明史卷二百五十五 列傳第一百四十三 黄道周
漳浦の人、字は幼平、学者は石齋先生と称した。天啓二年の進士で、経筵の展書官のとき一人だけ膝行を拒んで魏忠賢に睨まれた。崇禎年間、錢龍錫を三度上疏して救い、易と天道に拠って「察によって弊を除こうとして弊いよいよ多し」と苛察の政を諫め、周延儒・溫體仁を刺して庶民に落とされた。復官後は自らの「三罪四恥七不如」を挙げて司経局の任を辞し、楊嗣昌・陳新甲・方一藻を同日に弾劾して奪情と和議を責め、平臺の対論で帝と真っ向から論じ合って「佞」と叱られ、削秩ののち下獄・広西永戍となった。赦されて復官し、南明では福王に禮部尚書、唐王に武英殿大學士として仕えたが、鄭氏の専権のなか自ら江西へ出て義勇九千余を募り、婺源で敗れて捕らえられ、江寧で死んだ。天文・暦数・皇極の学に精通し、『易象正』『三易洞璣』『太函經』を著した。
年表(11件)
- 天啓二年1622年進士に及第し、庶吉士から編修を授けられる
- 崇禎二年1629年旧官に起用され右中允に進み、三度上疏して錢龍錫を死一等に減じさせる
- 崇禎五年1632年正月、辞職に臨んで上疏し、苛細を捨てて敦大に帰すべきだと論ずる
- 崇禎九年1636年推薦により召されて旧官に復す
- 1637年閏月の旱魃の修省に際し、諸臣が黙して言わぬことを痛論する
- 崇禎十一年1638年二月の経筵で鄭三俊を庇う答をして帝に三度詰問される
- 崇禎十一年1638年六月、楊嗣昌・陳新甲・方一藻を弾劾する三疏を同日に上げる
- 崇禎十一年1638年七月五日、平臺に召されて帝と奪情の是非を論じ、佞と叱られて退けられる
- 崇禎十五年1642年八月、輔臣の取りなしにより流配を解かれ、旧官に復す
- 天啓五年1625年のちに道周を救って下獄する葉廷秀が進士に及第する
- 崇禎十六年1643年冬、葉廷秀が特旨で旧官に起用されるが、都城陥落で赴任しない
出自と天啓年間
- 黄道周は字を幼平といい、漳浦の人。天啓二年(1622年)の進士。庶吉士に改められ、編修を授けられた。経筵の展書官となったが、旧例では必ず膝行して進み出るところ、道周ひとりそうしなかった。魏忠賢は目でこれを制した。まもなく母の喪で帰郷した。
崇禎五年の上疏
- 崇禎二年(1629年)に旧官で起用され、右中允に進んだ。三度上疏して前の宰相の錢龍錫を救い、降格・転任となったが、龍錫は死一等を減じられた。
- 五年(1632年)正月、補職を待つ間に病を得て辞職を求め、出発に臨んで上疏した。要旨は次のとおり。
- 臣は幼くして易を学び、天道を基準として二千四百年の載籍を上下し、その治乱を考えたが、百に一つも外れなかった。陛下の御極の元年はちょうど師卦の上九に当たり、その爻辞に「大君に命有り、国を開き家を承く、小人は用うるなかれ」とある。陛下が賢才を思われてもすぐには得られず、小人を懲らしめても絶ちがたいのは、陛下に大君の実がありながら、小人が天命を犯そうとする心を抱いているからである。
- 臣が入京して以来、目にした大臣たちにはみな遠謀がなく、動もすれば些末を穿鑿する。朝廷を治める者は督責を要諦とし、辺疆を語る者は姑息を上策とする。仁義道徳を説けば迂遠で理に外れると考え、刀筆と帳簿を執れば通達して実務を知ると考える。一切を磨勘(再点検)するので葛藤は年中絶えず、一意に調停しないので株連(連座)が四方に起こる。陛下は紀綱を整え外患を排除しようとされるのに、諸臣はそれを使って法令を煩雑にし搢紳を挫き、陛下は弊を剔り奸を防ぎ一人を懲らして百人を戒めようとされるのに、諸臣はそれを使って題目を借りて怨みを晴らし、恨みを集めて権を売る。
- しかも外廷の諸臣で陛下を欺きうる者は、決して拘束されて文を守る士ではなく、権力と巧知のある人物である。内廷の諸臣で陛下を欺きうる者は、決して錐刀や銭布のような小さなところではなく、権柄を握り神叢に拠るような大きなところである。陛下には超然と省み、広く載籍を稽えられたい。古来今に至るまで、米を数え薪を量るような細事から遠大の謀が成り、毛を吹き睫を数えるような穿鑿から三皇五帝の治が挙がったためしはない。
