明史卷二百五十二 列傳第一百四十 楊嗣昌
篇首の立伝者一覧
- 楊嗣昌
- 呉 甡
出自と初期の官歴
- 楊嗣昌は字を文弱といい、武陵の人である。萬厯三十八年(1610年)の進士。
- はじめ杭州府教授に任じられ、南京國子監博士へ移り、累進して戸部郎中となった。天啟の初め(1621年ごろ)、病と称して郷里へ帰った。
- 崇禎元年(1628年)、河南副使として起用され、右參政を加えられて霸州へ移った。四年(1631年)、山海闗へ移って兵備の監督にあたった。
- 父の楊鶴が陜西總督として逮捕されたとき、嗣昌は三度上疏して自分が身代わりになりたいと願い、父は死一等を減じられた。
- 五年(1632年)夏、右僉都御史に抜擢され、永平・山海の諸処を巡撫した。
東林との疎隔
- 嗣昌父子は宦官に与せず、東林の側からも嫌われてはいなかった。
- 侍郎で遷安の人である郭鞏が逆案(宦官党の処分)に連座して廣西へ流されたとき、郭鞏の同郷人がその冤を訴えた。嗣昌は自分の管轄下の民の訴えであるからとしてこれを朝廷へ取り次いだが、給事中の姚思孝がこれに反駁した。これ以来、嗣昌は東林と隔たるようになった。
宣大山西總督と鉱山の建議
- 七年(1634年)秋、兵部右侍郎兼右僉都御史となり、宣府・大同・山西の軍務を總督した。
- 当時、中原は飢饉で盗賊が各地に蜂起していた。嗣昌は金・銀・銅・錫の鉱山を開いて彼らの徒党を解散させることを請い、また六度にわたって辺境の事情を上疏して多くの構想を示した。帝はその才を並外れたものとみた。
- 父の喪で職を離れ、続いて継母の喪にもあった。
兵部尚書として起用される
- 九年(1636年)秋、兵部尚書の張鳯翼が没した。帝は朝廷の臣の中に任せられる者がないと見て、喪中の家から直に嗣昌を起用した。嗣昌は三度辞退したが許されなかった。
- 翌年(1637年)三月、京師に着いて召見された。嗣昌は仕官してから長く郷里にあった間に広く書物を読み、先朝の故事に詳しく、文書の作成に長け、弁舌が立った。帝は語り合って深く信任し、寵愛した。
- 前任の張鳯翼はもともと柔弱で兵事に何の構想も持たなかったのに対し、嗣昌は鋭意刷新にあたったので、帝はいよいよ有能とみなし、応対のたびに時が移り、奏請したものは聴き入れられないものがなかった。帝は「そなたを用いるのが遅かったのが心残りだ」と言った。
十面の網
- 嗣昌は大挙して賊を平定することを議し、次のように請うた。
- 陜西・河南・湖廣・江北を「四正」とし、四人の巡撫が討伐を分担しつつ専ら防衛にあたる。
- 延綏・山西・山東・江南・江西・四川を「六隅」とし、六人の巡撫が防衛を分担しつつ討伐に協力する。
- これを「十面の網」と称し、總督・總理の二臣は賊の向かう先に従って専ら征討にあたる。
- 兩廣總督の熊文燦は海賊討伐に功があり、自分なら賊を片づけられると大言していた。嗣昌はこれを聞いて良しとした。折しも總督の洪承疇と王家楨が陜西・河南に分かれて駐していたが、王家楨はもとより凡庸で任に堪えなかったので、嗣昌は文燦を推薦してこれに代えた。
- あわせて兵十二萬の増員、餉二百八十萬の増額を議した。その財源の策は四つ。
- 因糧――旧来の額の糧に応じて加派し、一畝あたり糧六合を納めさせ、一石を銀八錢に換算する。荒れた土地は対象としない。歳ごとに銀百九十二萬九千あまりを得る。
- 溢地――民間の土地で原額を超える分を実地に調べて賦を納めさせる。歳ごとに銀四十萬六千あまりを得る。
- 事例――富民に資を出させて監生とする。一年限りとする。
- 驛遞――これ以前に郵驛の削減で浮いた銀のうち二十萬を餉に充てる。
