明史卷二百五十三 列傳第一百四十一 張至發

張至發(淄川の人)。萬厯二十九年の進士。御史として齊党に属し、内降の弊を論じて葉向髙を刺した。河南巡按として福王の中使を礼で抑え、飢饉には餉の留用と漕糧の銀納を請うて民を救った。崇禎八年、帝が翰林以外からも閣臣を採ろうとして行った試験により禮部左侍郎兼東閣大學士に抜擢され、世宗朝の許讚以来はじめて外官から入閣した。溫體仁の後を承けて首輔となったが、その行いを守るのみで才智は劣り、翰林の多くが服さなかった。内閣中書の黄應恩をかばい続けたことと機密漏洩を憎まれ、療養の名目で退けられた。崇禎十五年に病没した。

年表(16件)

言官としての齊黨の立場

  • 張至發は淄川の人。萬厯二十九年(1601年)の進士。玉田・遵化の知縣を歴任し、行取によって禮部主事を授けられ、御史に改められた。
  • 当時、齊・楚・浙の三党が盛んで、至發は齊党であった。上疏して内降(宮中から直接下る人事命令)の弊を述べ、あわせて「陛下は党を結ぶことを憎まれるのに、政柄を握る者がまず門戸の外に超然としていない。近ごろ科臣の疏を読むと、近来輔臣を慰諭する温旨は輔臣と司禮監とが自分たちで参酌して定め、そのうえで御批を聴いているという。もし人の言うとおりなら、天下の事はどうなることか」と言った。言葉はいずれも葉向髙を刺すものであった。帝は返答しなかった。
  • 当時、言官が争って東林を排斥したので、戸部郎中の李朴が不平として上疏して争った。至發は「李朴は公を背いて党のために死し、偽りを言って君を欺いている」と弾劾した。帝はこれにも返答しなかった。
  • まもなく河南の巡按に出た。福王が洛陽の藩邸に赴くにあたって中使が道に相次いだが、至發は礼をもって抑えたので、勝手な振る舞いをする者がなかった。宗室への禄が支給されなかったので、義田を設けて貧しい者を養った。
  • 四十三年(1615年)、河南が飢饉となると、餉を留めて賑済に備えることを請い、また漕糧を銀納に改めることを請い、いずれも聞き届けられた。朝廷に還ってから病と称して帰郷した。
  • 天啓元年(1621年)、大理寺丞に進み、三年(1623年)、親の扶養のため職を辞したいと請うた。魏忠賢の一党が至發を推薦し、旨を偽って吏部に抜擢用いさせたが、至發はちょうど親を養っていて出仕しなかった。

外官出身の入閣と首輔

  • 崇禎五年(1632年)、順天府丞として起用され、光祿卿に進んだ。積年の弊害を精しく調べて多くを正したので、帝に知られるようになった。
  • 八年(1635年)春、刑部右侍郎に移った。六月、帝は閣臣を増やそうとしたが、翰林は実務に習熟していないと考え、他の官庁の者を交ぜようとして、朝臣数十人を召しておのおのに一通の疏を授け、旨を擬させた。こうして至發を禮部左侍郎兼東閣大學士に抜擢し、文震孟とともに入直させた。世宗朝の許讚以来、外官から入閣したのは至發が最初である。
  • 当時は溫體仁が首輔で、錢士升・王應熊・何吾騶がこれに次いだ。二年を越えて體仁の一派がことごとく去ると、至發が首輔となった。
  • 萬厯年間、申時行と王錫爵が相次いで政柄を執り、その大方針を受け継いだので「衣鉢を伝える」と称された。至發は體仁の後を承けて一切その行いを守ったが、才智と機転は劣った。首席の地位にあったのも帝が心を寄せていたからではない。
  • かつて東宮の講官を選ぶ際に黄道周を除いたことを給事中の馮元飇に刺されると、至發は怒って二度上疏して道周をけなし、體仁の孤高で欺かぬ人柄を極めて称賛した。さらに編修の吳偉業に弾劾された。講官の項煜が「至發は考選を牛耳り、子女の姻戚である任濬をかばって成勇を抑えた」と論じると、至發は上章して弁明し、帝は項煜を追放した。

