明史卷二百五十五 列傳第一百四十三 劉宗周
山陰の人、字は起東、学者は念臺先生と称した。萬厯二十九年の進士。許孚遠に学び、東林書院で髙攀龍らと講習し、證人書院を築いて禅に流れた王学末流を正し、慎独と誠敬を宗とした。天啓年間に魏忠賢を弾劾して削籍され、崇禎年間には順天府尹・工部左侍郎・左都御史を歴任したが、そのつど「治を求むること急に過ぎ、法を用うること厳に過ぎる」と帝の施政の根本を諫め、溫體仁を「厲階を生じた者」と名指しして庶民に落とされ、また姜埰・熊開元を詔獄から救おうとして革職された。北京陥落後は杭州で義勇の軍を募り、福王朝では「草莽の孤臣」と称して親征と四鎮の処断を求め、馬士英を弾劾して劉澤清らに命を狙われた。阮大鋮の起用を諫めて容れられず辞職し、杭州が降ると絶食して二十三日、閏六月八日に六十八歳で死んだ。門人の祝淵・王毓蓍も相前後して義に殉じた。
年表(12件)
- 萬厯二十九年1601年進士に及第するが、同じ年に母を喪い、堊室で喪に服す
- 天啓元年1621年儀制主事に起用され、魏忠賢と客氏の専横を弾劾して俸を半年停められる
- 天啓四年1624年右通政の起用を固辞したため、世を厭う偽りだとされて籍を削られる
- 崇禎元年1628年召されて順天府尹となる
- 崇禎二年1629年九月に入京し、功利・刑名・猜忌に流れる治を正すよう大上疏する
- 崇禎三年1630年「祈天永命の説」を進め、詔獄の廃止と新餉の停止を請う
- 崇禎八年1635年七月の閣臣推挙で孫慎行・林釬とともに名が上申される
- 崇禎九年1636年正月に入京して召対し、人心の収拾を第一とすべきだと答え、工部左侍郎を授けられる
- 崇禎九年1636年十月、溫體仁を国政を誤った首謀者だと弾劾し、庶民に落とされる
- 崇禎十四年1641年九月、帝みずから「清正で敢えて言う」と称して吏部左侍郎に起用する
- 崇禎十五年1642年八月に左都御史へ抜擢され、道揆を建てるなど六事を献じて容れられる
- 崇禎十五年1642年中左門の召対で姜埰・熊開元の詔獄を争い、革職されて帰郷する
篇首の立伝者一覧
- 劉宗周(祝淵・王毓蓍附)
- 黄道周(葉廷秀附)
出自と生い立ち
- 劉宗周は字を起東といい、山陰の人。父の坡は諸生であったが、母の章氏が身ごもって五か月で坡は死んだ。宗周が生まれた時、家は極貧で、母は宗周を連れて実家で育てた。のちに宗周の祖父が老いて病んだため帰って仕え、薪を割り水を汲み、薬や粥を運んだ。しかし体はきわめて弱く、母は常にそれを憂えて思いつめ、ついに病を得たが、貧しさゆえに堪えて治療しなかった。
- 萬厯二十九年(1601年)、宗周は進士となったが、母は家で死んだ。宗周は喪に駆けつけ、中門の外に堊室(土壁の喪屋)を作って、日々その中で哭き泣いた。喪が明けて行人に選ばれたが、祖父母の扶養を願い出、さらに喪に遭って七年家に居てからようやく補職に赴いた。母は節婦として朝廷に聞こえた。
東林を弁護する
- 当時、崑黨・宣黨があって東林と対立していた。宗周は上言した。東林の顧憲成は学を講ずるにあたって身を高く持し、髙攀龍・劉永澄・姜士昌・劉元珍はみな賢人であり、于玉立・丁元薦ははっきりとして欺かず、その志には国士の風がある。諸臣が人物の品等を論評するのはよいが、意見の争いにするのはいけない。東林を攻撃するのはよいが、崑・宣に党するのはいけない、と。
- 人々は大いに騒ぎ、宗周は休暇を願って帰郷した。
天啓年間、魏忠賢を弾劾して削籍
- 天啓元年(1621年)、儀制主事に起用され、上疏して言った。魏進忠は皇上を馬駆けや射・戯劇に導き、奉聖夫人は宮中を自由に出入りしている。一挙に諫臣三人を追放し一人を罰したが、いずれも中旨から出たものだ。この勢いでは鹿を指して馬と言うに至り、生殺与奪を握って国家の大命を制することになる。いま東西で兵を用いているのに、どうして天下を閹豎に委ねられようか、と。進忠とは魏忠賢のことである。忠賢は大いに怒り、宗周の俸を半年停めた。
- ついで宗周は、国法がまだ伸びていないとして、崔文昇を誅して弑君の罪を正し、盧受を誅して私交の罪を正し、楊鎬・李如楨・李維翰・鄭之范を誅して喪師失地の罪を正し、髙出・胡嘉棟・康應乾・牛維曜・劉國縉・傅國を誅して棄城逃潰の罪を正すよう請い、急ぎ李三才を起用して兵部尚書とし、清議に名高い賢者の丁元薦・李朴らや、諍臣の楊漣・劉重慶らを録用して、節に殉ずる気風を興すよう求めた。帝は厳しく責めた。
- 累進して光禄丞・尚寳・太僕少卿となり、病と称して帰郷した。四年(1624年)、右通政に起用されたが、着任すると忠賢が東林をほとんど追い尽くしていたので、宗周は固辞した。忠賢は情を偽って世を厭うものだと責め、その籍を削った。
崇禎二年、順天府尹としての大上疏
- 崇禎元年(1628年)冬、召されて順天府尹となった。辞退したが許されず、翌二年(1629年)九月に入京して上疏した。要旨は次のとおり。
- 陛下は精励して治を求め、朝夕やすむ暇もないが、効を求めることが急に過ぎ、小利を見て近功を急ぐことを免れない。それでどうして唐虞の治に至れようか。
- いま近功に汲々としているのは兵事である。屯守を上策とし、兵を精選し軍費を節し、刑政を整えて威信を布き、年月をかけて臨めば、風を望んで甲を解かぬ者はない。それなのに陛下は中興に鋭意して期限を切って塞外に出ようとされる。三空四尽のこの時期に天下の力を尽くして飢えた軍を養えば軍はますます驕り、天下の軍を集めて一戦に賭けても戦う日はない。これは計の誤りである。
- いま小利にこだわっているのは国計である。陛下は民の苦しみに心を留め痛ましく思われるのに、司農(戸部)が窮乏を訴えるので、いま論じられるのは搾取と収斂の政ばかりだ。正供が足りねば雑派を続け、科罰が足りねば火耗を加え、水旱の災害も一切問わず、鞭打ちの取り立ては日ごとに厳しく、道行く人は声を呑み、小民は妻子を売って有司に応じている。搾取を良吏の証とするので民を撫育する政は絶え、催徴を考課の基準とするので黜陟の法は失われた。国家に府庫の財を求めても得られるはずがない。