- 議が上ると帝は諭を伝えた。流賊が蔓延して民は塗炭にあり、兵を集めなければ賊を平らげられず、賦を増やさなければ兵を養えない。やむなく廷議に従い、一年だけ民に負担をかけてこの腹心の大患を除く。「因糧」は「均輸」と改め、民のために害を除く意であることを天下に布告せよ、と。
- ついで諸州縣に壯丁を練兵させて郷土を守らせることを議し、撫按に実行を命じる詔が下った。
軍令の粛正と熊文燦の招撫策
- 賊が淅川を攻めたとき、左良玉が救援せず城が陥ちた。山西總兵の王忠は河南の救援に向かいながら病と称して進まず、兵が騒いで引き返した。嗣昌は失態のあった諸将を逮捕・処刑して軍令を正すことを請い、王忠および前總兵の張全昌が逮捕された。左良玉は六安の功があったので落職のうえ戴罪自贖とされた。
- 嗣昌は四正六隅の説を立てて熊文燦に重任を専ら委ねようとしたが、文燦はもっぱら招撫を主張し、先の策と食い違った。帝は文燦を責め、嗣昌も内心では不満だったが、すでに任じた以上は曲げてこれを弁護した。そこで次のように上疏した。
- 十面に網を張るからには河南・陜西を賊を殺す地とせねばならない。だが陜には李自成・惠登相らの大部隊がなお討ち尽くせずにいる。法としては闗東の賊を追い立てて合流させないようにすべきである。
- 陜西巡撫は商雒を、鄖陽巡撫は鄖・襄を、安慶巡撫は英・六を、鳯陽巡撫は亳・潁を断つ。應天巡撫の軍は靈・陜へ出し、保定巡撫の軍は延津を渡らせる。そのうえで總理が邊兵を率い、監軍の宦官が禁旅を率い、河南巡撫が陳永福らの諸軍を率いて、力を合わせて討伐する。
- もし闗中の大賊が闗東へ逃れ出たら、陜西總督が曹變蛟らを率いて闗外へ出て挟撃する。
- 三か月で諸々の巨魁を討ち尽くす期限とする。巡撫が命に従わなければただちにその兵権を解いて監司一人を代わりに立て、總兵が命に従わなければただちに帥印を奪って副將一人を代わりに立てる。監司・副將以下は尚方剣をもって処断する。そうすれば人々が力を尽くし、平らげられぬ賊はない。
- 今年十二月から翌年二月までを賊を滅ぼす期限と定める。
- 帝はこの奏を許可した。
- このとき賊が大挙して四川へ入り、朝廷の士人は洪承疇が賊を逃したと責めた。嗣昌は帝に「熊文燦は在任三か月、洪承疇は七年やって成果がありません。論者は文燦を厳しく責め立てるのに、承疇が賊を逃したことは誰も言いません」と言った。帝は嗣昌が文燦をかばう意図と知って顔色を変え、「督師・總理の二臣にはただ期日どおりに賊を平定する責を負わせるまでだ。在任の長短を口実にするとは何事か」と言った。嗣昌はそれ以上言えなかった。
- 文燦はすでに招撫を主張しており、天子が侍郎一人を派して監督させた増餉は本来討伐のためのものだったのに、文燦はことごとく招撫の資に充てた。帝はもはや咎めず、朝臣も口にしなくなった。
期限を過ぎての功罪の査定
- 翌年(1638年)三月、嗣昌は賊を滅ぼす期限を過ぎたことについて上疏して罪を引き、代わりの人を推薦した。帝は許さず、かわりに戦地の功罪を調べさせた。嗣昌は上疏して次のように述べた。
- 洪承疇は専ら陜西の賊を担当したが、賊は陜・蜀を思うままに往来し、討伐も招撫も功なく、罪を免れない。
- 熊文燦は江北・河南・湖廣の賊を兼ね担当し、劉國能・張獻忠を招撫し、舞陽・光山で戦い、討伐も招撫も功があり、罪を免ずべきである。
- 諸巡撫では、河南の常道立・湖廣の余應桂に功がある。陜西の孫傳庭、山西の宋賢、山東の顔繼祖、保定の張其平、江南の張國維、江西の解學龍、浙江の喻思恂には労がある。鄖陽の戴東旻は功も過もない。鳯陽の朱大典、安慶の史可法は励んで功を図るべきである。
