明史卷二百五十三 列傳第一百四十一 程國祥

出自と地方・部曹での経歴

  • 程國祥は字を仲若といい、上元の人。萬厯三十二年(1604年)の進士。確山・光山の二縣の知縣を歴任して清廉の名があった。南京吏部主事に移ったが、親の扶養を乞うて帰った。喪が明けて禮部主事として起用された。
  • 天啓四年(1624年)、吏部尚書の趙南星がその任に堪えると知って自分の属官に転じさせ、さらに四つの司を歴任した。御史の楊玉珂が請託したのを暴いて玉珂は左遷され、國祥も病と称して帰った。その冬、魏忠賢が趙南星を追放したのち、御史の張訥が國祥を南星の邪党と弾劾したので除名された。
  • 崇禎二年(1629年)、稽勲員外郎として起用され、考功郎中に移って地方官の勤務評定を主管し、公正で慎重だと評された。御史の龔守忠が國祥は賄を通じたと非難したので、國祥は上疏して弁明した。帝は清廉で節を守ると褒め、都察院に下して調査・奏上させたところ事は明白になり、守忠は官を剥がれた。
  • まもなく大理右寺丞に移り、太常卿・南京通政使を歴任し、そのまま工部侍郎に移り、さらに戸部に転じた。

戸部尚書と閣臣試験

  • 九年(1636年)冬、召されて戸部尚書を拝した。楊嗣昌が餉の増額を議すると、國祥はあえて逆らわなかった。しかしこのころ財政はいよいよ窮乏し、四方から災害の報告が相次いだ。國祥はさまざまに工面し、時には減免も行った。最後には都城の借家一季分の賃料を借り上げれば五十萬を得られると建議し、帝はこれを施行させた。しかし勲戚や宦官はことごとく隠して申告せず、得られたのはわずか十三萬で、怨嗟の声が路に満ちた。ただし帝はこれによって國祥を目にかけた。
  • 十一年(1638年)六月、帝は閣臣を増やそうとして中極殿に出御し、朝臣七十余人を召して自ら試験した。出された策問は次のようなものであった。近年天災が続き、今夏の旱はいっそうひどく、金星が昼に見えること五旬、四月には山西で大雪が降った。朝廷の腹心・耳目の臣は嫌疑と怨みを避けることに努め、有司の推挙・弾劾には情実と賄賂が絡んでいる。期を切って賊を平らげようとしても功はなく、討伐の兵も引き揚げられない。外敵は野心を起こし、辺境の餉は日ごとに窮する。民の貧窮は甚だしく正規の租税すら難しいのに、有司の搾取は百方にわたり、火に油を注ぐようである。どうすれば処置が適切になり、取り締まりに法が立つか、卿らは心を尽くして答えよ、と。
  • 折しも大雨となり、諸臣が面対を終えたころには夜も更けていて、最後まで考課を受けた者は三十七人にとどまった。しかし帝の意はあらかじめ決まっており、これを名目に借りただけであった。
  • 数日して國祥は禮部尚書に改められ、楊嗣昌・方逢年・蔡國用・范復粹とともに東閣大學士を兼ねて機務に参与した。当時は劉宇亮が首輔で、傅冠・薛國觀がこれに次ぎ、そこへにわかに國祥ら五人が加わった。國觀と嗣昌が最も権勢を振るい、國祥はその間を曲がりくねって身を守るだけであった。
  • 翌年(1639年)四月の召対で一言も発しなかったので、帝は諭を伝えて「國祥は黙り込んで大いに委任に背いた」と責めた。國祥はそこで辞職を乞うて去った。
  • 國祥ははじめ焦竑に学んだ。卿相を歴任しながら布衣・粗食で儒者の質素さを改めず、その子の程上とともに詩集を撰していた。國祥の没後、家は貧しくて煮炊きもできず、上は葬儀を終えると病を得て没し、跡継ぎはなかった。