- あの小人どもは、事を見る知恵は常に事の前には短く、言葉は常に事の後に多い。凌河の囲みを救わずして凌の城は築くべきでないと言い、島民を治めずして島の衆は用いるべきでないと言い、兵は長く駐屯するから逃げるのに乱は兵がないから生ずると言い、軍費は漏れる器に注ぐように費えるのに功は餉がないから挙がらぬと言う。視聴を乱し、次第に欺き合って、ついに極度の壊敗に馴れ、もはや挽回できなくなる。臣は密かにこれを危ぶむ。
- 二年以来、察によって弊を除こうとして弊はいよいよ多く、威によって頑を懲らそうとして威はいよいよ尽きた。いまこそ申不害・商鞅を反して周公・孔子に帰り、苛細を捨てて敦大を崇ぶべき時である、と。
- 帝は不快とし、「葛藤」「株連」の数語を抜き出して具体的に陳べさせた。
再度の上疏と削籍
- 道周は上言した。近年、諸臣が目を配り心を用いるところに、一つとして真に朝廷のためのものはない。その用人・行事は結局、追及と報復にすぎない。一昨年の春以降、辺疆を盛んに論じたのは、実は陛下の辺疆のためではなく、逆璫のために辺疆を蒸し返したのである。昨年の春以降、科場を盛んに論じたのは、実は陛下の科場のためではなく、仇怨のために科場を蒸し返したのである。これこそ葛藤・株連ではないか。
- 古来、外患がまだ鎮まらなければ大臣は一心に外患を憂え、小人がまだ退かなければ大臣は一心に小人を憂えたものだ。いまはひとりそれを君父に押しつけ、大臣自身は徴税の督励や比較の末事に身を置いている。事を行って失敗すれば「事は為すべからず」と言い、人を用いて失敗すれば「人は用うるに足らず」と言う。これが臣の言う筋違いである。
- 三十年来、門戸の禍を醸してきたのに、いままた搢紳のうち多少の器量と識見のある者を、網に掛け穽に投じている。緩急のときに一人の士を用いることができようか。手綱を断ち切って去る者は決して鰌魚ではなく、厩に恋々として来る者は決して駿馬ではない。利禄で士を飼えば、飼われる者は必ず利を嗜む臣であり、笞で人を駆れば、駆られて来る者は必ず駑馬の骨である。
- いま諸臣の才器と心術は陛下もご存じであろう。小人と知りながら小人を驕らせれば小人の炎はますます張り、君子と知りながらさらに小人を参ぜしめれば君子の功は立たない。天下の人材はこれだけであり、廊廟になければ林藪にある。臣の知る者では馬如蛟・毛羽健・任贊化、聞き及ぶ者では惠世揚・李邦華、仕籍にある者では徐良彦・曾櫻・朱大典・陸夢龍・鄒嘉生があり、みな卓抜偉大で、一方面を任せれば必ず見るべきものがあろう、と。
- 言葉はみな大學士の周延儒・溫體仁を刺すものだったので、帝はますます不快とし、庶民に落とした。
崇禎九年以後の復官と「七不如」
- 九年(1636年)、推薦により召されて旧官に復した。翌年(1637年)閏月、久しい旱魃で修省が行われた際、道周は上言した。近ごろ中外が斎戒して百姓のために命を請うているのに、五日のうちに二人の尚書が繋がれ、一通の疏を出す者があったとも聞かない。どうして乱を戡め凶を除き、平明の治を助けることを望めよう。陛下は上で焦り労し、小民は下で転々としているのに、諸臣はその間で袋の口を括って黙っている。少しでも人心があれば、ここまで至るまい、と。
- さらに上疏して言った。陛下は寛仁で大いに宥されるので、重寄を身に負いながら七、八年に至るまで効なく、権を擁して平然としている者がある。積み重なった末に、国に是非なく朝に枉直なく、中外の臣工は総じて糊塗して事を図る。まことに痛憤すべきことだ。しかしその視聴はひとえに上に係る。上が催科を急げば下は賄賂を急ぎ、上が厳密な穿鑿を楽しめば下は険しい摘発を楽しみ、上が告訐を喜べば下は誣陥を喜ぶ。南北がともに乱れているこの時に、どうして市井の細民と口論のような話をし、些細な恨みを言い立てられようか、と。