- 總兵では、河南の左良玉に功がある。陜西の曹變蛟・左光先は功がない。山西の虎大威、山東の倪寵、江北の牟文綬、保定の錢中選は労はあるが功はない。河南の張任學、寧夏の祖大弼は功も過もない。
- 承疇は逮捕して送るべきだが、軍民に慕われているので宮保・尚書の号を削って侍郎の資格で職務を行わせたい。曹變蛟・左光先は五等を降す。祖大弼とともに五月を賊平定の期限とし、過ぎれば承疇ともども逮捕して処断する。朱大典は三等を降す。史可法は戴罪自贖とする。
- 議が上ると帝はことごとくこれに従った。
- 嗣昌は終始文燦を右袒したが、文燦は実のところ兵を知らなかった。劉國能・張獻忠を降らせてからは招撫こそ頼みになると言い、嗣昌もひそかにこれを支持して、文燦の請うところは何でも曲げて聴き入れた。これ以後、十面に網を張る策は口にされなくなった。
経筵での失言と互市の策
- この月、帝が経筵を終えたあと、嗣昌は奏対の中で「よく戦う者は上刑に服す」といった語を用いた。帝は不快の色を示して詰問した。「いま天下は統一されており、戦国の兵争とは違う。小賊が跳梁して大司馬の九伐の法を伸べられぬというのに、なぜこのようなことを言うのか」と。嗣昌は恥じ入った。
- このころ流賊がすでに大いに熾んになり、朝廷にはさらに東方(遼東)の憂いもあった。嗣昌はひそかに互市(交易による和平)の策を主張していた。折しも太陰が熒惑を掩う天変があり、帝が膳を減じて反省したところ、嗣昌は漢の永平、唐の元和、宋の太平興國の故事を次々に引いた。互市への地ならしであったという。
- 給事中の何楷が上疏してこれに反駁し、給事中の錢増、御史の林蘭友が相次いで論じ立てたが、帝は取り合わなかった。
奪情での入閣と言官の弾劾
- 六月、禮部尚書兼東閣大學士に改められ、八參機務となり、なお兵部の事務も掌った。
- 嗣昌はすでに奪情(喪に服さずに任官すること)で政府に入っており、さらに奪情によって陳新甲を總督に起用した。そこで何楷・林蘭友および少詹事の黄道周が上疏して激しく非難し、修撰の劉同升、編修の趙士春がこれに続いた。帝は怒り、三人とも三等を降して翰林に留めた。刑部主事の張若麒が上疏して黄道周を口汚くののしったので、道周は六等を降され、劉同升・趙士春もみな地方へ左遷された。
- その後、南京御史の成勇、兵部尚書の范景文らがこの件を論じたが、これも譴責された。嗣昌はこれ以来ますます世評が悪くなった。
戒厳と盧象昇の戦死
- 大清の兵が牆子嶺・青口山から侵入した。薊遼保定總督の呉阿衡はちょうど酔っていて軍をまとめられず、敗れて死んだ。京城は戒厳となり、盧象昇が召されて軍を率いて入衛した。
- 象昇は主戦論、嗣昌は監督の宦官髙起潛とともに和議論で、意見が合わず互いに憎み合った。編修の楊廷麟が嗣昌を国を誤ると弾劾すると、嗣昌は怒って廷麟を職方主事に転じ、象昇の軍を監させた。
- 嗣昌は諸将に軽々しく戦うなと戒めた。諸将はもともと臆病で、慎重を口実にして様子見をしたため、各地の城が多く破られた。嗣昌は軍中の報告に基づいて指示を仰ぎ方略を授けたが、それが前線に届くころには状況が変わっており、進退が食い違って辺境の事態はいよいよ悪化したという。
- 象昇が陣没すると、嗣昌も三等を降され、戴罪のまま職務にあたった。
崇禎十二年(1639年)の弾劾
- 十二年(1639年)正月、濟南陥落の報が届き、徳王が捕らえられ、遊撃の騎兵は兖州にまで達した。