- 功利の見方が動くので廟堂の上は日ごとに煩わしく苛酷になり、事ごとに糾しても糾しきれず、人ごとに摘発しても摘発しきれない。かくて名と実は乱れ法令ばかりが増える。近ごろ特に贓吏の誅を厳しくし、宰執以下で重典に処された者が十余人あるが、貪風はやまない。導き方がよくないのである。賈誼は「礼は未然の先を禁じ、法は已然の後に施す」と言った。まことに礼をもって導けば、人ごとに士君子の行いがあって狗彘の心を持たなくなる。これが未然に禁ずるということだ。
- いまは一切の過誤や贈収賄を指弾された者は、すでに冤が晴れていてもなお吏議に従い、深文巧詆で天下の改過遷善の途を絶ってしまうので、ますます頑鈍無恥に慣れ、外貌を取り繕って陛下を欺くようになる。士の節操は日ごとに崩れ、官の邪悪は日ごとに顕著となるが、陛下とてそれを一つ一つ察することはできまい。
- 陛下が上で心を労し思いを焦がされるのは、賢人君子を得て用いておられないからである。ところが賞して委任される者は総じて奔走して事をまとめる類の人で、摘発を精明とし、告訐を正直とし、口達者を才知とする。それではどこから賢者を得て用いようか。人を得ても、求めるところが完備に過ぎ、短所ゆえに長所を捨て、責めることが苛酷に過ぎ、過失がかえって誤りを生む。
- しかも陛下の企図されるところは常に諸臣の予想を超え、独断で用いる心を免れない。臣下は過ちの取り繕いに追われ、讒諂の徒がその隙に離間するので、猜忌の端がここから起こる。一人の聡明を恃んで臣下に忠を尽くさせなければ耳目はときに塞がれ、一人の英断に任せて諸大夫や国人に是非を言わせなければ意見はときに歪む。そのうえ内降(詔を内々に下すこと)や留中(上奏を握りつぶすこと)を行っては、どうして君臣が喜び合って興る盛世を追えようか。
- 数十年来、門戸(党派)によって天下の正しい人をどれほど殺してきたか、それがなお蔓延してやまない。陛下は君子を挫いて小人の気を平らげ、小人を用いて君子の功を成そうとされるが、それでは以前の轍を天下に再び見ることになる。
- 陛下の治を求める心は急に過ぎ、醸されて功利となり、功利がやまねば刑名に転じ、刑名がやまねば猜忌に流れ、猜忌がやまねば壅蔽となって積もる。人心の危うさが密かに滋り暗く長じながら自ら気づかぬものである。まことに中を建て極を立て、黙してこの心を正し、心の発するところをことごとく仁義の良心とし、仁によって天下を育て、義によって万民を正し、朝廷から四海に至るまで仁義の教化ならぬものがないようにされれば、陛下は一朝にして堯舜の域に上られよう。
- 帝は迂遠だと考えたが、その忠実さを嘆じた。
都城の兵禍と諫言
- まもなく都城が兵禍に遭い、帝は朝に臨まず、上奏の多くは留められて返答がなかった。旨が伝わって布の袋八百を用意させ、中官は競って馬や騾を献じ、さらに百官にも馬を進上させた。宗周は「これは必ず遷幸(都落ち)を勧めて主上を動かそうとする者がいるのだ」と言い、午門に詣でて叩頭して諫めた。国勢の強弱は人心の安危によります。陛下には皇極門に出御して百官と会見し、明年の宗廟・山陵はここを固守するほかに策はないと示していただきたい、と。伏して返答を待ち、朝から日暮れまで動かず、中官が旨を伝えてようやく退いた。
- 米価が高騰すると、九門の税を廃し、商店を整えて貧民を住まわせ、粥を作って老人と病人を養い、保甲の法を厳しく行うよう請い、人心はやや落ち着いた。
- 当時、枢輔(兵部・内閣)の諸臣で下獄する者が多かった。宗周は言った。国事がここに至ったのは、諸臣が任務に背いた罪を逃れられぬからだが、陛下もまた咎を分かち負われるべきである。禹や湯が自らを責めて興ったのも、そのためである。かつて皇上は情面(私情のしがらみ)を疑って群臣に接せられたので、群臣はみな疑いの中に置かれ、日月を重ねて陰鬱なしこりとなり、識者はこれを憂えている。今日は誠心を開き示すことこそ、難を済う根本である。便殿に御して士大夫を引見し、票擬は閣臣に、庶政は部院に、可否を献ずることは言官に帰し、効果がなければ更迭すればよく、禁錮して罪を作り上げてはならない。
- 近ごろ朝廷は文吏を孤児の雛のように縛る一方、武人は驕子のように扱っており、恩と威の置きどころが次第に取り違えられ、文も武もともに信じるに足りなくなった。そこで一、二の内臣に専任し、閫外の事を次々に委ねているが、宦官が兵を掌って国を誤らなかった例は古来ない、と。
- さらに馬世龍・張鳳翼・呉阿衡らの罪を弾劾し、帝の意に忤らった。
祈天永命の説
- 崇禎三年(1630年)、病により休暇中に「祈天永命の説」を進めて言った。
- 天に法るうちで最も大きいのは民の命を重んじることであり、それには刑罰が当を得て公平でなければならない。陛下は重典で下を縛り、逆黨に誅があり、封疆の失事に誅があり、一切の過誤も重ければ杖で打ち殺し、軽くても左遷されるので、朝廷の官署は半ば赭衣(囚人服)に染まっている。なかでも国体を傷つけるものに詔獄ほどのものはない。副都御史の易應昌は冤罪を晴らしたために官に下された。法司が拷問による自白の作出を忠と考えるようになれば、蒼鷹・乳虎(酷吏)が天下に相次ぐことになる。上天の生を好む心に体して、まず詔獄を除き、應昌を寛かに扱われよ。それが祈天永命の一つの道である。
- 天に法るうちで最も大きいもう一つは民生を厚くすることであり、それには賦斂を緩やかに軽くしなければならない。いま滞納分の取り立てと来年分の前納が節々に追い立てられ、里閭は困窮疲弊し、貪吏はますます民の害をなしている。貴州巡按の蘇琰は旅装のことで監司に訐され、巡方が財を貪ったからには問責するまでもないとして官に下された。膏を吸い脂を吮うような輩が天下に相次ぐことになる。上天の生を好む心に体して、まず新餉(新規の軍費賦課)を除き、あわせて官紀を厳しく引き締められよ。これが祈天永命のもう一つの道である。