- 当時、體仁はまさに奸人を招いて東林・復社の獄を構えようとしていたので、道周はこれに触れたのである。
- ほどなく右諭徳に進み司経局を掌ることとなったが、疏を上げて辞退し、そのなかで自分には「三罪・四恥・七不如」があると述べた。三罪・四恥は自らを責めたもの、七不如とは次のとおりである。品行が高く峻しく、抜きん出て人の模範となる点では劉宗周に及ばない。至性と奇情があって純孝に恥じない点では倪元璐に及ばない。深く思慮をめぐらし遠く見通して深く計る点では魏呈潤に及ばない。憚らず諫言し、清らかな裁断が俗を絶する点では詹爾選・呉執御に及ばない。志が高雅で博学多通な点では華亭の布衣・陳繼儒、龍溪の挙人・張燮に及ばない。獄に繋がれた臣のうち、朴訥な心と純粋な行いという点では李汝璨・傅朝佑に及ばない。文章と意気が不遇のなかで磊落である点では鄭鄤に及ばない、と。
- 鄤はちょうど母を杖打ったとして大いに非難されていたところだった。帝は疏を見て驚き怪しみ、是非を転倒させたと責めた。道周は疏を上げて弁明したが、言葉はまた鄤を庇うものだったので、帝は怒り、厳しい旨で切責した。
- 道周は文章と気風・節操で天下に高く、厳しく冷ややかで剛直、流俗に和さなかったので、公卿の多くは畏れて忌み、そこで「鄤に及ばず」の語を口実にしたのである。
- その冬、東宮の講官を選ぶにあたり、體仁はすでに罷めて張至發が政を執っており、道周を排して加えなかった。その同僚の項煜・楊廷麟は不平として上疏し、道周に譲ろうとした。至發は「鄤が母を杖打ったことは明旨で明らかである。道周は自ら及ばないと言っているのに、どうして元良(皇太子)の輔導を任せられようか」と言った。道周はそこで病と称して辞職を乞うたが、許されなかった。
崇禎十一年、講筵での応対
- 十一年(1638年)二月、帝が経筵に臨んだ。刑部尚書の鄭三俊がちょうど官に下されており、講官の黄景昉がこれを救ったが、帝はまだ許さなかった。そこへ帝がたまたま、もとの講官である姚希孟がかつて漕儲をすべて折色にするよう請うたことを非とする話を持ち出した。道周は聴き取りが十分でなく、帝が三俊を寛かに扱おうとして希孟を思い出しているのだと考え、そこで言った。故輔臣の文震孟は一生蹇直でしたが恩恵を蒙りませんでした。天下の士で、生きては三俊のごとく、死しては震孟・希孟のごとき者は、似た者を求めても多くは得られません、と。帝は答えが実情に合わないとして回奏を命じ、再度奏しても再度詰り、三度奏してようやく済んだ。
- およそ道周が建言したものは一つとして裁可の旨を得たことがなかったが、道周はそれでも言うことをやめなかった。
楊嗣昌ら三人の弾劾
- 六月、閣臣の推挙が行われた。道周はすでに日講官を務めており、少詹事に遷って名を連ねることができたが、帝は用いず、楊嗣昌ら五人を用いた。
- 道周はそこで三通の疏を草し、一は嗣昌を、一は陳新甲を、一は遼東巡撫の方一藻を弾劾して、同じ日にこれを上げた。
- 嗣昌を弾劾して言った。天下に父のない子はなく、また臣たらぬ子もない。衛の開方は親を顧みず、管仲は豭狗にたとえた。李定は継母の喪に服さず、宋の世は挙げて人梟と指弾した。いま楊嗣昌のように、二つの喪服を着けぬまま司馬(兵部)の堂に坐る者がある。宣大の督臣・盧象昇は父の柩が路上にあり、胸を打ち血の涙を流して近隣から後任を推すよう請うたのに、突然「在籍で守制中の者も併せて推挙せよ」との旨が出た。そもそも守制の者を推挙してよいなら喪を聞いても去らずともよくなり、喪を聞いて去らずともよいなら子たる者は父を父とせずともよく、臣たる者は子たらずともよいことになる。たとえ人才が甚だ乏しいとしても、どうして不忠不孝の者に苞を連ね蘖を引かせ、その不祥を植えて天下を汚させてよいのか。嗣昌は職にあること二年、「網を張って地に溢れさせる」という談、「款市して天を楽しむ」という説で、その才知も見て取れる。そのうえさらに一人の不祥の人を起こして表裏をなさせる。陛下は孝で天下を治め、搢紳の家庭の小さな諍いさえ法で治められるのに、喪を冒し倫を斁るものにだけ禁がないというのは、臣は密かに不可と考える。