- 二月、大清の兵が北へ引き揚げた。給事中の李希沆は「聖明が位に即かれて以来、北兵の来襲は三度に及ぶ。己巳の年の罪が正されなかったから丙子があり、丙子の罪が正されなかったから今日がある」と述べ、言葉は嗣昌を突いた。御史の王志舉も嗣昌の国を誤る四大罪を弾劾し、丁汝䕫・袁崇煥の先例(誅殺)を適用するよう請うた。帝は怒り、李希沆は官等を降され、王志舉は官を奪われた。
- もともと帝は嗣昌の才を買って用いたのであって、朝臣の意ではなかった。帝は必ず異論が出ると知っていて、言う者があるたびに斥けた。嗣昌に罪があってなお帝がしばしば言官を追放したので、内外はいよいよ不平を抱いた。嗣昌自身も落ち着かず、しばしば上疏して罪を引き、落職して冠帯のまま職務にあたったが、まもなく功の査定によって復職した。
- これより先、京師が兵を受けたときには枢要の臣はみな罪に問われていた。二年(1629年)には王洽が獄死したうえに死罪を論じられ、九年(1636年)には張鳯翼が督師に出て毒を仰いで死んだのになお籍を削られた。ところが今回は七十余城を失いながら、帝の嗣昌への寵は衰えなかった。嗣昌は四川巡撫の傅宗龍を自分の後任に推薦した。
失態の処断と辺兵の練成
- 帝は嗣昌に文武の諸臣の失態の罪を議させた。嗣昌は五等に分けた。すなわち、辺境を守って好機を失ったもの、城邑を破壊されたもの、藩封を失陥したもの、主帥を失ったもの、敵を塞外へ逃したものである。
- そこで宦官では薊鎮總監の鄧希詔、分監の孫茂霖、巡撫では順天の陳祖苞、保定の張其平、山東の顔繼祖、總兵では薊鎮の呉國俊・陳國威、山東の倪寵、援剿の祖寛・李重鎮、およびその他の副將以下、州縣の役人に至るまで合わせて三十六人が同じ日に処刑された。しかし嗣昌への降格・削職は及ばず、世論はいよいよ騒がしくなった。
- 戒厳のとき朝臣の多くが辺兵の練成を請うたので、嗣昌は次のように定めた。
- 宣府・大同・山西の三鎮の兵は十七萬八千八百あまり。三人の總兵がおのおの一萬を練成し、總督は三萬を練成して、うち二萬を懐來に、一萬を陽和に駐して東西に応援する。残りは鎮守・監軍・巡撫以下に授けて分けて練成させる。
- 延綏・寧夏・甘肅・固原・臨洮の五鎮の兵は十五萬五千七百あまり。五人の總兵がおのおの一萬を練成し、總督は三萬を練成して、うち二萬を固原に、一萬を延安に駐して東西に応援する。残りは巡撫・副將以下に授けて分けて練成させる。
- 遼東・薊鎮の兵は二十四萬あまり。五人の總兵がおのおの一萬を練成し、總督は五萬を練成して、外は錦州から内は居庸に至るまで東西に応援する。残りは鎮守・監軍・巡撫以下に授けて分けて練成させる。
- 通州・昌平の督治侍郎二人を廃し、保定に總督一人を置く。畿輔・山東・河北の兵を合わせて十五萬七千あまり。四人の總兵がおのおの二萬を練成し、總督は三萬を練成して、北は昌平から南は河北に至るまで急報に応じる。残りは巡撫以下に授けて分けて練成させる。
- 畿輔は重地であるとして監司四人の増員を議し、大名・廣平・順徳に一人、真定・保定・河間におのおの一人を置く。薊遼總督の下には監軍三人を増やす。
- 議が上ると帝はことごとくこれに従った。嗣昌が議した兵は総計七十三萬あまりに及んだが、民は流亡し餉は足りず、実数が伴ったことはなかった。
- 帝はさらに副將楊徳政の議を採り、府では通判を廃して守備に次ぐ格の練備を置き、州では判官を、縣では主簿を廃して把總に次ぐ格の練總を置き、いずれも正官の管轄を受けて専ら民兵を練成させることとした。府は千人、州は七百人、縣は五百人で、郷土を守らせ他所へは動かさない。嗣昌は事の緩急があるとして、まず畿輔・山東・河南・山西で行うことを請い、認められた。
練餉の議と加賦