蔡國用

  • 蔡國用は金谿の人。萬厯三十八年(1610年)の進士。中書舍人から御史に抜擢された。天啓五年(1625年)、時政六事を陳べて葉向髙・趙南星を非難し、亓詩教・趙興邦・邵輔忠・姚宗文ら七人を推薦した。魏忠賢は喜び、旨を偽って褒め受け入れた。まもなく宦官の意に忤って閒住を命じられた。
  • 崇禎元年(1628年)、旧官で起用され、たびたび昇って工部右侍郎となった。都城の修築を監督したとき石材の必要が急であったので、國用は牙石を取って用いることを建議した。牙石とは、崇文・宣武の両街に並べて、行幸の際の道払いに備えていたものである。帝は城を巡見してその功を嘉し、大用しようと考えた。
  • 十一年(1638年)六月、閣臣の廷推では國用は人望が薄く候補に入らなかったが、特旨で禮部尚書に抜擢され入閣して事にあたった。たびたび加官されて少保に至り、吏部尚書・武英殿に改められた。十三年(1640年)六月、任地で没し、太保を贈られ、文恪と諡された。國用は在職中は清廉で慎み深かったが、同僚の張四知とともに凡庸な才で、これといった見識はなかった。

范復粹

  • 范復粹は黄縣の人。萬厯四十七年(1619年)の進士。開封府推官を授けられた。崇禎元年(1628年)、御史となった。
  • 廷議で毛文龍を内地へ移そうとしたとき、復粹は「海外の億萬の生霊とて陛下の赤子でないものはない。もし身を寄せる所がなくなれば、必ずおのおの一島に拠って盗賊となり、後患は深い」と言った。また「袁崇煥の功は遼全体に及ぶのに、尚寳卿の董懋中は逆党にかばわれていると非難した。その論は狂妄である」と言い、懋中は落職し、文龍の移駐も取りやめとなった。
  • 江西を巡按したときは有司が民を害する六事の禁止を請うた。当時、郵伝の積年の弊を大いに整理したが削減が行き過ぎてかえって民を苦しめたので、復粹はその不都合を極めて陳べた。喪に遭って帰り、喪が明けて朝廷に還った。
  • 陜西の巡按に出て、治標・治本の策を陳べた。将を任じ、防備を設け、餉を留めることを治標とし、屯田を広げ、賦を免じ、招撫することを治本とした。帝は褒めて受け入れた。廷議で有司の徴税に欠額があれば撫按もあわせて罪に問うとしたときは、復粹は力めて不可と述べた。
  • 大理右寺丞から左少卿に進み、まもなく飛び越えて禮部左侍郎兼東閣大學士を拝した。このとき同時に命じられた五人のうち翰林出身は方逢年だけで、残りはみな外遼であり、なかでも復粹が少卿から入閣したのはとりわけ異例であった。思うに帝は閣臣に六部の事を通暁させようとして、部ごとに一人を選んだのである。首輔の劉宇亮は吏部、國祥は戸部、逢年は禮部、嗣昌は兵部、國用は工部から出ており、刑部に適任者がなかったので大理の復粹をこれに代えたのであった。
  • たびたび加官されて少保に至り、吏部尚書・武英殿に進んだ。十三年(1640年)六月、國觀が罷免されると復粹が首輔となった。
  • 給事中の黄雲師が「宰相には才・識・度の三つが必要である」と言ったので、復粹は憤り、自ら「三つとも一つも持ち合わせていない」と申し立てて罷免を請うたが、温かい旨で慰留された。御史の魏景琦が復粹および張四知を「学は浅く才は疎く、食事に相伴するだけで海内の嘲りを招いている」と弾劾すると、帝は妄りにけなしたとして役人に下した。
  • 翌年(1641年)、少傅兼太子太傅を加えられ、建極殿に改められた。賊が洛陽を陥れると、復粹らは罪を引いて罷免を乞うたが許されなかった。帝が乾清宮の左室に出て朝臣を召対し、福王が害された件に及んで涙を落とすと、復粹は「これは天数でございます」と言った。帝は「気数であっても人事によって挽回できるはずだ」と言い、復粹らは答えられなかった。
  • 帝の病が癒えたばかりのころ天下に大赦し、復粹に囚人の記録を調べさせたので、尚書の傅宗龍以下、減免される者が多かった。この年(1641年)五月、致仕した。国変ののち家で没した。