- 新甲を論じて言った。彼は守制を全うせず、邪径を走って捷足に託した。天下がたとえ甚だ無才であっても、そこまで借りるべきではない。古来、忠臣孝子で艱難に益をなさなかった者はあっても、不忠不孝でありながら功名・道徳の門に進めた者は決してない。臣は二十歳で自ら耕し、手足に胼胝を作って二親を養い、四十余で籍を削られたときは徒歩で荷を担い二千里を歩き、履を脱がなかった。いま五十を越えたが、妻子を養う必要も婢僕の煩わしさもない。天下にもし人がなければ、臣は清華の職を解いて出て、要地の鍵を預かる用意がある。どうして棘を負い泥にまみれた者に不祥を祓わせて王化を汚す必要があろうか、と。
- 一藻を論じたものは、和議の非を強く責めるものだった。
- 帝は道周が用いられなかったことを恨んで言っているのだと疑い、また「搢紳の勃谿」の語は鄭鄤の罪を免れさせようとするものだとして、吏部に下して譴責させた。嗣昌はそこで上言し、鄤は母を杖打った禽獣にも劣る者なのに、いま道周はさらにその鄤に及ばぬと言う。その意はただ凶徒を庇って前言の誤りを取り繕うだけで、心の在り方が知れる、と述べ、あわせて自らの罷免を乞うた。帝は手厚い旨でこれを慰めた。
平臺の対論
- 七月五日、内閣および諸大臣を平臺に召し、道周も加えられた。帝は諸臣と所管の事を語り、久しくして道周に問うた。「およそ何のためということなく為すのを天理といい、何かのために為すのを人欲という。そなたの三疏はちょうど廷推で用いられなかった時に当たっている。本当に何のためということがなかったのか」。道周は「臣の三疏はみな国家の綱常のためであり、何のためということはなかったと自ら信じます」と答えた。帝が「なぜ先に言わなかったのか」と問うと、「先ならまだ言わずにおけましたが、選任された後に言わなければ、もはや言うべき日がありません」と答えた。帝は「清はもとより美徳だが、物を傲り非を押し通してはならぬ。伯夷こそ聖の清であって、小さな廉と些末な謹慎は廉であって清ではない」と言った。
- このとき道周の答えは意にかなわず、帝はたびたび反駁した。道周はさらに進んで「孝弟の人にしてはじめて天下を経綸し万物を発育させられます。不孝不弟の者は根本がないのですから、どうして枝葉がありましょう」と言った。
- 嗣昌が進み出て奏した。臣は空桑から生まれたわけではなく、どうして父母を知らぬことがありましょう。ただ思いますに、君は臣の綱、父は子の綱で、君臣はもとより父子の前にあります。まして古は列国の君臣ですから、ここを去ってかしこに行けましたが、今は一統の君臣で、天地の間に逃れる所がありません。しかも仁は親を遺れず義は君を後にせずで、どちらかに偏重しがたいのです。臣は四度疏を上げて力めて辞し、詞臣のうちに劉定之や羅倫のような者があって抗疏し臣に代わって請うてくれれば志を遂げられると思っておりました。都門に至って、道周は人品・学術で人の宗師とされる人物なのに、鄭鄤に及ばぬと言っていると聞きました、と。帝は「そうだ。朕もちょうどそれを問おうとしていた」と言った。
- そこで道周に問うた。「古人の心には何のためということがなかったが、今は各々主とするところがある。だから孟子は人心を正し邪説を息めようとした。古の邪説は別に一教をなしていたが、今は直ちに聖賢の経伝に付会するので、世道人心に関わることがさらに大きい。そのうえそなたが鄭鄤に及ばぬと言うのはなぜか」。道周は「匡章は国じゅうから見捨てられましたが、孟子は礼貌を失いませんでした。臣は文章が鄤に及ばぬと言ったのです」と答えた。帝は「章子は父と折り合わなかったのだ。どうして鄤の母を杖打った者と比べられよう。そなたが及ばぬと言うのは朋比ではないのか」と言った。道周は「衆が悪むところも必ず察するものです」と答えた。