- ここから練餉の議が起こった。はじめ嗣昌は剿餉を増やしたが一年限りとしていた。のちに餉が尽きても賊は平らぬまま、その半分を徴収する詔が出た。ここに至って督餉侍郎の張伯鯨が全額徴収を請うた。帝が信を失うことを心配すると、嗣昌は「差し支えありません。加賦は土田から出るもので、土田はことごとく有力な家に帰しています。百畝あたり銀三、四錢が増えるだけで、兼併を少し抑えるにすぎません」と言った。大學士の薛國觀・程國祥もこれに賛成した。こうして剿餉のほかに練餉七百三十萬が増徴された。
- 論者は次のように言った。九辺にはもともと定額の餉があるのに一律に新餉を与えては旧餉の行方はどうなるのか。辺兵は空額が多いのに、いまそれを実数として扱えば餉は空しく費やされ、練成の数はなお足りない。また兵は防備に分散していて常時集められないから抽練(一部を抜き出して練成する)の議が出たのだが、抽練された者以外はそのまま放置され、しかも抽練自体が空文で、辺防はいよいよ弱まった。州縣の民兵に至ってはさらに実がなく、いたずらに厚い餉を費やすだけであった。嗣昌がこれを主導していたので、事は重大でありながら誰も異を唱えられなかった。
- 神宗の末年に賦が五百二十萬増され、崇禎の初めに再び百四十萬増されて、合わせて遼餉と称した。ここに至ってさらに剿餉・練餉が増され、額の超過は前後合わせて千六百七十萬に上った。民は生きるすべを失い、いよいよ盗賊となって立った。
督師を命じられる(崇禎十二年、1639年)
- 五月、熊文燦が招撫していた賊の張獻忠が穀城で反し、羅汝才ら九営もみな反した。
- 八月、傅宗龍が京師に着き、嗣昌は兵部の事務を解いて内閣に戻った。まもなく羅□(底本欠字)山の敗報が届き、帝は大いに驚いて文燦の逮捕を詔し、特旨をもって嗣昌に督師を命じ、尚方剣を賜って独断で誅賞できるようにした。
- 九月一日、平臺で召見された。嗣昌は「君に言えば家に泊まらぬもの、臣は朝に命を受けて夕には出発いたします。軍資・武具は担当官庁へ急ぎ発するようご命じください」と述べた。帝は喜んで「そなたがそこまでしてくれるなら、朕に何の憂いがあろう」と言った。
- 翌日、白金百、大紅の紵絲四表裏、斗牛衣一領、賞功銀四萬、銀牌千五百、幣帛千を賜った。嗣昌は七箇条を上申し、いずれも許可された。四日には召見されて宴を賜り、帝は手ずから三たび杯を勧め、自作の贈行の詩一章を与えた。嗣昌は跪いて誦し、拝して泣いた。二日後に別れを告げ、食事を賜った。
- 二十九日、襄陽に着いて文燦の軍に入った。文燦は逮捕されたが、嗣昌はなおその弁護の疏を出したという。
督師としての初戦(崇禎十二年冬)
- 十月一日、嗣昌は三軍に大いに誓った。督理の宦官劉元斌、湖廣巡撫の方孔炤、總兵官の左良玉・陳洪範らがみな集まった。
- 賊の賀一龍らが葉を略奪し、沈邱を囲み、項城の外郭を焼き、光山を襲った。副將の張琮・刁明忠が京軍を率いて山を越え九十里を行ってその巣に迫り、先駆けが賊を射殺し、絳の袍を着て馬を駆る者二人を仕留め、四十里追撃して千七百五十の首級を挙げた。嗣昌は詔を称して恩賞を頒った。
- 十一月、興世王こと王國寧が一千の兵を率いて帰順したので、襄陽でこれを受け入れ、妻子は樊城に置いた。左良玉を平賊將軍に推挙した。
- 諸将は驕り緩みが積もって闘志がなく、獻忠・羅汝才・惠登相ら八営は鄖陽・興安の山中へ逃れ、南漳・穀城・房・竹山・竹谿を略奪した。嗣昌は刁明忠を鞭打ち、監軍僉事の殷大白を斬って見せしめとした。巡撫方孔炤に檄して楊世恩・羅萬邦を遣わし汝才・登相を討たせたが、全軍が香油坪で全滅した。嗣昌は方孔炤を弾劾して逮捕させ、永州推官の萬元吉を軍前監紀に辟召することを奏して認められた。