- そして大君は天の宗子であり、輔臣は宗子の家相である。陛下は輔臣を総じて特命で選んでおられるが、輔臣にも一人(天子)の生を好む心に体してもらい、異己を駆除して朝士を大獄に陥れ国家に朋党の禍を結ばせぬよう、また利を寵し功に居座って人主を富強に導き天下の土崩の勢いを醸さぬようにしていただきたい、と。
- 周延儒と溫體仁は疏を見て不快とし、時あたかも雨乞いの最中に宗周が病と称したのを怠慢だと指弾して帝の怒りを煽り、詰問の旨を擬させ、さらに足兵足餉の策を陳べさせた。宗周が箇条書きで答えると、延儒・體仁も難詰できなかった。
京尹としての施政
- 京尹(順天府尹)としては政令が一新され、豪家を挫くのにとりわけ力を尽くした。閹人が事を言ってきても取り合わず、罵り合いになることもあったが、宗周は平然と事務を執った。武清侯の下男が諸生を殴ったときは、これを打ち据えて武清侯の門外に首枷でさらした。かつて外出して芸人の担ぐ箱を見つけると、往来で焼き捨てた。身寄りのない者や貧しい家々を救うことにはとりわけ手厚かった。
- 一年在職して病と称して帰郷したとき、都の人々は市を閉じて惜しんだ。
崇禎九年の召対
- 八年(1635年)七月、内閣に欠員が出て、吏部に在籍者から推挙するよう命じられ、孫慎行・林釬および宗周の名が上申された。詔により担当官庁が出仕を促し、宗周は固辞したが許されず、翌年(1636年)正月に入京した。慎行はすでに死んでおり、釬とともに参内した。
- 帝が人材・兵糧および流冦の猖獗ぶりを問うと、宗周は答えた。陛下は治を求めることが急に過ぎ、法を用いることが厳しきに過ぎ、令を布くことが煩わしきに過ぎ、天下の士を進退させることが軽きに過ぎます。諸臣は罪を畏れて非を飾り、職務を尽くそうとしません。ゆえに人はあっても人としての用をなさず、餉はあっても餉としての用をなさず、将はあっても兵を治められず、兵はあっても賊を殺せません。流冦はもともと朝廷の赤子であり、撫するに道があれば民に戻ります。いま急ぐべきは人心を収拾することを根本とすることで、人心の収拾はまず有司を寛かにすることにあります。参罰が重ければ吏治は壊れ、吏治が壊れれば民生は困窮し、盗賊はこれによって日々増えるのです、と。
- 帝がさらに兵事を問うと、宗周は「外を禦ぐには内を治めるのを根本とします。内治が修まれば遠人は自ら服し、干羽の舞に有苗が来格したのです。陛下が堯舜の心をもって堯舜の政を行われれば、天下は自ずと平らぎます」と答えた。
- 答え終えて退出すると、帝は體仁を顧みてその言を迂遠だとし、釬に輔政を命じ、宗周は他に用いるとした。ほどなく工部左侍郎を授けられた。
「痛憤時艱」の疏
- 一月余りして、時世の困難を痛憤する疏を上げて言った。
- 陛下は鋭意治を求められるが、二帝三王が天下を治めた道を講求される暇がなく、施策の順序にはなお要領を得ないものが多い。まず辺功に意を注がれたので、罪ある督臣が「五年で恢復する」の説を進め、これが禍の胎となった。己巳の役(崇禎二年の兵禍)に国を謀る者が拙かったので、朝廷にはじめて士大夫を軽んずる心が積もり、以後、耳目は近侍に委ねられ、腹心は武臣に寄せられ、治術は刑名を尊び、政体は瑣末に堕して、天下の事は日ごとに壊れて救えなくなった。
- 廠衛が譏察を司るので告訐の風が熾んになり、詔獄が士紳にまで及ぶので堂上と堂下の等差が失われ、人ごとに過ちの取り繕いに追われて欺罔の習いはかえって甚だしく、事ごとに独断の裁可を仰いで諂諛の風が日ごとに長じている。三尺の法は司寇(刑部)で行われず犯す者は日ごとに増え、詔旨が五刑を雑え治め、年に自ら数千件の獄を裁かれるので生を好む徳意は消え、刀筆の吏が詔勅を扱うので王言は軽んじられ、誅求が瑣末に及ぶので政体は傷つき、参罰が銭穀に及ぶので官はますます貪り吏はますます横暴になり賦はますます滞る。鞭打ちが繁くて民生は疲れ、厳刑と重斂がともに民を苦しめて盗賊は日ごとに起こる。総理が置かれて臣下の功能は薄れ、監視が遣わされて封疆の責任は軽くなり、督撫に権がないので将は日ごとに臆病になり、武弁が法を廃するので兵は日ごとに驕り、将が臆病で兵が驕れば朝廷の威令もあわせて督撫のところで行き詰まる。朝廷が期限を切って賊を平らげよと迫るので、軍中では日々良民を殺して功と報じ、生霊はますます塗炭に苦しんでいる。
- ひとたび天が聖慮を啓かれ、総監の任を撤し、守令の選を重んじ、弓旌の招き(賢者招聘)を下し、酷吏の威を収め、維新の教化を布かれて、まさに二、三の臣工と心を洗い慮を滌いで泰交(上下の交わり)を結ぼうとされたのに、君臣の相遇はかくも難しいものだった。文震孟を一人得ながら一方の言だけで罷めさせ、大臣に和衷の誼を失わせ、陳子壯を一人得ながら過剛だとして罪に落とし、朝廷に「吁咈」(率直に論じ合う)の風を失わせた。これは国体と仁心に関わること浅くない。
- 陛下には必ず上天の物を生かす心に体して天を敬い、ただ風雷(威力)に頼られぬこと。必ず祖宗が古に鑑みて定めた制を念じて祖に率い、軽々しく改作されぬこと。簡要をもって政令を出し、寛大をもって人材を養い、忠厚をもって国脈を培い、政を発して仁を施し、天下の離散した人心を収められたい。そのうえで内廷の掃除の役(宦官)を宮中に還し、臆病な将帥の失律の誅を正し、皇族の改授の途を慎み、廷臣を遣わして内帑を携え郡国を巡行させて招撫使とし、罪なくして流亡した者を赦し、険阻に陣を布いて堅壁清野し、彼らが窮して自ら帰るのを待つ。首魁を誅するほかは一人も殺さずにこの役を終えることができる。どうして兵を観する(威を示す)に及ぼうか、と。
- 疏が入ると帝は甚だ怒り、閣臣に厳しい旨を擬させること再四に及んだが、擬案が上がるたびに帝は自らその疏を手に取って読み返し、立って数周してからようやく怒りを解いた。旨を下して詰問し、大臣が事を論ずるには国を体し時を量るべきで、小臣にならって過ちを朝廷に帰して名を高くすべきではないと言い、そのうえでその清直を褒めた。