- 帝が「陳新甲がどうして邪径を走り捷足に託したというのか。しかもそなたの言う『軟美に容悦し、叩首折枝する者』とは誰のことか」と問うと、道周は答えられず、ただ「人の心が邪であれば行いの筋道もみな邪です」と言った。帝が「喪はもとより凶礼だが、凶に遭った者がそのまま凶人で、ことごとく不祥の人だというのか」と問うと、道周は「古は三年の喪には君命もその門を過ぎませんでした。自ら凶であり不祥だと考えるからです。ゆえに軍礼では凶門を穿って出るのです。奪情は疆外であれば可ですが、朝中では不可です」と答えた。帝が「人が用いうるなら、内外の何の別があろう」と問うと、道周は「我が朝は羅倫が奪情を論じて以来、前後五十余人があり、多くは辺疆にありました。ゆえに嗣昌が辺疆にあれば可ですが、中枢にあっては不可です。中枢ならまだしも、政府(内閣)では不可です。嗣昌一人だけならまだしも、朋を呼び類を引いて奪情の世界を作り上げてしまうのも不可です」と答えた。
- 帝はさらに久しく詰問し、そして言った。「少正卯も当時は聞人と称された。心が逆で険しく、行いが偏って頑なで、言が偽りで弁が立ち、非に順って潤色し、醜事を記して博い。聖人の誅を免れなかった。今の人にはこれに似た者が多い」。道周は「少正卯は心術が正しくありませんでした。臣の心は正しく、一毫の私もありません」と答えた。
- 帝は怒り、しばらくして退出して旨を待つよう命じた。道周は「臣が今日ことごとく言わなければ臣が陛下に背きます。陛下が今日臣を殺されるなら陛下が臣に背かれるのです」と言った。帝は「そなたの一生の学問は佞を成しただけだ」と言い、叱って退けた。
- 道周は叩頭して立ち、また跪いて奏した。「臣はあえて忠と佞の二字を分析して申します。人が君父の前で独立して敢えて言うのが佞であるなら、君父の前で讒諂し面諛するのが忠なのでしょうか。忠と佞が別たれなければ邪と正は混じります。どうして治に至れましょう」。帝は「もっともだ。朕がみだりにそなたに佞を着せたのではない。ただ問うところがここにあるのに答えるところがあそこにある。佞でなくて何であろう」と言い、再び叱って退けた。そして嗣昌を顧みて「甚だしいものだ、人心の軽薄なことは。道周がこのように恣肆では、正さずにおられようか」と言い、文武の諸臣を召してみな戒めの諭を聴かせてから退いた。
削秩・下獄と永戍
- このとき帝は兵事を憂え、大事を託せるのは嗣昌だけだとして破格に用いていた。道周は経(常道)を守って帝の意に背き、奏対もまた恭順でなかったので、帝は甚だ怒って重罪に処そうとしたが、その名声の高さを憚ってなお決しかねた。
- 折しも劉同升・趙士春もまた嗣昌を弾劾し、重い譴責を受けようとしていたが、部の擬した道周の処分はかえって軽かった。嗣昌は、道周が軽く済めば自分を論ずる者が絶えなくなると恐れ、急いで道周を弾劾する者を買い求めた。刑部主事の張若麒は兵部への転任を図っており、そこで嗣昌の意に阿って上疏した。臣が聞くに、人主の尊は尊きこと二つとなく、人臣に将(謀反の心)はなく、将あれば必ず誅する。いま黄道周とその徒党は言葉を作り上げて聖徳を損ない、古今にない好い言葉を挙げてことごとく道周から出たことにし、過ちはすべて君父に帰さぬものがない。先日の召対の始末を頒示されなければ、公に背き党に死ぬ徒が煽り立てて四方を惑わし、私かに記録して後世を疑わせ、聖天子が人心を正し邪説を息める深意を覆い隠すことになり、大いに不便です、と。
- 帝はただちに廷臣に諭して、道周のために脅かされ合って朋党をなすなと、数百言を伝えた。そして道周を六秩貶して江西按察司照磨とし、若麒は果たして兵部を得た。
