帝の下問を先に知って入閣
- 陳演は井研の人。祖父の陳效は萬厯年間に御史として倭寇征討の軍を監し、朝鮮で没して光祿卿を贈られた。
- 演は天啓二年(1622年)の進士に登り、庶吉士に改められ編修を授けられた。崇禎年間に少詹事まで歴任し、翰林院を掌り経筵に直した。十三年(1640年)正月、禮部右侍郎に抜擢され詹事府を協理した。
- 演は凡庸で学に乏しく、人と結ぶことに長け、翰林に入るなり宦官と通じていた。莊烈帝は閣臣を選ぶとき、いつも自ら策問を発してその答えで能否をうかがった。この年四月、宦官が帝の問おうとする数事を探り出して密かに演に授けたので、演の答えだけが旨に適い、ただちに禮部左侍郎兼東閣大學士を拝し、謝陞とともに入閣した。
- 翌年(1641年)、禮部尚書に進み文淵閣に改められた。十五年(1642年)、山東の盗賊平定の功で太子少保を加えられ戸部尚書・武英殿に改められた。弾劾されて罷免を乞うたが、優れた旨で慰留された。翌年(1643年)五月、周延儒が地位を去ると首輔となり、まもなく城守の功で太子太保を加えられた。十七年(1644年)正月、任期満了で少保を加えられ吏部尚書・建極殿に改められたが、一月を越えて政を罷め、さらに一月を越えて都城が陥り、ついに難に遭った。
吳三桂招致への反対と最期
- 演の人柄は凡庸なうえに酷薄であった。副都御史の房可壯、河南道の張煊が請託を受け付けなかったのを憎み、閣臣の会推にかこつけて帝に讒言し、可壯ら六人はともに役人に引き渡された。王應熊が召されながらすぐに帰されたのも、演の働きによるところがあった。
- 延儒が罷免されて以来、帝は演を最も信任し、延儒に付いていた台省の者はみな演の門に走った。このとき国の勢いは累卵のごとくで、内外みな支えきれないと知っていたが、演には何の方策もなく、かえって賄賂の噂ばかりが聞こえた。
- 李自成が陜西を陥れて山西に迫ると、廷議は寧遠の吳三桂の兵を引き揚げて山海關を守らせ京師に呼応させることに決し、帝の意もそうであった。ところが演は不可とした。のちに帝が断行を決めたが、三桂がようやく海船を用いて遼の民を関内へ渡し、二度往復したところで賊はすでに宣府・大同を陥れていた。
- 演は恐れて落ち着かず、病と称して罷免を求めた。詔で許され、旅費五十金と彩幣四表裏を賜り、駅伝に乗って出立することとなった。演が職を辞したのち、薊遼總督の王永吉が上疏してその罪を力めて非難し、極刑に処すよう請うた。給事中の汪惟效・孫承澤も極論した。演は暇乞いに参内して「補佐の実がなく、罪は死に当たります」と述べた。帝は怒って「そなたが一度死んだところで罪は覆いきれぬ」と言い、叱って退けた。
- 演は財産が多く、すぐには出立できなかった。賊が京師を陥れると、魏藻徳らとともに捕らえられ、賊将の劉宗敏の陣営につながれた。その日、銀四萬を献じたので賊は喜んで拷問を加えず、四月八日には釈放された。しかし十二日、自成が東へ向かって吳三桂を防ごうとするにあたり、諸大臣が後患になることを恐れてことごとく殺したので、演も害に遭った。