- 当時、太僕に馬価が不足し、進んで献納する者は許すとの詔があった。體仁および成國公の朱純臣以下、みな献納した。また翌年の朝覲(地方官の入朝)を取りやめる議が出たが、宗周は財貨の輸納で朝覲を免ずるのは大いに国を辱めるものだとした。帝は不快に思いながらも内心その忠を善しとし、いよいよ大いに用いようとした。體仁はこれを憂え、山陰の人である許瑚を募って上疏させ、宗周は道学は有り余るが才知が足りないと論じさせた。帝は瑚が同郷でその人を知っているのだから本当だろうと考え、ついに用いるのをやめた。
- その秋、三度願い出て休暇を得て去った。天津まで来て都城が兵禍に遭ったと聞き、そのまま留まって病を養った。
崇禎九年十月の上疏と削籍為民
- 十月、事態がやや落ち着いてから上疏して言った。
- 己巳の変で国を誤ったのは袁崇煥ただ一人である。ところが小人は競って門戸の怨みを構え、自分と異なる者を一様に崇煥の党とし、日々流言を作って次々に排除した。これ以来、小人が進んで君子が退き、中官が実権を握って外廷は疎んじられ、文法は日ごとに繁く、欺罔は日ごとに甚だしく、朝政は日ごとに崩れ、辺防は日ごとに壊れた。今日の禍は実に己巳以来醸されたものである。
- しかも張鳳翼は職を怠ったのに専征させたのでは、王洽の死を誰が納得するか。丁魁楚らは辺で失事したのに戴罪(留任のうえ償い)で済ませたのでは、劉策の死を誰が納得するか。諸鎮の勤王の軍で先を争って入衛した者が何人あったか。逗留を咎められたとは聞かないが、それでは耿如杞の死を誰が納得するか。いま二州八県の生霊を犠牲にして一人が満腹して飛び去るような結末をつけたのでは、累々と居並んで幸いにも罪を免れる廷臣たちは、韓爌・張鳳翔・李邦華ら諸臣が流配され、あるいは去ったことにどう申し開きするのか。かつては異己だから駆除し、いまは自分と同じだから容易に容隠するというのか。ここに至って臣は、小人が人の国を害するのに終わりがないことを知った。
- 昔、唐の徳宗が群臣に「人は盧杞を奸邪だと言うが、朕には少しも分からぬ」と言い、群臣は「それこそ杞が奸邪たるゆえんです」と答えた。臣はこの言を繰り返し噛みしめ、万世にわたる奸の見分け方の要諦としてきた。だから「大奸は忠に似、大佞は信に似る」と言うのである。近年、陛下が私交を憎まれるので臣下は告訐で進み、陛下が清節を録されるので臣下は小心翼々で容れられ、陛下が精励を尊ばれるので臣下は奔走追従を恭順とし、陛下が綜覈を重んじられるので臣下は瑣末なあら探しで明察を示す。これらはみな信に似、忠に似る類で、その用心を突きつめれば身と家と利禄から出ぬものはない。陛下が察せずに用いられれば、天下の小人を集めて朝廷に立たせても気づかれぬことになる。
- 天下に才が乏しいとしても、どうしてすべて中官の下から出るというのか。それなのに陛下は緩急のたびに必ず大任を委ねられる。三協に派遣があり、通州・天津・臨清・徳州にも派遣があり、しかもその体統を重くして総督と同等にされる。中官が総督なら総督をどこに置くのか。総督に権がないなら撫按をどこに置くのか。これでは封疆を試しに使うようなものだ。
- また小人は常に小人と徒党を組んで互いに引き立て合うが、君子は独り毅然として自ら異なる。だから古来、小人を用いる君子はあっても、小人と党比する君子はいない。陛下がまことに君子を進め小人を退け、治乱消長の機を決しようとされながら、なお中官を用いて参制されるのでは、これは左袒(どちらに味方するか)を明示するのと同じである。道理を明らかにして争う者が出ても、陛下はその言を用いられぬだけでなく、その人まで追放される。御史の金光辰はこれによって追われた。中官の心を傷つけることを恐れるかのようで、天下に示す道ではない。
- 今日の刑政で最も筋の通らないものを挙げれば、成徳は傲慢な吏でありながら贓罪で流配された。それでは貪を懲らす令をどう厳粛にするのか。申紹芳は十余年の監司でありながら、有りもしない「鑽刺」(猟官)の廉で流配された。それでは競争を抑える典をどう明らかにするのか。鄭鄤の獄は誣告によって罪に落とされている。それでは人倫を篤くする教化をどう示すのか。この数件はみな、故輔の文震孟のために縄を引き根を切るもの(連座で根絶やしにするもの)であり、すなわち従来の異己駆除の常套手段だが、廷臣であえて言う者がないので陛下も知りようがない。
- ああ、八年のあいだ誰が国政を執ってここまで至ったのか。臣は首揆の溫體仁のために弁解できない。「誰か厲階を生じて、今に至るまで害をなす」という語は、體仁のことである、と。
- 疏が奏上されると帝は大いに怒り、體仁もまた上章して強く誹謗したので、ついに庶民に落とされた。
崇禎十四年の再起と左都御史
- 十四年(1641年)九月、吏部に左侍郎の欠員が出て、朝議の推挙が旨にかなわなかった。帝は朝に臨んで嘆じ、大臣に「劉宗周は清正で敢えて言う人物だ。用いるべきだ」と言い、そこでこれを命じた。再度辞退したが許されず、参内の途に就き、道中で三通の劄子を進めた。一は「聖学を明らかにして治の本を端すこと」、二は「聖学を躬行して治の要を建てること」、三は「聖学を重んじて治の教化を待つこと」で、あわせて数千言。帝は手厚い旨で報いた。
- 翌十五年(1642年)八月、まだ着任しないうちに左都御史に抜擢された。力めて辞したが詔が出て促され、一月余りして文華殿で拝謁した。
- 帝が都察院の職掌はどこにあるかと問うと、宗周は答えた。己を正して百僚を正すことにあります。必ず内に存するものが、上は君父に対し、下は天下の士大夫に質しうるものであってこそ、百僚はこれに則り倣うのです。大臣が法り小臣が廉であれば紀綱は振るい粛まります。職掌はここにあり、それを巡方(巡按御史)に成し遂げさせることが第一の務めです。巡方に人を得れば吏治は清まり民生は遂げられます、と。帝は「卿は力行して朕の望みに副え」と言った。