瑪瑙山の大勝(崇禎十三年、1640年)
- このころ李自成は陜西の西部に潜伏し、賀一龍・左金王ら四営が漢水の東で跳梁していたが、嗣昌は専ら獻忠を討った。獻忠は興安でしばしば敗れて招撫を求めたが許されず、その一味の托天王常國安・金翅鵬・劉希原が降った。獻忠が四川へ逃げ込むと左良玉が追った。嗣昌は文書で引き返すよう命じたが、良玉は従わなかった。
- 二月七日、左良玉は陜西副將の賀人龍・李國奇とともに瑪瑙山で獻忠を挟撃して大破し、三千六百二十の首を挙げ、谷へ落ちて死んだ者は数知れなかった。一味の掃地王・曹威らは斬られ、十反王楊友賢は衆を率いて降った。
- この月、帝は嗣昌をおもんぱかって銀一萬兩を発して軍を犒い、斗牛衣・良馬・金鞍おのおの二を賜った。使者が都の門を出たばかりのところへ瑪瑙山の勝報が届き、帝は大いに喜んで、さらに銀五萬・幣帛千を発して軍を犒い、功を論じて太子少保を加えた。
- 湖廣の将張應元・汪之鳯が水石壩で賊を破ってその軍師を捕らえ、四川の将張令・方國安が千江河で破り、李國奇・賀人龍らが寒溪寺・鹽井川で破り、川・陜・湖廣の諸将が集まって黄塾・木𤓰溪で続けざまに破った。軍の威勢は大いに振るった。
戦局の膠着
- 汝才・登相は招撫を求めたが獻忠がこれを引き止めた。獻忠は南漳・逺安の間に兵を収め、安撫官の姚宗中を殺し、大寧・大昌へ走り、巫山を襲って四川の患いとなった。獻忠は興安・平利の山中へ逃れ、左良玉は囲んだが攻めなかったので、賊は散った者を収め直し、興安・房縣から白羊山を経て西へ走り、汝才らと合流した。
- 嗣昌は群賊が合してその勢いがまた盛んになったので、襄陽から夷陵へ赴いてその要害を押さえた。帝は嗣昌の戦地での労苦をおもんぱかって敕を賜り、賞功銀一萬を発し、鞍馬二を賜った。鄖陽撫治の王鼇永を罷免した。
- 廃将の猛如虎に軍前で功を立てさせる詔が下った。黄得功・宋紀が商城で賊を大破した。賀一龍の五大部は降ってまた叛いた。鄭嘉棟・賀人龍が開縣で汝才・登相を大破すると、汝才は小秦王とともに東へ走り、登相は開縣を越えて西へ向かい、この二賊はここで分かれた。
- このころ諸部の将兵は山谷にあって炎暑と瘴毒に罹り、十のうち二、三が死んだ。荆門の京兵、簡坪の雲南兵、馬蝗坡の湖廣兵は長く駐屯して帰心を抱き、夜逃げする者が多かった。闗中・河南は大旱で人が人を食い、土着の賊が蜂起して、陜西では竇開逺、河南では李際遇がその頭目となり、飢民が付き従って各地で急を告げた。嗣昌がこれを奏聞すると、帝は帑金五萬を発して医薬にあて、諸将に進兵を責めた。
- 陜の長武、四川の新寧・大竹、湖廣の羅田が相次いで陥落の報を寄せた。嗣昌は招撫の令を下し、諭しの紙一萬枚を作って賊中に撒いた。
- 七月、監軍の孔貞㑹らが豐邑坪で汝才を大破し、一味の混世王・小秦王が配下を率いて降り、賊の首魁である整十萬、および登相・王光恩も相次いで降った。
四川転戦(崇禎十三年秋冬)
- こうして群賊はことごとく蜀中に集まったので、嗣昌も四川へ入り、八月に舟を浮かべて上った。四川の地は険阻だから諸軍を合わせて追い詰めれば殲滅できると言った。しかし賀人龍が陜西の軍を率いて開縣から騒ぎ立てて西へ引き揚げ、張應元らも夔州の土地嶺で敗れた。
- 獻忠は勢いを盛り返し、汝才もこれと合流した。督師が西へ来ると聞いて急ぎ大昌へ趨り、観音巖を襲った。守将の邵仲光は防げず、賊は淨壁を突いて大昌を陥れた。嗣昌は邵仲光を斬り、四川巡撫の邵捷春を弾劾して逮捕させた。