黄應恩の一件と辞職

  • 内閣中書の黄應恩は荒っぽく凶暴であったが、體仁・至發らはこれを重用したので、勢いを恃んで横暴を極めた。正字となってからは東宮侍書を兼ねるべきではなかった。帝と太子の講義が同じ日になることを恐れたためである。ところが至發は先例を知らず兼任させた。應恩は兼務をこなせず、講官が講義の草稿を撰して應恩に送って清書させようとしても、受け取ることを拒んだ。檢討の楊士聰がこれを論じると、至發は揭帖でその疏を握りつぶした。士聰がさらに内閣へ書を上げてこの件を極論しても、至發は最後まで應恩をかばった。
  • 折しも故總督の楊鶴の官が回復されて誥命を与えることが許され、應恩がその文を撰することになった。応恩は楊鶴の子の嗣昌が帝の信任を得ていたので力めて汚名をそそぐ文を書いたが、旨に忤って罰せられようとした。至發が救うための連名の揭帖を作ろうとすると、同僚の孔貞運・傅冠が「先の許士柔の件では我々は救わなかった。なぜ應恩だけを救うのか」と言った。至發は不服そうに「諸公が救わないなら私が自分で救う」と言い、続けて三度揭帖を上げた。帝は聴かず、特に諭を降して應恩の籍を削った。楊嗣昌が上疏して救おうとしたがこれも聴かれなかった。
  • まもなく大理寺副の曹荃が應恩の収賄・請託の件を暴き、言葉は至發にも及んだ。至發は憤って続けざまに上疏して調査を請うた。帝は優れた旨で褒め答えたものの、結局應恩を獄に下した。
  • 至發はそこで疏を具し、自分には去るべき理由が三つあると述べたが、病を理由には挙げなかった。ところが突然「郷里に帰って療養せよ」との旨を得た。当時の人は「旨に遵って病気になる」と言い伝えて笑ったという。
  • 至發はかなり清廉で強気であったが、外官から起こったので翰林の多くが服さず、また終始異己を憎み、心を虚しくして人材を集めることができなかった。帝もその機密漏洩を憎み、辞去させた。しかも行人に護送させず、ただ駅伝に乗ることを許して旅費六十金と彩幣二表裏を賜っただけで、首輔が国を去る際の通例の半分にすぎなかった。
  • 帰郷後は私財を投じて淄城を改築し、敕を賜って手厚く褒められた。まもなく徽号の礼が成ったのを機に官を派して安否を尋ねさせた。
  • 十四年(1641年)夏、帝は旧臣を用いようと考え、特に敕して周延儒・賀逢聖および至發を召したが、至發だけは四度上疏して辞退した。翌年(1642年)七月、病没した。それ以前にたびたび太子太傅・禮部尚書・文淵閣大學士を加えられており、没するに及んで少保を贈られ、祭葬と子の廕叙は制のとおりであった。

孔貞運

  • 至發に代わって首輔となったのは孔貞運、貞運に代わったのは劉宇亮である。
  • 孔貞運は句容の人、至聖(孔子)の六十三代の孫である。萬厯四十七年(1619年)、殿試第二人として編修を授けられた。天啓年間には経筵の展書官を務め、両朝の実録の纂修にあたった。
  • 莊烈帝(崇禎帝)が即位すると、貞運は『皇明寳訓』を進講し、祖宗が政に励み学を講じたことを述べたので、帝は喜んで受け入れた。崇禎元年(1628年)、國子監祭酒に抜擢され、まもなく少詹事に進んでなお監の事務を管した。
  • 二年(1629年)正月、帝が辟雍に臨むと、貞運は『書経』を進講した。唐の貞觀のとき祭酒の孔頴達が『孝経』を講じて釋奠の頌があったが、孔氏の子孫が国師として進講したのは貞運に至って二度目のことであった。帝は聖人の裔であるとして特に一品の服を賜った。
  • 冬十月、畿輔が兵禍を受けると、敵に対する城守・応援の数策を箇条書きにして上った。まもなく喪のため帰郷した。
  • 六年(1633年)、喪が明けて南京禮部侍郎として起用され、二年を越えて吏部左侍郎に移った。九年(1636年)六月、賀逢聖・黄士俊とともに内閣に入った。
  • 当時、溫體仁が国政を執り、復社を厳しく処断しようとしたが、體仁が休暇中であったのを機に貞運は寛大な処置で決着させた。體仁は怒って人に「句容までが人に引きずり回されるようになった」と言った。これ以来、貞運は思うところを述べようとしなくなった。
  • 至發が地位を去ると貞運がこれに代わり、揭帖で鄭三俊・錢謙益を救い、いずれも寛大な擬をした。帝が自ら考選の諸臣を定め、輔臣に再検討を命じたとき、貞運と薛國觀が変更したが、命が下ると内閣の擬はことごとく採られず、帝は自ら選んだ十八巻を部に下して議し施行させた。
  • ちょうど新任の御史郭景昌らが朝房に貞運を訪ねたとき、貞運が「下された諸巻の説には行いがたいものが多い」と言ったので、景昌は言い争って退き、そのまま上疏して弾劾した。帝は景昌の俸を奪ったものの、貞運はついに身を引いて帰った。
  • 十七年(1644年)五月、莊烈帝の哀詔が届くと、貞運は哭臨して慟哭のあまり気絶し、起き上がれず、担がれて帰り、病を得てにわかに没した。

