明史卷二百五十一 列傳第一百三十九 方岳貢
方岳貢(字は四長、穀城の人)。天啟二年の進士。崇禎元年から松江知府として石堤を築き倉城を設けるなど治績を挙げ、たびたび卓異に挙げられた。薛國觀の失脚に連座して逮捕されたが、収賄の実跡なしとして復官し、帝にその清廉を認められた。江南の糧儲を総理して漕運を期日どおり果たし、平臺の召対で守令・監司の人選を治政の要と説いて左副都御史に超擢された。崇禎十六年十一月に入閣。閣臣が都御史の銜を帯びる例はここに始まる。李自成が京師を陥とすと捕らえられ、拷問ののち縊死させられた。
年表(8件)
- 崇禎元年松江知府に出て、石堤二十里を築き倉城を設けるなど治績を挙げる
- 天啟二年1622年進士に及第し戸部主事を授けられる
- 崇禎十七年四月一日李自成の軍に捕らえられ拷問を受けたのち、邱瑜とともに釈される
- 崇禎十七年四月十二日賊の命により邱瑜とともに縊れて死ぬ
- 崇禎十六年十一月1643年本官のまま東閣大學士を兼ねるよう命じられる
- 崇禎十七年二月1644年戸部兵部尚書兼文淵閣大學士として漕運・屯田・練兵を総督し濟寧に駐まるよう命じられる
- 崇禎十七年正月邱瑜が本官のまま東閣大學士を兼ね、范景文とともに入閣する
- 天啟五年1625年邱瑜が進士となり庶吉士から検討を授けられる
松江知府としての治績
- 方岳貢は字を四長といい、穀城の人。天啟二年(1622年)の進士。戸部主事を授けられ郎中に進み、倉庫を掌り永平の糧儲を督するなど、いずれも清廉謹直で知られた。
- 崇禎元年、松江知府に出た。海浜には盗賊が多く、捕らえるたびに杖殺した。郡の東南は大海に臨み、颶風による高潮が打ちつけて民の患いとなっていたので、石堤二十里ばかりを築き、永く利をもたらした。郡は京師へ数十万石を漕運していたが、諸倉は五里も離れていたので、城垣を築いて護り、倉城と名づけた。そのほか救荒・助役・学校の修築・士の教育にいずれも成績があり、卓異(最優秀)に挙げられること数度に及んだ。
- 薛國觀が失脚したとき、その腹心である上海の王陛彦が獄吏に下されたが、平素から確執があったので、岳貢がかつて國觀に三千金を贈ったと申し立て、岳貢は逮捕された。士民は闕に詣でて冤を訴え、巡撫の黄希もその誣告であることを明らかにし、法司の審理に下された。
- ある日、帝が輔臣を引見して「知府として十余年も俸を積み、たびたび卓異に挙げられた者がいると聞くが、誰か」と問うた。蔣徳璟が岳貢だと答えた。帝が「いまどこにいるか」と問うと、徳璟は陛彦の件に連座していると答え、帝はうなずいた。法司の審理は、収賄の実跡はないので復官させるべきだと上申し、帝はその清廉さと執政の確かさを褒めて許可した。
入閣と殉難
- まもなく給事中の方十亮が岳貢および蘇州知府の陳洪謐を薦めたので、山東副使兼右参議に擢して江南の糧儲を総理させた。督した漕船は期日どおり通州に到着し、帝は大いに喜んだ。吏部尚書の鄭三俊が天下の清廉有能な監司五人を挙げたなかに岳貢も入っていた。
- 帝は促して入対させ、平臺で引見して政治は何を先にすべきかと問うた。岳貢は「天下を治平にしたいなら守令を選ぶことにあり、守令の賢否を察するのは監司にあり、監司の賢否を察するのは巡方にあり、巡方の賢否を察するのは総憲(都察院の長)にあります。総憲に人を得れば、御史がどうして身をもって法を試みましょうか」と答えた。帝はよしとして食事を賜り、日が傾いてようやく退出した。六日を越えてただちに左副都御史に超擢した。