- 久しくして、江西巡撫の解學龍が部下の官を推薦し、道周を極めて手厚く称揚した。旧例では担当官庁に下すだけで帝も読み返さないものだったが、大學士の魏照乘が道周を甚だ憎み、學龍が濫りに推薦したと責める旨を擬した。帝はそこで怒って直ちに二人の籍を削り、逮捕して刑部の獄に下し、邪に党して政を乱したと責め、ともに杖八十を科して党与を追及した。供述に連座して編修の黄文煥、吏部主事の陳天定、工部司務の董養河、中書舍人の文震亨がともに獄に繋がれ、戸部主事の葉廷秀、監生の涂仲吉が救おうとしてやはり繋がれた。
- 尚書の李覺斯が判決を軽くすると厳旨で切責され、再び烟瘴の地への流配を擬したが、帝はなお軽すぎるとして覺斯を除名し、獄を鎮撫司に移して拷問させ、そのうえで刑部の獄に戻した。
- 一年余りして、尚書の劉澤深らが言った。二人の罪は永戍に至って止まりです。これを越えれば死を論ずるほかありませんが、死を論ずるのは封疆の失事か貪酷であって、建言によった例はありません。道周には封疆・貪酷の罪がなく、建言によって誅を蒙った名だけが残ります。それは道周には得なことでも、我が聖主の覆載の度量ではありません。陛下が疑われるのは党です。党とは行事に現れるものですが、道周は抗疏してただ空言に託しただけで、一、二の知己が従って罷斥されたにすぎません。どこに党があって朝廷の大法を煩わせましょうか。しかも陛下に道周への積年の恨みがおありでしょうか。万一、聖意が転じられたときに臣がすでに罪を論定していては、悔いても及びません、と。そして元の擬案どおりを請うたので、広西に永戍となった。
赦免と復官
- 十五年(1642年)八月、道周が流配されてすでに一年を経たある日、帝は五人の輔臣を文華後殿に召し、一冊の書を手にして落ち着いて問うた。「張溥・張采はどういう人物か」。みな「読書好学の人です」と答えた。帝が「張溥はすでに死んだ。張采は小臣なのに、科道官はなぜしきりに称えるのか」と問うと、「その胸中には自ずと書があり、科道官はその用がまだ尽くされていないのを惜しむのです」と答えた。帝は「やはり偏を免れまい」と言った。
- このとき延儒は、嗣昌がすでに先に死んでおり、自分はいま再び宰相に入ったので、公議を参用して道周のために地歩を作ろうと考えた。そこで「張溥・黄道周はいずれも偏を免れませんが、ただ善く学ぶがゆえに人々が惜しむのです」と答えた。帝は黙っていた。徳璟が「道周は先日、流配の恩命を蒙りましたが、上のご寛大さです。ただその家は貧しく子は幼く、実に憐れむべきです」と言うと、帝は微笑した。演が「その親に仕えることもきわめて孝でした」と言い、甡が「道周の学は通じないものがなく、しかもきわめて清苦です」と言うと、帝は答えず、ただ微笑するだけだった。
- 翌日、旨が伝えられて旧官に復した。道周は道中から謝恩の疏を上げ、學龍と廷秀の賢を称えた。
- 帰還すると帝は道周を召見した。道周は帝を見て泣き、「臣は思いもかけず今また陛下にお目にかかれました。臣にはもとより犬馬の疾があります」と言って休暇を請い、許された。
南明での最期
- 久しくして、福王が監国となると道周を吏部左侍郎に用いた。道周は出仕を望まなかったが、馬士英がほのめかして「人望は公にある。公が起たないのは、史可法に従って潞王を擁立しようというのか」と言ったので、やむなく参内し、進取の九策を陳べ、禮部尚書を拝して詹事府の事を協理した。しかし朝政は日ごとに非となり、大臣は相次いで国を去ったので、識者はその滅亡が近いと知った。
- 翌年三月、禹陵に祭告する使いに遣わされ、出発に臨んで進取の策を陳べたが、時勢はこれを用いることができなかった。事を終えたばかりで南都が亡んだ。
- 衢州で唐王聿鍵に謁し、表を奉って即位を勧めた。王は道周を武英殿大學士とした。道周は学問と行いが高く、王は敬礼すること特に篤かった。鄭芝龍に通侯の爵を賜り、位を道周の上とすると、衆議はこれを抑え、文と武はこれによって不和となった。ある諸生が上書して、道周は迂遠で相位に居るべきでないと誹ったが、王はそれが芝龍の意から出たと知り、督學御史に下して打たせた。