- そこで「道揆を建てる」「法守を貞しくする」「国体を崇める」「伏在する奸を清める」「官の邪を懲らす」「吏治を飭す」の六事を挙げて献じ、帝は褒めて容れた。
- ほどなく御史の喻上猷・嚴雲京を弾劾し、袁愷・成勇を推薦して、帝はいずれも従った。のちに上猷は李自成から高い官職を受け、ついに世の大きな誹りとなった。
- 冬十月、京師が兵禍に遭うと、事に殉じた盧象昇を旌表し、国を誤った奸臣の楊嗣昌を追罰し、跋扈する悍将の左良玉を逮捕し、関を防いで反攻に備え、潞を防いで渡河に備え、通州・天津・臨清・徳州を防いで南下に備えるよう請うたが、帝はすべては行えなかった。
中左門の召対と革職
- 閏月の晦日、廷臣を中左門に召見した。当時、姜埰と熊開元が言論により詔獄に下されており、宗周は九卿に呼びかけて共に救おうとしたが、参内して密旨で二人を死罪にすると聞いた。宗周は愕然として一同に「今日は官署を空にして争うべきだ。刑部に移送させて初めて済むことだ」と言った。
- 対面に入ると、御史の楊若橋が西洋人の湯若望は火器に長けているとして召して試すよう推薦した。宗周は言った。辺臣が戦守・屯戍の法を講ぜず、もっぱら火器を恃んでいる。近ごろ城邑が陥ちたのは火器がなかったせいだろうか。我が用いて人を制すれば、人が得てもまた我を制しうる。河間がかえって火器のために破られたのを見ないのか。国家の大計は法紀を主とする。大帥は跋扈し援軍は逗留しているのに、なぜかえって姑息にこんな紛々として益のない挙に出るのか、と。
- ついで督撫の去留を議したときは、まず督師の范志完を除くよう請い、こう言った。十五年来、陛下の処分が当を得なかったので今日の敗局を招いた。禍の始まりを追及して弦を張り替えず、一切を糊塗する政で目先の破れを繕うのは、長治の道ではありません、と。
- 帝は色を変えて「前のことは追えぬ。善後策はどこにあるのか」と言った。宗周は「陛下が誠を開き公を布き、天下を公として好悪し、国人と合わせて用捨し、賢才を進め言路を開いて、順次天下と共に一新なさることにあります」と答えた。
- 帝が「目下、烽火は畿甸に迫り、しかも国家の敗壊は極まっている。どうすべきか」と問うと、宗周は答えた。武備には必ずまず兵を練り、兵を練るには必ずまず将を選び、将を選ぶには必ずまず賢い督撫を択び、賢い督撫を択ぶには必ずまず吏部・兵部の二部に人を得なければなりません。宋臣は「文官が金を愛さず武官が死を惜しまなければ天下は太平である」と言いました。この言こそ今日の鍼砭です。論者は才望ばかり論じて操守を問いませんが、操守の慎まぬ者で事に臨んで進み出、軍士が畏れ服する者はありません。ただ議論が達者で振る舞いが派手なだけの者を才望と称して爵位を取らせれば余りありましょうが、事功を責めれば足りません。成敗に何の益がありましょう、と。
- 帝が「変を済う日は才を先にし守を後にするものだ」と言うと、宗周は「先人の敗壊はみな貪縦のなせるわざです。ゆえに変を済うことで言えば、なおさら守を先にし才を後にすべきです」と答えた。帝が「大将には別の才器があり、操守だけで成功を望めるものではない」と言うと、宗周は「他は論じませんが、范志完のように操守が慎まぬ者では、大将から偏裨に至るまで賄賂で登用されぬ者がなく、それゆえ三軍は解体するのです。これから見れば操守こそ主です」と答えた。帝の顔色はやや解け、「朕はもう分かった」と言い、宗周に立つよう命じた。
- そこで宗周は進み出て奏した。陛下はいま詔を下して賢を求めておられるのに、姜埰・熊開元の二臣はにわかに言論で罪を得ました。本朝には言官を詔獄に下した例がなく、あるとすればこの二臣に始まります。陛下の度量は卓越しており、臣宗周のような妄言の者、黄道周のような愚直の者にも過ちを見逃す典を賜りました。二臣はどうして不幸にも法外の恩に与れないのでしょうか、と。
- 帝は「道周には学があり守がある。二臣の比ではない」と言った。宗周は「二臣はまことに道周に及びません。しかし朝廷が言官を待遇するには体があります。言が用いるべきなら用い、用いられぬなら捨て置けばよい。応分の罪があるとしても法司に付すべきです。いま直ちに詔獄に下されたのでは、やはり国体を傷つけます」と答えた。
- 帝は甚だ怒って「法司も錦衣もみな刑官である。何が公で何が私か。しかも一、二の言官を罪するのがどうして国体を傷つけようか。もし贓を貪り法を壊し君を欺き上を罔することがあっても、すべて問わずにおけというのか」と言った。宗周は「錦衣は膏梁の子弟で、何の礼義を知りましょう。寺人に使われるだけです。陛下が贓を貪り法を壊し君を欺き上を罔することを問われるにしても、やはり法司に付さずにはおけません」と答えた。
- 帝は激怒して「そのように偏党では、どうして憲職に堪えようか」と言った。しばらくして「開元のこの疏は必ず主使者がある」と言い、それが宗周ではないかと疑った。金光辰がこれを争うと、帝は光辰を叱り、あわせて処分を議させた。翌日、光辰は三秩を貶されて外に調され、宗周は革職のうえ刑部で罪を議されることとなった。閣臣が旨を出さずに留め、元の旨を捧げ持って御前で懇ろに救ったので、免職・庶民のみで済み、帰郷した。
北京陥落後の挙兵
- 二年して京師が陥落した。宗周は徒歩で戈を担って杭州に赴き、巡撫の黄鳴駿に喪を発して賊を討つよう責めた。鳴駿が鎮静であるべきだと諭すと、宗周は憤然として言った。君父の変が非常のかたちで起こったのに、公は閫外を専らにしながら、戈を枕に血の涙を流して同仇の志を励ますことを思わず、鎮静を口実に逃げ腰の計を立てるのか、と。鳴駿はただ「はい、はい」と言うばかりだった。