- ある召対のとき、帝がたまたま事のことで吏部尚書の李遇知を詰問した。遇知が「臣はまさに糺し駁しているところです」と言うと、岳貢は「なぜただちに弾劾しないのか」と言い、深く帝の意にかなった。翌日、本官のまま東閣大學士を兼ねるよう命じられた。崇禎十六年十一月(1643年)のことである。旧例では閣臣が都御史の銜を帯びることはなかったが、岳貢から始まった。
- 岳貢はもともと実務吏の才で、宰相となると帳簿の照合に努め、恩赦以前の旧税の徴収を洗い直すよう請い、意は取り立てにあったので、名声はひどく損なわれた。崇禎十七年二月、戸部・兵部二部の尚書兼文淵閣大學士として漕運・屯田・練兵の諸務を総督し濟寧に駐まるよう命じられたが、まもなく実現しなかった。
- 李自成が京師を陥とすと、岳貢と邱瑜は捕らえられ劉宗敏のもとに幽閉された。賊が銀を要求したが、岳貢はもとより清廉で貧しく応じられず、拷問を極められた。邸を捜索しても何もなく、松江の商人が代わりに千金を納めた。四月一日、瑜とともに釈された。十二日、賊は陳演らを殺したのち、監視の者に二人も殺すよう命じた。監視の者が縄を差し出し、二人はともに縊れて死んだ。
邱瑜――襄陽の献策と殉難
- 邱瑜は宜城の人。天啟五年(1625年)の進士。庶吉士から検討を授けられた。崇禎のなかごろ、しばしば遷って少詹事となった。襄陽が陥ちたとき、瑜は難に遭った宗室の救恤、才ある吏の選抜、死節者の顕彰、徴税の停止、駅伝の困窮の緩和、労役の禁止の六事を上り、帝は採納した。禮部左侍郎・右侍郎を歴任した。
- 召対のときに「督師の孫傳庭が関を出るかどうかは安危の係るところです。慎んで急がせて軽々に出させてはなりません。関中を鎮定させておけば、なお諸将を号召して機に応じて討伐させられます」と述べたが、帝は従えなかった。崇禎十七年正月、本官のまま東閣大學士を兼ね、范景文とともに入閣した。都城が陥ちると、二度にわたって拷問を受けたが、捜し出されたのは二千金だけだった。やがて殺された。
邱之陶――偽降と支解
- 瑜の子の之陶は年少ながら才幹と謀略があった。李自成が宜城を陥としたとき、瑜の父の民忠は賊を罵って死んだ。之陶は捕らえられ、兵政府の従事に用いられ、まもなく本府侍郎として襄陽を守った。襄陽尹の牛佺は賊の宰相である金星(牛金星)の子であったが、信任は之陶に及ばなかった。
- 之陶は蝋丸に書を入れて傳庭に送り、「督師が賊と戦われるとき、私は左鎮(左良玉)の兵が大挙して来たと偽って賊の心を揺さぶります。賊は必ず後ろを顧みますから、督師が背後を撃ち、私が内から起てば、賊は滅ぼせます」と告げた。傳庭は大いに喜び、そのとおりにする旨を返書したが、賊の巡邏の者に奪われた。傳庭は内応を頼んで営を連ねて前進し、之陶は果たして火を挙げて左良玉の兵が大挙して来たと報じた。
- 自成はその偽りを確かめると、之陶を呼んで傳庭の書を示し、自分に背いたと責めた。之陶は大いに罵って「私はお前を万段に斬れないのが恨みだ。どうしてお前に従って反くものか」と言った。賊は怒ってこれを支解した。
史論
- 贊に曰く。荘烈帝の在位はわずか十七年なのに、輔相となった者は五十人にも及んだ。よい名を全うできた者は数人にすぎず、李標らがそれである。
- 基命は旧輔(孫承宗)を推挙して危難を鎮めることができ、震孟は風節によって世に顕れ、徳璟は旧来の典章に精通していた。陸喜が薛瑩を論じた言葉に照らして見れば、いわゆる「侃然として国を体し、正を執って懼れず、時宜を斟酌して時に微益を献ずる者」というのは、この人々のことであろうか。
- 危うきを扶け傾きを定めることに至っては、そうたやすく言えるものではない。ああ、国歩がまさに艱難のとき、人材もまたともに尽きた。その由って来たるところは、しだいに積もったものである。