- このころ国勢は衰え、政は鄭氏に帰していた。大帥は恩を恃んで様子見をし、一度も関を出て兵を募ろうとしなかった。道周は自ら江西に赴いて恢復を図ることを請い、七月に出発した。行く先々で遠近が呼応し、義勇の軍九千余人を得て、広信から衢州に出、十二月に進んで婺源に至り、大清の兵に遭遇した。
- 戦って敗れ、捕らえられて江寧に至り、別室に幽閉されて囚人の服のまま著述した。刑に臨んで東華門を過ぎたとき、坐って立たず「ここは髙皇帝の陵寝に近い。ここで死ねる」と言い、監刑の者はこれに従った。幕下の士である中書の賴雍・蔡紹謹、兵部主事の趙士超らもみな死んだ。
- 道周の学は古今を貫き、行く先々に学者が雲のように集まった。銅山は孤島の中にあり石室がある。道周は幼い頃からその中に起居していたので、学者は石齋先生と称した。
- 天文・暦数・皇極の諸書に精通し、著すところに『易象正』『三易洞璣』および『太函經』があり、学者は年を窮めてもその説に通じられなかったが、道周はこれを用いて治乱を推し験した。没後、家人がその小冊を得たところ、自ら丙戌の年、六十二歳で終わると記してあり、はじめてその未来を知りえたことが信じられた。
葉廷秀(附伝)
- 葉廷秀は濮州の人。天啓五年(1625年)の進士。南樂・衡水・獲鹿の三縣の知縣を歴任し、入って順天府推官となった。
- 英國公の張惟賢が民と田を争ったとき、廷秀は裁いて民に返した。惟賢は御史の袁𢎞勛に頼んで差し戻し再審させたが、廷秀は初めの通り執った。惟賢が朝廷に訴えると、帝は結局、廷秀の奏を用いて田を民に返した。
- 崇禎年間に南京戸部主事に遷り、内外の喪(父母の喪)に遭った。喪が明けて入京し、まだ補職されないうちに吏治の弊を上疏して言った。催科の一事は、正供のほかに雑派があり、新増のほかに暗加があり、額辦のほかに貼助がある。小民は産を破り家を傾け、どうして盗賊とならずにおられよう。州縣の弊を救おうとするなら監司・郡守から始めるべきで、その源を澄まさずしてどうして流れを清められよう。保挙の令が行われてすでに数年になるが、職に称う者はまれである。連座の法を厳しくしないわけにはいかない、と。帝はこれを容れ、戸部主事を授けた。
- 帝が傅永淳を吏部尚書としたとき、廷秀は永淳は凡庸の才で人事の統轄に当たるべきでないと言い、わずか四か月で永淳は果たして失敗した。
- 道周が逮捕されて下獄すると、廷秀は抗疏して救った。帝は怒って杖百を加え、詔獄に繋いだ。翌年冬、福建へ流配された。
- 廷秀は劉宗周の門に学び、造詣は深遠で、宗周の門人では廷秀が筆頭だった。道周とはまだ面識がなかったのに、死を冒して救おうと論じ、重罪に処されても平然としていた。
- 道周が釈放されて帰ると、給事中の左懋第、御史の李悦心が相次いで推薦を論じ、執政もその賢を称えた。道周も道中から重ねて請い、帝は担当官庁に検討させた。ほどなく執政が再び推薦し、十六年(1643年)冬、特旨で旧官に起用されたが、折しも都城が陥落して赴任しなかった。
- 福王の時、兵部侍郎の解學龍が道周を推薦し、あわせて廷秀にも及んだので、僉都御史として用いるよう命じられた。帰朝すると馬士英が憎んで抑え、光禄少卿を授けた。
- 南都が覆ると、唐王が召して左僉都御史を拝し、兵部右侍郎に進んだ。事が敗れると僧となって生涯を終えた。
史論
- 賛にいう。劉宗周と黄道周が指摘し陳べたところは、深く時弊に的中していた。その才と守を論じ、忠と佞を分かった議論は、万世の亀鑑とするに足る。それなのに聴く者は迂遠だとして遠ざけた。「時を救い変を済う」という説がそれを惑わせたのである。伝に「危うくとも起居し、ついにその志を信ぶ。なお百姓の病を忘れざるなり」とある。二臣にはそれがあった。身を殺して仁を成し、平素の守るところに背かなかったのは、なんと卓越していることか。