がって制御できなくなっていた。
- 給事中の劉昌が、鳯翼が總兵の陳壯猷を推したのは重い賄賂を受けたからだと弾劾した。鳯翼が力めて弁じ、昌は位階を下げられて地方に転出させられた。
剿賊の方略と督師・死
- やがて鳯翼は言った。剿賊の役はもとの議で兵七萬二千を集め、賊の向かう先に随って殲滅を期すこととした。督臣の承疇は三萬人を豫・楚の数千里に配したので力が薄く、また長く戍って病を生じたため、尤世威・徐來朝はともに潰えた。二萬人を三秦の千里の内に散らしたので勢いが分かれ、しかも孤軍で援けがなかったため、艾萬年・曹文詔はともに敗れた。今は祖寛・李重鎮・倪寵・牟文綬の兵一萬二千を加え、さらに楚の兵七千を募って合わせて九萬余となり、兵力は厚くなった。関内の賊は承疇に、関外の賊は象昇に属させたい。もし賊がことごとく関を出れば承疇が豫で合わせて討ち、ことごとく関に入れば象昇が秦で合わせて討つ。
- 続けて言った。臣にはさらに憂えることがある。賊は三四十萬と号して交互に出て侵し、勢いは多く力は集まっている。我は散り散りに四方へ応じ、勢いは少なく力は分かれている。賊は行く先々で我から糧を取るので皆腹一杯だが、我は行く先々で薪を刈ってから炊くのでたちまち欠乏を訴える。賊は馬が多く進みが速く、一二日で三百里に達しうる。我は歩兵が多く進みが遅く、三日で足に肉刺ができて走れない。多寡・飢飽・労逸の隔たりがこの通りでは、賊はいつ平らぐのか。督理の二臣に厳しく命じて将を選び軍を統べさせ、軍ごとに一二萬人とし、前鋒・後詰・中軍が連絡し合って貫かれるようにされたい。そうしてはじめて賊を制して賊に制されずに済む。今、賊の大勢は東へ向かっており、北に黄河、南に長江、東に漕渠がある。彼らに舟がない以上、飛び越えられまい。我が兵が西北から追い詰めればまだ力を用いやすい。これが河を防ぎ険を扼する当面の要策で、申し渡すべきことである、と。帝は善しと称し速やかな実行を命じた。
- 鳯翼は自ら督師して賊を討つことを請うたが、帝は丁重な詔で許さなかった。
- 九年(1636年)二月、給事中の陳昌文が上言した。将は軍にあっては君命でも受けないことがある。今、督理の二臣に臨機の権を任せた以上、行軍の機微は中央から制すべきでない。今日は首級を取るなと議し明日は必ず首級を取れと議し、今日は兵を徴して鳯陽を援けよと議し明日は兵を退いて河を防げと議したのでは、必ず従いようがなくなる。枢臣は今より督撫の足を引っ張るような事はすべて法令を緩めて存分にやらせるべきである。兵法では敵の攻めぬ所を守り敵の守らぬ所を攻め、奇と正を織り交ぜる。賊を滅ぼすのに何の難しさがあろう。ところが今は滅ぼせないどころか、今日は軍を破られ将を殺され、明日はまた邑を陥れられ州を荒らされる。それでいて守令だけを罪して巡撫に及ばないのは、法の公平と言えようか。枢臣は今より諸巡撫に成果を責めるべき事については法令を緩めず、いっそう磨きをかけさせるべきである、と。帝はその言を容れた。
- 江北の賊は滁州・歸徳の二度の敗北の後、ことごとく永寧・盧氏・内郷・浙川の大山の中に走り、関中の賊も閿郷・靈寳を経てこれと合流した。鳯翼は、河南・鄖陽・陝西の三巡撫にそれぞれ将吏を督して防ぎ止め外へ逸れさせぬこと、四川・湖廣の両巡撫に軍を境界近くへ移して援けと討伐に応じさせること、督理の二臣が大軍で山に入って追い詰めること、あわせて米商の通行と販売を厳しく遮ることを請い、そうすれば賊は尽く滅ぼせると言った。帝は深く然りとし、五月を期限として平定せよ、軍を疲れさせ財を費やせば督撫以下は罪を赦さぬとした。
- 鳯翼はこの策を立てたものの、象昇の部下は騎兵が多く山に入るのが不得手で、賊はついに滅ぼせなかった。
- 七月に至り、大清の兵が天夀山の後ろから昌平に入り都城は戒厳となった。給事中の王家彥が、陵寝を震撼させたとして鳯翼が座視して救わなかったと弾劾した。鳯翼は懼れて自ら督師を請い、尚方剣を賜って諸鎮の勤王の兵をすべて督することとなり、左侍郎の王業浩に部の事務を代行させた。中官の羅維寜に通州・天津・臨清・徳州の軍務を監督させ、宣大總督の梁廷棟も兵を率いて援けに入り、三人は互いに犄角をなしたが、いずれも尻込みして戦おうとしなかった。
- そこで寳坻・順義・文安・永清・雄・安肅・定興の諸県および安州・定州が相次いで失われた。言官の弾劾の疏は五六度に上った。鳯翼は憂えること甚だしく、己巳の変で尚書の王洽が獄に下って死になお死刑に坐したのを知っていたので免れないと悟り、日々大黄の薬を服した。病はすでに危篤であったが、なお軍書の処理をやめなかった。八月末に都城の戒厳が解けると、鳯翼は九月一日に没した。
- やがて罪が議されてその官を奪われたが、十一年(1638年)七月、先の剿寇の功を論じて詔により叙して復された。
- 帝は在位十七年の間に中枢の長官を十四人替えたが、みな久しからずして罪を得た。鳯翼は温體仁と親しかったので独り五年その位に居た。その督師も責めを逃れようとしてのことであったが、結局は法を畏れて死んだのである。