- 賊は河を渡って通江に至った。嗣昌が萬縣に至ると、賊は巴州を攻めたが陥とせなかった。嗣昌が梁山に至って諸将に檄して分かれて撃たせたときには、賊はすでに劍州を陥れ、保寧へ向かい、間道から漢中へ入ろうとしていたが、趙光逺・賀人龍がこれを拒んだ。賊は転じて梓潼・昭化を略奪して陥れ、綿州に至って成都へ向かおうとした。
- 十一月、嗣昌は重慶に至った。賊は羅江を攻めたが陥とせず綿竹へ走った。嗣昌が順慶に至っても諸将は集結しなかった。賊は転じて漢州に至り、中江まで百里の地に迫った。守将の方國安は避けて去り、賊は什邡・綿竹・安縣・徳陽・金堂をほしいままに略奪し、行く先々を空き城にして逃げた。蜀全体が大いに震えた。
- 賊はさらに水路から簡州・資陽へ下った。嗣昌が諸将を徴して挟撃させようとしても皆しり込みし、たびたび左良玉の兵を徴しても来なかった。賊は榮昌・永川を陥れ、十二月には瀘州を陥れた。賊が再び四川へ入って以来、迎え撃った将は一人もなく、嗣昌がしばしば檄を飛ばしても令は行われなかった。
- 重慶にあったとき嗣昌は令を下し、汝才の罪は赦して降れば官を授けるが獻忠だけは赦さず、捕らえるか斬った者には萬金を与えて侯に封じるとした。翌日、役所から台所・浴室に至るまで「督師を斬って献じた者には白金三錢を与える」と書き付けられていた。嗣昌は驚愕し、左右がみな賊ではないかと疑った。三日以内の進兵を厳命したが、雨雪で道が断たれ、改めて期限を定めた。三度檄を飛ばしても賀人龍は令に従わなかった。
- もともと嗣昌が左良玉を平賊將軍に推挙したところ、良玉はしだいに驕ったので、嗣昌は賀人龍を貴くして良玉に対抗させようとした。しかし瑪瑙山の功で果たされなかったため人龍は恨み、逆にその経緯を良玉に告げたので良玉も恨んだ。この件は左良玉伝・賀人龍伝に記す。
王鼇永の批判
- 嗣昌は才はあったが独断を好み、自ら文書に当たることが煩雑にすぎ、軍の行動も進退をすべて自分で裁いたので、千里の彼方から返事を待つ間に好機を失った。王鼇永はかつてこれを諫めたが容れられず、官を罷めてから朝廷に上書して次のように述べた。
- 嗣昌が用兵して一年、平定の報告がない。これは謀慮が足りないのではなく、まさに心を苦しめすぎるからである。
- 天下の事は大綱を握れば易く、細目をひとりで隅々まで見ようとすれば難しい。まして賊の情勢は瞬く間に変わる。いま数千里の征伐の指示がことごとく嗣昌一人から出て、文書の往復に十日も一月もかかるのでは、好機を失うのも当然で、一年戦えないのも怪しむに足りない。
- その間に自ら奇策を出しえたのは瑪瑙山の一戦だけである。もし督輔の号令どおりにしていたら、左良玉は興安に退いて守り、この勝利はなかったはずである。
- 臣が思うに、陛下は嗣昌を任じるにあたって諸将と功罪を共にさせる必要はなく、諸将の功罪を秤量する責だけを負わせればよい。嗣昌が諸将を御するにも一人一人に指示を授ける必要はなく、その指示の当否を検証させればよい。そうすれば嗣昌の心に余裕ができ、自ら奇を決して勝ちを制せよう。どうして歳月を長引かせ、軍を老いさせ餉を空費することがあろうか。
襄陽の陥落と死(崇禎十四年、1641年)
- これより先、嗣昌は諸将の進退が揃わないので、幕下の評事萬元吉の言を容れて猛如虎を總統とし、張應元を副とした。賊が瀘州に入ったころ、猛如虎および賀人龍・趙光逺の軍が至ると、賊はまた南溪を渡り、成都を越えて漢州・徳陽・綿州・劍州・昭化へ走り、廣元に至り、さらに巴州・達州へ走った。諸軍は疲れきり、ただ猛如虎の軍だけがその後を追った。