- 翌日また促すと、鳴駿は「喪を発するには必ず哀詔を待たねばならぬ」と言った。宗周は「ああ、今がどういう時か。どこから哀詔が得られようか」と言い、鳴駿はそこで喪を発した。出師の時期を問うと「武具がまだ整わぬ」と言うので、宗周は「ああ、これでは共に事を為すに足りぬ」と嘆じた。
- そこで元侍郎の朱大典、元給事中の章正宸・熊汝霖とともに義勇の軍を募った。出発しようとしたとき、福王が南京で監国となり、宗周を旧官に起用した。
福王朝への上疏(時政四事)
- 宗周は大仇をまだ報じていないとして官職を受けようとせず、みずから「草莽の孤臣」と称して時政を上疏し、こう言った。今日の大計は、賊を討ち仇を復する以外に陛下の渡江の心を表すすべはなく、毅然と決断して親征なさる以外に天下の忠義の気を奮い立たせるすべはない、と。そして四事を挙げた。
- 一に「形勝に拠って進取を図る」。江左は偏安の業ではなく、進んで江北を図られたい。鳳陽は中都と号し、東は徐州・淮安を扼し、北は豫州を控え、西は荊襄を顧み、南は金陵を去ること遠くない。ここに親征の軍を駐め、大小の銓除(人事)は暫く「行在」と称して、臣子として罪を負い過ちを引き受ける心を少しでも保たれたい。ここから漸次進めば、秦・晉・燕・齊にも必ず呼応して起つ者がある。
- 二に「藩屏を重んじて彈壓に資する」。淮揚数百里に二人の節鉞(司令官)を置きながら乱を防げず、先を争って南下し、江北一帯の土地をむざむざ賊に手渡した。督漕の路振飛は淮城を守りながら、早くから家族を舟に乗せて遠地に送っていた。これが逃亡を唱えたのである。そこで鎮臣の劉澤清・髙傑にも家族を江南に預けるという言い分が生じた。軍法では陣に臨んで逃げた者は斬である。臣は一撫二鎮はみな斬るべきだと考える。
- 三に「爵賞を慎んで軍情を粛す」。各帥の封賞の当・濫を区別し、軽い者は侯爵を収め、重い者は伯爵を奪われたい。左帥(左良玉)が恢復の功で封じられたのに、髙傑・劉澤清が敗走してなお封じられるのなら、封じられぬ者があろうか。武臣がすでに濫であれば文臣もこれに続き、外臣がすでに濫であれば中璫もこれに続く。天下がこれを聞けば解体しよう。
- 四に「旧官を検覈して臣の紀を立てる」。燕京が陥落してから、偽官を受けて叛いた者、偽官を受けて逃げた者、守るべき地にありながら逃げた者、使命を奉じながら逃げた者がある。法はみな赦さない。速やかに区別して罪を定め、将来の戒めとされたい。偽の任命が南下し、順逆の間を彷徨する者は実に多く、必ず曲説を唱えて人心を惑わすであろうから、とりわけ誅絶すべきである。
- さらに言った。賊が秦に入り晉に流れ、次第に畿南を過ぎて遠近が騒然としたとき、ひとり大江の南北だけが安穏で、二、三の督撫は一騎も遣わして声援を強めることをしなかった。賊はそれで長駆して闕を犯した。君父の危亡を座視して救わなかったのだから、封疆の諸臣で誅すべき第一である。
- 凶報がすでに確かとなったとき、諸臣が戈を奮って起ち、一戦を決して前の過ちを贖うなら朝食を待つべきでもなかったのに、かえって南中に声息を仰いで守りを固める策ばかりを言い、閫外に兵権を投げ出して真っ先に定策の功を図った。封疆の諸臣で誅すべき第二である。
- 新朝が立った後は、日を措かず真っ先に北伐の師を遣わすべきであった。そうでなければ、せめて速やかに一人を間道から北へ走らせ、燕中の父老に檄を飛ばして塞上の名王を起たせ、九廟に哭し、梓宮を安置し、諸王を訪ねさせるべきであった。それも無理なら、閩帥の鄭芝龍を起こして海軍を直沽に下し、九辺の督鎮と謀を合わせて奮い立たせれば、事はまだ為しえたかもしれない。ところが諸臣の計はここから出なかった。朝廷を挙げて国を謀るに不忠であり誅すべき第三である。
- 罪を得て廃された諸臣を量って赦免するのは、先帝の遺詔を援いてなすべきである。それを一律に新恩を用い、閹を誅した定案を、前後の詔書がはっきりせぬまま、勢いとして彪虎の類(閹党)まですべて平反させてやまぬことになる。朝廷を挙げて国を謀るに不忠であり誅すべき第四である。
- 臣は、今日の問罪は中外の諸臣で職を果たさぬ者から始めるべきだと考える、と。
- 詔はその言を容れ、史館に付すよう命じた。中外は震え動いたが、馬士英・髙傑・劉澤清は甚だ恨み、いよいよ宗周を殺そうとした。
馬士英の弾劾
- 宗周は続けて辞職を願い出たが許されず、そこで抗疏して士英を弾劾して言った。
- 陛下が淮甸から龍飛せられたのは天が与えたのである。それなのに扈従のわずかな労で内閣に入り中枢(兵部)に進み、宮銜と世廕を平然と受けて疑わぬ者があるが、それは士英ではないか。これによって李沾は定策の功を誇大に言って廷臣を挑発し、劉孔昭は功賞の不均を憤って冢臣に当たり散らし、朝廷は騒然として言い争い、あらゆる陰の勢力がひらひらと立ち上がってきた。兵を知るの名を借りれば逆黨の死灰も再び燃え、反正の路を寛くすれば逃臣も引き上げられ、そして閣部の諸臣は次々に去ろうと言い出している。
- 中朝の党論がまさに興っているのに、どこに河北の賊を図る暇があろう。立国の本紀がすでに疎かなのに、何をもって匡攘の略を語ろう。髙傑は一介の逃将にすぎぬのに驕子のように扱われ、次第に尾大の憂いを生じている。淮揚の失事に撫臣・道臣を譴責して謝することは難しくないのに、それをしないのだから、どうして彼の桀驁が長じないでいられよう。これも士英の庇護を恃んでのことだ。劉澤清・黄得功ら諸将にはそれぞれ旧来の汛地があるのに、碁を打つように置き換え、騒然として鶏を繋いだような(互いに動けぬ)形勢となり、ついに江北を四鎮に分割して慰めることになった。どうして彼らの野心を開かずにいられよう。これはみな髙傑ひとりが唱えたことである。
- 京営は祖宗以来みな勲臣が政を執り、兵部の次官がこれを補佐してきた。陛下は立国の初めから内臣盧九徳を任ずる命を出された。士英はその責任を辞せまい。