黄士俊

  • 黄士俊は順徳の人。萬厯三十五年(1607年)の殿試第一で、修撰を授けられ、禮部尚書まで歴任した。崇禎九年(1636年)に入閣し、たびたび加官されて少傅に至り、暇を賜って帰郷した。父母がともに健在で、錦衣をまとって侍養したので、人は名誉なこととした。
  • 唐王が旧官で召したが赴かなかった。のちに永明王のもとで宰相となったが、老いて事を決することができず、たびたび臺省(言官)に論じ立てられ、辞して帰り没した。

劉宇亮――入閣と首輔

  • 劉宇亮は綿竹の人。萬厯四十七年(1619年)の進士。たびたび昇って吏部右侍郎となった。崇禎十年(1637年)八月、禮部尚書に抜擢され、傅冠・薛國觀とともに入閣した。
  • 宇亮は小柄で精悍、剣術に長け、翰林にいたころは家僕と勝負するのを楽しみとしていた。書物を好まず、館中での纂修・直講・典試などの仕事にはいずれも与らなかった。座主の錢士升が後ろ盾となり、また同郷の王應熊を力めて排して自分の声望を張ったので、ついに大用を得た。
  • 翌年(1638年)六月、貞運が罷免されて帰ると、代わって首輔となった。
  • その冬、都城が戒厳になると、三大営および勇衛営の軍士を閲兵するよう命じられたが、二日で終え、さらに内城の九門・外城の七門を見て回ったが、いずれも間に合わせで済ませた。

劉宇亮――督察に出て晉州で拒まれる

  • 当時、大清の兵が深く侵入して帝は大いに憂えた。宇亮が自ら軍情の督察を願い出ると帝は喜び、ただちに總督の盧象昇の任を解いて宇亮を代わりに派そうとした。宇亮は督察を請うたつもりが帝は突然總督に改めたので、大いに恐れ、薛國觀および楊嗣昌と謀ったうえで疏を具して事情を述べた。そこで象昇は留任し、宇亮はやはり督察に赴くこととなり、諸鎮の勤王の兵はみなその管轄に属した。
  • 保定に着いたばかりのところで象昇の戦死を聞き、安平を過ぎたとき偵察の者が大清の兵が来ると報じたので、一同顔色を失い、急ぎ晉州へ走って避けようとした。知州の陳𢎞緒は門を閉じて入れず、士民も血をすすって兵一人も入れぬと誓った。宇亮は大いに怒り、令箭を伝えて「早く軍を入れよ、さもなくば軍法をもって処断する」と迫った。𢎞緒も言葉を伝えて「督師が来られたのは敵を防ぐためである。いま敵が来ようというのに、なぜ避けられるのか。秣と糧が続かないのは担当の役所の責任であるが、城に入るという件は承ることができない」と言った。
  • 宇亮は急ぎ疏を上げて弾劾し、逮捕して処断せよとの旨が下ったが、州の民で闕に詣でて冤を訴え、身代わりを願う者が千を数えたので、𢎞緒は官等を降されて他へ転じるだけで済んだ。帝はこれ以来、宇亮は事に堪えずいたずらに民を騒がせるだけだと疑うようになった。

劉宇亮――劉光祚の一件と失脚

  • 翌年(1639年)正月、天津に至り、諸将が退避したのに憤って上疏して論じ、あわせて總兵の劉光祚が逗留した状を挙げた。
  • 薛國觀はちょうど首輔の座を望んでおり、楊嗣昌と謀って宇亮を陥れようとして、にわかに「光祚を軍前で斬れ」との旨を擬した。旨が下ったとき、光祚にはちょうど武清での勝報があった。そこで宇亮は光祚を獄につないだうえで疏を具して赦免を乞い、続いて武清の勝報を上げた。國觀は厳しい旨を擬して前後の矛盾を責め、九卿・科道に議させたところ、一同「宇亮は国の法をもてあそぶもので大不敬である」とした。
  • 宇亮が上疏して弁明すると、部の議は落職・閒住となった。給事中の陳啓新・沈迅がさらに重ねて弾劾したので、擬は籍を削ることに改められた。帝は戴罪のまま功を図り、事が平らいでから改めて議せよと命じた。宇亮は結局これによって地位を去り、國觀が代わって首輔となった。
  • のちに失態の五案が定められたとき、宇亮は最後まで議に上らなかった。久しくして家で没した。