- 十四年(1641年)正月、嗣昌は賊が必ず四川を出ると見て、舟師を率いて雲陽へ下り、諸軍に檄して陸路から賊を追わせた。賀人龍の軍はすでに騒いで西へ向かい、廣元に留まって進まなかったので、頼みは猛如虎だけであった。ところが開縣の黄陵城で賊と戦って大敗し、将兵の半ば以上が死に、如虎は囲みを破って逃れたものの、馬・騾馬・関防(印章)はことごとく賊の手に落ちた。
- はじめ賊が南溪へ逃げたとき、萬元吉は間道から梓潼へ出て帰路を押さえ、賊を待ち受けようとした。だが嗣昌は諸軍に檄して賊を追尾して急追させ、賊から遠く離れて他所へ逃がすことを禁じたので、諸将はみな瀘州から後塵を追うばかりとなった。賊が折れて東へ返ると帰路はまったく空いていて、もはや遮ることができなかった。嗣昌はここで元吉の言に従わなかったことを悔いた。
- 賊は夔關を下って興山に至り、當陽を攻め荆門を襲った。嗣昌は夷陵に至って左良玉の兵を檄すること十九度に及んだが、良玉は興安・房縣の兵を引き揚げて漢中へ向かい、避けるかのようであった。賊は行く先々で駅舎を焼き塘卒(伝令兵)を殺したので、東西の連絡は途絶えた。鄖陽撫治の袁繼咸は賊が當陽に至ったと聞いて急ぎ出兵を図った。
- 獻忠は汝才に対峙を任せ、自らは軽騎で一日一夜に三百里を駆け、道中で督師の使者を殺して軍符を奪い、二月十一日に襄陽の近郊に着いた。二十八騎に軍符を持たせて先に駆けさせ、城門に「督師が兵を調発された」と呼ばわらせると、守る者は符を合わせて信じ、これを入れた。夜半に内側から火の手が上がり、城は陥落した。
- 獻忠は襄王を縛って堂下に置き、酒を勧めて「私は楊嗣昌の首を斬りたいが、嗣昌は遠くにいる。今は王の首を借りて、嗣昌を藩封失陥の罪で処刑させるのだ。王よ、努めてこの酒を飲み干されよ」と言い、そのまま殺した。まもなく漢水を渡って河南へ走り、賀一龍・左金王ら諸賊と合流した。
- 嗣昌ははじめ襄陽を重鎮として深い濠を三重に巡らせ、跳ね橋を造り横木の柵を設け、精鋭の兵を置いて誰何させ、符節の合わない者は渡れないようにしていた。江漢の間の数十の城は襄陽を天険として頼っていた。賊はその不意を突いてこれを破ったのである。
- 嗣昌は夷陵にあって驚き恐れ、上疏して死を請うた。荆州の沙市まで下ったところで、洛陽がすでに正月に陥落し福王が害されたと聞き、いよいよ憂え恐れて食を絶ち、三月一日に没した。五十四歳(1641年)であった。
- 朝臣は襄陽の変を聞いて次々に論じ立てたが、嗣昌はすでに死んでいた。袁繼咸と河南巡按の髙名衡は自裁したと報告し、その子は病死と報告して、真相は明らかにできなかった。
死後の処分と汚辱
- 帝は深く悼み、丁啟睿に督師を代わらせた。朝臣には「輔臣は二年の辛労のすえ一朝にして命を終えた。しかし功は過を掩わない。その罪を議して奏せよ」と諭を伝えた。
- 定國公の徐允禎らは城寨失陥の律により斬に議すことを請うた。帝は制を伝えて言った。「故輔嗣昌は命を奉じて討伐にあたり、城を守る専らの責任は負っていない。にもかかわらず、城を偽って夜襲するという手口については再三厳しく戒告していたのに、地方は聞いていないかのようであった。制に違って城を陥れた罪を督輔一人に負わせるのは公平な論ではない。しかも戦陣に臨むこと二年、しばしば勝報を挙げ、力を尽くして身を殞した。その勤労は消し去りがたい」と。こうして嗣昌の罪は雪がれ、祭を賜り、その喪は武陵へ帰された。
- 嗣昌は先に賊討伐の功で太子少傅に進んでおり、死後に臨藍の盗賊平定の功を論じて太子太傅に進められた。朝臣はなお追及をやめなかったが、帝は最後まで嗣昌を思った。
- のちに張獻忠が武陵を陥れたとき、嗣昌を恨んでその七世の祖の墓を暴き、嗣昌夫婦の柩を焼き、その屍を斬って血を見た。子孫は半身を得て改葬した。