明史卷二百五十六 列傳第一百四十四 崔景榮

篇首の立伝者一覧

  • 崔景榮
  • 黄克纘
  • 畢自嚴
  • 李長庚(附・王志道)
  • 劉之鳳

出自と初期の官歴

  • 崔景榮は字を自强といい、長垣の人。萬厯十一年(1583年)の進士で、平陽府推官に任じられた。
  • 御史に抜擢され、東厰の太監張鯨の罪を弾劾した。甘肅・湖廣・河南を廵按し、最後に四川を按じた。台諫の資歴を積むこと十八年に及んだ。
  • 播州が乱れると、景榮は大帥の劉綎・吳廣らの軍を監した。綎が金帛を景榮の家へ届けてその父の長寿を祝おうとしたので、景榮は上疏してこれを弾劾した。
  • 播州が平定されると、播州の北を安氏に与えよと請う者があったが、景榮は認めなかった。ちょうど總督の李化龍が喪で去ったため、景榮は蜀の一年分の租税免除と上東五路の救恤、礦使の廃止を請うた。化龍の上疏は監軍の功を叙したが景榮には及ばなかった。景榮はすでに太僕少卿に昇っていた。

寧夏巡撫としての辺務

  • 三年の任期が満ちて右僉都御史に抜擢され、寧夏を廵撫した。
  • 伊勒敦はもとより驕慢で毎年侵入して掠奪していた。景榮は自ら戦を督してこれを破り、あわせて賊を手引きする諸部への賞を廃する議を立てた。諸部は懼れて伊勒敦と絶交することを請い、伊勒敦は手引き役を失ってやはり関に来て交易を求めた。
  • 寧夏の毎年の交易は費用が莫大だったので、景榮はこれを削減する議を出し、在任三年でわずか一度交易したのみであった。その後、延鎮の濟農らが款を持ち出して交易の補填を求めたが、ついに許さず、年に金錢十餘萬を節約した。

兵部尚書と遼事

  • 四十一年(1613年)、中央に入って兵部右侍郎となり京營戎政を総べた。吏部に移されたが病を理由に辞去し、翌年、宣府大同總督として起用され、召還されて兵部尚書に昇った。
  • 遼陽・瀋陽が失われ、熊廷弼と王化貞の議論が合わなかったため、廷臣に経略・巡撫の去留を議させることになった。景榮はしばしば言官に論難され、御史の方震孺が景榮を罷めて孫承宗を代わりに立てよと請うたので、ついに病を理由に帰郷した。

天啟の吏部尚書と魏忠賢

  • 天啟四年(1624年)十一月、特別に起用されて吏部尚書となった。当時は魏忠賢が国政の実権を盗み、群小が互いに寄り集まっていた。忠賢は尚書の趙南星を追い出し、在野の景榮を起用して味方に取り込もうとした。着任すると忠賢は大邸宅を飾って待ったが景榮は赴かず、錦衣帥の田爾耕が挨拶に来ても辞して会わなかった。
  • 帝が太學に行幸するにあたり、忠賢はその前日に祭酒の講義を聴こうとし、また聴講する大臣への賜坐・賜茶の礼を削る議を立てた。さらに考選の定員を減らし京堂の添注官を整理する議も出したが、景榮はいずれも力を尽くして行わせず、次第に忠賢の意に逆らうことになった。
  • また景榮は魏廣㣲に書簡を送って楊漣・左光斗を救うよう勧めた。廣㣲はやむなく上申書を用意したが、のちに景榮の書簡を証拠として「景榮が私に教えたのだ」と言い立てた。そこで御史の倪文煥・門克新が相次いで景榮を弾劾し、ひそかに東林を庇い奸邪に媚びて後日の福を求めていると論じた。旨が下って官爵を削られ庶民とされた。
  • 崇禎の改元(1628年)で原職に復した。四年(1631年)に没し、少保を贈られた。