明史卷二百五十二 列傳第一百四十 呉甡

出自と言官としての活動

  • 呉甡は字を鹿友といい、揚州興化の人である。萬厯四十一年(1613年)の進士。邵武・晉江・濰縣の知縣を歴任した。
  • 天啟二年(1622年)、召されて御史を授けられた。台に入ったばかりのころ、趙南星が年例(定例の人事)で外へ出そうとしたが、甡が方震孺らを推薦し、あわせて崔文昇・李可灼の罪を追及したので、留任することができた。
  • その後、内操(宮中での軍事訓練)の廃止を諌め、鄒元標・馮從吾・文震孟の召還を請い、こうして魏忠賢との対立を積み重ねた。七年(1627年)二月、籍を削られた。

崇禎朝での復活と地方巡按

  • 崇禎の改元とともに旧官で起用された。温體仁が誰かを弾劾するたびに周延儒がこれを助けていたので、甡は帝がすぐにこの二人を用いるのを恐れ、枚卜(入閣者の選定)の大典は廷推の中から選ぶべきだと言い、事は沙汰止みになった。
  • 当時、魏忠賢の一党を大いに処断する一方で京察の時期にも当たっていた。甡は「この連中の罪悪は考功の法で尽くせるものではない。まずその罪を定め、京察と混同すべきではない」と言った。御史の任贊化が温體仁を弾劾して左遷されると、甡は救援の論を立て、あわせて王永光が宦官に媚びていることを激しく非難して罷免を請うたが、いずれも容れられなかった。
  • 河南を巡按に出ると、妖術を使う者が徒党を集めて村落を襲っていたので、甡は賊の首魁を残らず捕らえて誅した。命を受けて延綏の飢饉を賑済し、そのついでに諭して賊の徒党を解散させた。帝はこれを聞いてただちに陜西の巡按を命じた。大将の杜文煥が功を偽ったのを弾劾して法に照らして処断し、しばしば民のために請願して、奏請は認められないものがなかった。大理寺丞に移り、左通政に進んだ。

山西巡撫(崇禎七年〜、1634年〜)

  • 七年(1634年)九月、抜擢されて右僉都御史となり、山西を巡撫した。甡は辺境の賊への防禦・練兵・恤民の四つの難しさ、および兵を議し将を議し餉を議し人材の登用を議する四事を次々に陳べた。
  • 毎年の暮れには黄河の防備を固めたので、陜西・河南の賊は三年続けて一人も潜り渡ることができず、その合間に辺牆を修築した。
  • 八年(1635年)四月、上疏して言った。山西の民には三つの苦しみがある。凶作で口を糊するすべがないこと、督促されても租を納める力がないこと、殺戮略奪から身を守る手立てがないこと。これによってみな盗賊となるのだ、と。そのうえで最も荒廃した十州縣の租の免除を請うた。帝はただちに議して施行させた。戸部が間架税(家屋への課税)を請うたときは、甡は力争したが聴かれなかった。
  • その秋、大清の兵が察哈爾国から兵を返し、朔州を掠め、まっすぐ忻州・代州に至った。守将はしばしば敗れ、總督の楊嗣昌が副將を派して代州から偵察させたがこれも敗走した。甡は五等を降され、嗣昌および大同巡撫の葉廷桂は三等を降されて、ともに戴罪のまま職務にあたった。
  • これより先、定襄縣で地震が二度あった。甡は「これは必ず東からの軍がある」と言い、役人に守備の備えを整えさせた。果たして敵は定襄に入ったが、備えがあったのでここだけは兵禍を受けなかった。
  • 山西の大盗である賀宗漢・劉浩然・髙加計はいずれも前任の巡撫戴君恩が招撫した者たちで、衆を擁して勝手放題に振る舞っていた。甡は表向きは慰撫しながら、ひそかに參將の虎大威・劉光祚らに命じて図らせ、順次みな殲滅した。甡は軍を進めるとき白旗を二本立て、脅されて従った者や老弱・婦女はその下に跪けば死を免れることとしたので、助かった者はたいへん多かった。
  • 山西にあること四年、軍民は慈母のように慕った。病を理由に辞して帰った。