- 要するに兵戈も盗賊もみな小人の気類が感じ合って生ずるものであり、しかも小人と奄宦はしばしば表裏をなす。古来、奄宦が権を用いて将帥が国土に功を樹てた例はない。陛下にはまず陰陽消長の機を弁じ、士英を出して従来どおり鳳陽を督させ、諸鎮を連絡させて用兵の策を決せられたい。史可法は中枢に還らぬにせよ、淮より北、河より南に別に幕府を開いて士英と掎角をなすべきである。京営提督(内臣の任命)は独断で取りやめられたい。それを史冊に書けば、𢎞光第一の美政となろう、と。
- 王は手厚い詔で答え、早く入朝するよう促した。士英は大いに怒り、その日のうちに疏を具えて辞職を申し出、しかも朝廷で「劉公は自ら草莽の孤臣と称して新任を書かない。天子に臣たらぬことを明示している」と言い触らした。
- その私人の朱統□(底本欠字)がそこで宗周を弾劾し、「疏に鳳陽への移蹕を請うたが、鳳陽は高牆(皇族の幽閉所)のある地であり、罪ある宗室を置く場所に皇上を置こうというのだ。しかも史可法と潞王を擁立しようとし、その兵はすでに丹陽に伏せてある。急ぎ備えるべきだ」と言った。
- 澤清・傑は日夜、宗周を殺す方法を謀ったが果たせず、そこで刺客十人ばかりを遣わして刺そうとした。宗周はそのとき丹陽におり、終日きちんと坐って怠った様子を見せることがなかったので、前後に来た刺客たちは危害を加えられずに去った。
- 一方、黄鳴駿が入覲するにあたり、その兵が京口に至って防江の兵と衝突した。士英は統□(底本欠字)の言が本当だと思ってこれにも震え上がった。
- そこで澤清は上疏して宗周を弾劾し、密かに恢復を妨げ、臣らを誅して士心を激変させ生霊の禍を招こうとしている、と言った。劉良佐もまた疏を具えて、宗周は三案を強く主張して門戸の主盟となり、親征を唱えて晁錯のごとく自らを図り、留守を司って司馬懿のごとく城を閉じて君を拒もうとしている、と言った。
- 疏がまだ下されぬうちに、澤清はさらに一疏を草し、傑・良佐および黄得功の名を署して上げ、こう言った。宗周は上に親征を勧め、君父を危うくしようと謀り、陛下を烽火の凶危の地に安置しようとしている。これは宗周ひとりの謀ではなく、姜曰廣・呉甡と謀を合わせたものである。曰廣は心が雄で胆が大きく、擁立は本心ではない。ゆえに密かに死党を結び、諸々の忠臣を剪除したうえで乗輿を脅かし他郡に遷そうとしている。甡や宗周が入京すれば、臣らは直ちに江を渡って闕に赴き、面と向かって諸奸を詰り、春秋の討賊の義を正す、と。
- 疏が入ると朝廷全体が大いに驚き、和衷して事に当たれとの諭が伝えられた。宗周はやむを得ず七月十八日に参内した。
- はじめ澤清の疏が出たとき、人を遣わして写しを傑に見せた。傑は「我ら武人が朝廷の事に与れるものか」と言った。得功は疏を具えて自分は関知していないと弁明した。士英はこれを握りつぶして奏さなかった。可法は不平として、使者を諸鎮に遍く遣わして問い質すと、みな知らないと答えたので、それに拠って報告した。澤清らはこれによって気勢を挫かれた。
阮大鋮の起用と辞職に際しての五事
- 士英はすでに宗周を憎み、いよいよ除こうとして、阮大鋮を兵に通じていると推薦した。詔があって冠帯を着けて拝謁させ、まもなく中旨で特に兵部添注右侍郎を授けた。宗周は「大鋮の進退は江左の興亡に関わる。老臣として一度は争わずにおれぬ。聴かれねばそのまま帰るまでだ」と言った。疏が入っても聴かれず、宗周は辞職を願い出て、詔により駅伝に乗ることを許された。
- 出発にあたって五事を上疏した。
- 一に「聖政を修め、近くの娯しみで遠くの謀を忽せにするな」。国家は不幸にしてこの大変に遭ったのに、いま制作が紛々として、もはや中原を志す様子がない。土木は盛んになり、珍奇は集まり、俳優・雑劇が並び、内竪が廷に満ち、金吾が座に満ち、外戚が犇めき合い、讒言する者が唱えて言路は塞がれ、官の常道は乱れた。これが近くの娯しみに馴れて遠くの図を忽せにするということである。
- 二に「王綱を振るい、主の恩で臣の紀を傷つけるな」。陛下の即位以来、中外の臣工は「従龍」でなければ「佐命」と称する。一たび近侍に恩を推せば左右がそれで権を執り、二たび大臣に恩を推せば閣と部が権を兼ね、三たび勲旧に恩を推せば陳情が今もやまず、四たび武弁に恩を推せば辺境を児戯のごとく扱う。表裏で呼応し、動もすれば朝廷を蔑ろにする心を抱き、互いに雄を競ってそのまま上を犯して等差なき習いとなる。礼楽征伐が次第に天子から出なくなる。これが主の恩を軽んじて臣の紀を傷つけるということである。
- 三に「国是を明らかにし、邪の鋒で正気を危うくするな」。朋党の説は小人が君子に着せて国家に空虚の禍を醸すもので、先帝の末年がその鑑である。いま一、二の元凶のために冤を称え、諸君子が先後して党のために死に、国に殉じて死んだのに、なお誅し足りぬかのようである。その由って来るところを推せば、ただ一人が登用されるや、動もすれば三朝の故事を引いて旧人を排し抑え、私交を重んじ君父を軽んじ、自ら党を樹てながら他人を党と決めつけるからである。これが邪の鋒を長じて正気を危うくするということである。
- 四に「治術を端し、刑名を教化に先立てるな」。先帝はかなり刑名を尊ばれたが、殺機はまず溫體仁から動き、殺運は日ごとに開けて怨毒は天下に満ちた。近ごろも貪吏の誅は、提問を経ずににわかに罪名を科し、罪名を科す前にまず贓を追徴する。もし禹のように善を好む巡方があっても、成徳を口実に権相に媚びる者があれば、誰がそれを弁別できよう。また職方・戎政の奸弊については道路に不満の声が満ちているのに、衛の臣(錦衣衛)でさえ問おうとしない。それでは廠衛を設けたのは何のためか。ただ人主に至徳を欠かせ治体を傷つけさせるだけだ。これが刑名を急いで教化を忘れるということである。
- 五に「邦本を固め、外の釁で内の憂いを醸すな」。さきに淮揚に変を告げたと思えば、まもなく髙・黄の二鎮が兵を治めて攻め合った。四鎮の額兵は各三万で、敵を殺さずに互いに殺し合い、しかも日々朝廷を煩わせて和解を講じさせている。何のためか。十二万の敵を殺さぬ兵で十二万の敵を殺さぬ軍費を求めるのは、必ず窮する道である。少しも裁抑せず、ただ加派と横徴を重ね、一、二の蒼鷹・乳虎のごとき有司を蓄えて天下をそれに殉じさせるだけである。これが外の釁を積んで内の憂いを醸すということだ、と。