方逢年

  • 方逢年は遂安の人。天啓二年(1622年)の進士。庶吉士に改められ編修を授けられた。四年(1624年)、湖廣の試験を主管したとき、策問に「巨璫大蠧(大宦官という大害虫)」の語があり、しかも「天下にどうして人がいないことがあろうか。士大夫を軽んじて、皋陶・夔・稷・契のような人物を黄衣の宦官の類に求める者があるとは」と述べた。魏忠賢はこれを見て怒り、三等を降して地方に出した。御史の徐復陽が意を迎えて弾劾したので、籍を削られて庶民とされた。
  • 崇禎の初め、旧官で起用され、たびたび昇って禮部侍郎となった。十一年(1638年)、朝臣に辺境の才を挙げよとの詔が下ると、逢年は汪喬年を挙げた。まもなく禮部尚書に抜擢され入閣して政を輔けた。
  • その冬、刑科が未処理の弾劾案件を摘記して奏したとき、逢年は、贓私の罪を犯した者は本人が死に家産が絶えても親戚が連座して瓜の蔓のように広がると考え、軽く擬して上げた。ところが帝の意は刑部尚書の劉之鳳を罰することにあったので、逢年の疎漏を責めた。逢年は罪を引き、ただちに罷免されて帰った。
  • 福王のときに旧官を回復されたが召されなかった。魯王が三度召し、その議を用いて魯監國を称することが定まった。紹興が破られて王が海へ出ると、逢年は追いつけず、方國安らとともに我が大清に降った。その後、蠟丸の書で福建と通じたことが漏れ、誅された。

張四知(附・姚明恭、魏照乘)

  • 張四知は費縣の人。天啓二年(1622年)の進士。庶吉士から檢討を授けられた。崇禎年間に禮部右侍郎まで歴任した。容貌はきわめて醜く、悪性の腫れ物を患ったことがあった。
  • 十一年(1638年)六月の閣臣の廷推で突然その名が挙がった。給事中の張淳が祭酒であった時の汚職の状を弾劾すると、四知は憤って帝の前で力めて弁じ、自分は孤立して朝臣に妬まれていると述べた。帝の心はかなり動き、薛國觀もそれに乗じて力めて引き立てた。
  • 翌年(1639年)五月、姚明恭・魏照乘とともに禮部尚書兼東閣大學士を拝した。
  • 姚明恭は蘄水の人。趙興邦の門下から出たので世論はもとより認めなかった。崇禎十一年(1638年)に詹事から禮部侍郎に移り、庶吉士の教習にあたった。給事中の耿始然が「副都御史の袁鯨と結託して奸吏の振る舞いをしている」と弾劾したが、帝は聴かず、翌年ついに権を握った。
  • 魏照乘は滑の人。天啓のとき吏科都給事中となり、崇禎十一年(1638年)に兵部侍郎まで歴任した。翌年、國觀が引き入れて入閣させた。
  • この三人はいずれも凡庸低劣で、位を埋めていたにすぎない。四知は太子太保を加えられて吏部尚書・武英殿に進み、明恭は太子太保を加えられて戸部尚書・文淵閣に進み、照乘は太子少傅を加えられて戸部尚書・文淵閣に進んだ。
  • 帝は即位以来、言官を抑えることに努め、その言によって大臣を斥け罷めさせようとしなかったので、弾劾の章が多いほど地位は固くなった。四知は政を執ること四年、給事中の馬嘉植、御史の鄭崑貞・曹溶らに弾劾されたが帝はいずれも容れず、十五年(1642年)六月にようやく致仕した。照乘も四年在職し、御史の楊仁願・徐殿臣・劉之勃が相次いで論じ弾劾したので、病と称して去った。明恭は一年ほどで郷人が闕に詣でて訴えたため、暇を請うて帰った。のちに四知は我が大清に降った。