兵部侍郎と京営の練兵

  • 十一年(1638年)二月、兵部左侍郎として起用された。その冬、尚書の楊嗣昌が辺境の関所が戒厳であるのに甡および添注侍郎の惠世揚が長く着任しないとして人選のやり直しを請うたため、帝は怒って落職・閒住とした。
  • 十三年(1640年)冬、旧官で起用された。翌年(1641年)、戎政の協理を命じられた。
  • 帝がかつて「京営の軍は、どうすれば練成される者が精鋭となり、淘汰される者が騒がずに済むか」と問うた。甡は答えた。京営の辺勇営一萬二千は専ら騎射を練り、壯丁二萬は専ら火器を練っている。俸給は厚いのに技量は散兵と変わらない。分練の法を行い、技の精なる者は散兵から辺勇に引き上げ、そうでなければ辺勇を散兵に落とす。壯丁も同様とし、老弱な者は淘汰して補充する。弊を革めるには漸を追うべきで、兵を淘汰する意図があると知らせてはならない、と。帝はもっともとした。
  • また「別に戦営を立てて戦える者を五萬得られるか」と問うた。甡は答えた。京営の兵は合わせれば戦えるが、泰平が長く続いたため、兵を発して賊を討たせると道々で人を雇って充て、将領は月々の餉を利とし、遊民は略奪を利として、営に帰れば本来の軍がまた列に戻る。いまの練兵の法は将を選ぶことが要で、戦える将がいれば自ずと戦える兵がいる。五萬は難しくないが、法は改変を忌むので、別に戦営を立てる必要はない、と。帝は兵部尚書の陳新甲を顧みて速やかに将を選ばせ、甡には疏を具して奏上せよと諭し、果物・菓子を賜った。甡は拝謝して退出した。

入閣と周延儒との角逐

  • 十五年(1642年)六月、禮部尚書兼東閣大學士に抜擢された。
  • 周延儒が再び宰相となったのは馮銓の尽力によるところが大きく、延儒は馮銓の冠帯(官人としての身分)回復を約束していた。馮銓は果たして資を出して飢饉を賑済し、撫按に上申させた。延儒がこれに優れた旨を擬して戸部に下し公議させると、議論は大いに沸き立った。延儒がこれを憂えると、馮元飇が甡のために策を授け、延儒を説いて甡を引き入れ馮銓のために共に取り計らわせよと言った。延儒は黙ってこれを後押ししたので、甡は権柄を握ることができた。
  • 延儒が馮銓の件を語ると、甡は唯々として承ったが、退いて戸部尚書の傅淑訓を召び、逆案は覆せないと告げてその上申を握りつぶし、返答しなかった。延儒はここで甡に欺かれたと悟った。
  • 延儒が張捷を南京右都御史に起用しようとしたときも、甡は力めて阻んだ。甡は江北の出身、延儒は江南の出身で、それぞれ党を作っていた。延儒が錦衣都督の駱養性を引き立てようとすると、甡は不可とした。のちに帝が諸官庁の弊害を論じたとき、甡は錦衣衛が最もひどいと言い、延儒も緹騎(錦衣衛の捕吏)の害を言ったので、帝は両者の言を容れた。