- 手厚い詔で聞き置かれた。
絶食して死す
- 翌年五月、南都が亡び、六月に潞王が降って杭州も守りを失った。宗周はちょうど食事中で、膳を押しやって慟哭し、これより食を断った。
- 郭外に移り住むと、故事に倣って文を作って謝罪してはどうかと勧める者があった。宗周は言った。北都の変では、死ぬこともでき死なぬこともできた。身が田里にあり、なお中興に望みがあったからだ。南都の変でも、主上が自ら社稷を捨てられたので、なお死ぬこともでき死なぬこともできた。継いで起つ人があるのを待ったからだ。いま我が越(浙東)まで降った。老臣が死なずして何を待とうか。「身が位にないから城と存亡を共にする義務はない」と言うなら、土地と存亡を共にする義務はないとでも言うのか。これこそ江萬里が死んだゆえんである、と。
- 出て祖先の墓に別れを告げ、舟が西洋港を過ぎるとき水に躍り込んだが、水が浅くて死ねず、船人に助け出された。絶食すること二十三日、はじめのうちは茶を飲んでいたが、のちには一勺の水も口にしないこと十三日。門人との問答は平素のとおりだった。閏六月八日に死んだ。年六十八。
祝淵(附伝)
- 宗周の門人で義に殉じた者に祝淵と王毓蓍がある。
- 祝淵は字を開美といい、海寧の人。崇禎六年(1633年)に郷試に合格した。自ら年少で学がまだ十分でないとして、山頂の僧房にこもって三年読書し、山の僧もめったにその顔を見なかった。
- 十五年(1642年)冬、会試のため入京したところ、ちょうど宗周が朝廷で姜埰・熊開元のために争って籍を削られた。淵は抗疏して言った。宗周は愚直を生まれつきとし、忠孝は天から授かったもので、任を受けて以来、粗食も満足に取らず、夜通し眠らずに国恩に報いようと図ってきた。いま四方は多難で貪墨が風をなしており、清剛の臣を一人求めて風紀を司らせるとして、宗周に及ぶ者があるだろうか。宗周が迂遠・愚直として斥けられれば、後を継ぐ者は必ず柔弱に流れ、宗周が偏執として斥けられれば、後を継ぐ者は必ず立ち回りのうまい者となる。柔弱で立ち回りのうまい者が進めば、必ず私腹を肥やし賄賂を納れ、貞と邪を転倒させよう。成命を撤回し旧官に復されれば天下の幸いである、と。
- 帝は疏を得て不快とし、淵の会試を停め、礼官に議させた。
- 淵はもともと宗周と面識がなかったが、処分が決まってから宗周を訪ねた。宗周が「あなたがこの挙に出たのは、何のためということもなくやったのか、それとも名を求める心が動いてやったのか」と問うと、淵ははっと居ずまいを正して「先生の名は天下に満ちています。門下に列なれぬことをまことに恥じるのみです。願わくは贄を執って弟子とならせてください」と言った。翌年、宗周に従って山陰に行った。
- 礼官の議が上がると、逮捕されて詔獄に下され、主使者の姓名を問い詰められた。淵は「男児は死ねばそれまでだ。どうして人の指図を受けようか」と言った。刑部に移され、進士たちが共に上疏したので、淵はまもなく出獄した。
- 都城が陥落すると死難者を弔って葬った。太常少卿の呉麟徴の柩を郷里に送り届け、南京刑部に赴いて前の獄の始末をつけようとしたが、尚書に諭されてやめた。
- 上疏して奸臣の輔臣を誅するよう請うたが、通政司が抑えて奏さなかった。給事中の陳子龍が上疏して、淵および待詔の涂仲吉は義士であり台諫に堪えると推薦した。仲吉は漳浦の人で、諸生の身で万里を走って上書し、黄道周の冤を明らかにしようとして罪を得、杖刑と譴責を受けた者である。許されなかった。
- 宗周が官を罷めて郷里にあった間、淵はしばしば訪ねて学を問い、過ちがあれば小部屋に入って長く跪き、涙を流して自ら頬を打った。
- 杭州が守りを失ったとき、淵はちょうど母を葬るところで、工事を急がせて終え、葬儀を終えて家に帰ると祭壇を設け、そのまま首をくくって死んだ。年三十五。二日後に宗周が餓死した。
王毓蓍(附伝)
- 王毓蓍は字を元趾といい、会稽の人。諸生であったが放縦不羈で、後に宗周の門に学んだので、同門の生徒はみな非難し嘲笑した。
- 杭州が守れず、宗周が絶食してまだ死なぬうちに、毓蓍は書を上げて「願わくは先生、早く自裁され、王炎午に弔われるようなことのないように」と言った。
- ほどなく一人の友が毓蓍を見舞い「君はどうするのか」と問うた。友が「陶淵明の故事がある(隠棲する)」と言うと、毓蓍は「そうではない。我らは声色の中の人間で、長引けば持ち堪えられまい」と言った。
- ある日、旧友を遍く招いて歓談して飲み、伶人に楽を奏させ、酒が終わると灯を提げて門を出、柳橋の下に身を投じた。宗周に先立つこと一月で死んだ。郷里の人は私かに「正義先生」と諡した。
劉宗周の学問と人となり
- 宗周ははじめ許孚遠に学び、のち東林書院に入って髙攀龍らと講習し、馮從吾の首善書院の会にも参加した。
- 越中では王守仁の後、一伝して王畿、再伝して周汝登・陶望齡、三伝して陶奭齡となり、みな禅が混じった。奭齡は白馬山で講学して因果の説を唱え、守仁からいよいよ遠ざかった。宗周はこれを憂え、證人書院を築いて同志を集め講習した。
- 死に臨んで門人に語った。学の要は誠だけである。敬を主とするのがその工夫であり、敬なれば誠、誠なれば天である。良知の説は禅に流れぬものが稀である、と。
- 宗周が官にあった日は少なかったが、君に仕えるにあたって面従を敬とはしなかった。参内すれば暗室にあっても南面しようとせず、大獄を訊問し大議に会するとき、明旨に対しては必ず座を退いて拱手して立ち、長い時を過ごした。
- あるいは病と称して徒歩で帰り、家にあっては布の袍と粗末な飯で、道を楽しみ貧に安んじた。召しを聞いて道に就くとき、冠と衣裳を揃えられないこともあった。学者は念臺先生と称した。子は汋、字は伯繩。