督師の命を渋る

  • 十六年(1643年)三月、帝は襄陽・荆州・承天が相次いで陥ちたことから朝臣を召見して涙を落とし、甡に「そなたはかつて険阻な辺地を経験している。湖廣の軍を督しに行けるか」と言った。
  • 甡は上疏し、精兵三萬を得て金陵から武昌へ趨り、賊の南下を阻みたいと請うた。帝は湖北を念頭に置いていたので、疏を見て不快となり、宮中に留め置いた。
  • 甡が面談を請うと、帝は昭文閣に出て「必要とする兵が多すぎて急には集められない。南京は遠く隔たっており、退いて守る必要はない」と諭した。甡は「左良玉の跋扈は甚だしく、督師の楊嗣昌が九度も檄して兵を徴したのに一隊も出しませんでした。臣は嗣昌に及ばず、良玉が江漢に居座る様は以前よりひどく、臣が統制しようとしても行われず、いたずらに威信を損なうだけです。南京は襄陽から流れを下って窺うのが容易な位置にあり、兼ね顧みるべきで、退いて守るということではありません」と奏した。
  • 大學士の陳演が「督師が出れば督撫の兵はみなその兵となる」と言うと、甡は「臣が兵を請うのは、まさに督撫に兵がないからです。臣に手をこまねいて賊を待たせ、機を一度失えば、言うに忍びない事態になります」と言った。
  • 帝はそこで兵部に速やかに出兵を議させた。尚書の張國維は總兵の唐通・馬科および京営の兵、合わせて一萬を甡に与えることを請い、さらに「この兵はいま北征中で、敵が退いてから調発できます」と言った。帝はしばらく待てと命じた。甡がしばしば請うと、帝は「ゆっくりせよ。敵が退けば兵は自ずと集まる。そなた一人で行って何の益があるか」と言った。
  • 一月余りして周延儒が督師に出るにあたり、朝に命を受けて夕には出発した。蔣徳璟は倪元璐に「主上は呉公に速やかに行かせたいのだ。ゆっくりでよいと言って慰めるのは試しておられるのだ。首輔が急ぎ赴くのを見れば分かる」と言った。しかし甡はついにぐずついて行こうとしなかった。兵部が割り当てた唐通の兵も、陳演が「関門に備えがないわけにはいかない」と言って引き留めた。
  • 甡はやむなく五月に朝廷へ暇乞いした。その前日、従う騎兵を労いに出たとき、帝はなお宦官に命じて銀牌を賜り褒賞を与えさせた。ところが一夜明けると、突然、逗留を責める詔が下り、出発を取りやめて宿直に入るよう命じられた。甡は恐懼して二度上疏して罪を引き、致仕を許された。

失脚と晩年

  • 甡が去ったあと、陳演と駱養性が結託して讒言したので、帝の怒りはいよいよ募った。七月、帝は自ら呉昌時を訊問した際に色をなして言った。「二人の輔臣は朕にそむいた。朕は延儒を厚遇したのに賄賂を納れ私を行い、国法をわきまえなかった。甡には督師を命じたのに百方に引き延ばして責を逃れる下地を作った。延儒が糾弾された以上、甡だけが免れてよいものか」と。さらに「朕が言わずとも、結局は誰も糾弾すまい。錦衣衛は甡に旨を待つよう伝えよ」と言った。甡が都に入ると、法司に罪を議するよう敕が下った。
  • 十一月、金齒への流刑に処された。南京兵部尚書の史可法が急ぎ疏を上げて救おうとしたが容れられなかった。
  • 翌年(1644年)、南康まで来たところで都城の変(北京陥落)を聞いた。まもなく福王が南京で立つと、赦されて旧の官秩に復した。吏部尚書の張慎言が甡の召用を議したが、勲臣の劉孔昭らに阻まれた。国変ののち、長く経って家で没した。

史論

  • 贊に言う。楊嗣昌は兵を議し餉を議することで主上の知遇を結んだが、結局は民を苦しめ賊を放縦する結果となり、明の事はついに立ち行かなくなった。これはまさしく、官界を巧みに泳ぐ才は有り余っていても、国を経営する策略が足りなかったということではないか。呉甡の才はわずかに一隅を守るに足りるだけであったのに、危急のときに天下の重任を委ねられた。彼が任に堪えようとしなかったのももっともである。ただし、軍を敗り国を誤った者に比べれば、いくらか隔たりがあるといえよう。