明史卷二百四十七 列傳第一百三十五 陳璘
字は朝爵、廣東翁源の人(?–萬厯末)。嘉靖末から廣東で賊の討伐に従い、羅旁の大征に加わって羅定州の設置に功があった。貪欲さを弾劾されて二度も官を奪われたが、才を惜しまれて朝鮮の役に起用され、水軍の提督として忠清・全羅・慶尚の海口を押さえ、石曼子の援軍を洋上で撃ち破って論功第一とされた。播州征討では湖廣總兵官として青蛇囤以下を落とし、呉廣とともに海龍囤の背後から登って楊應龍を自焼に追い込んだ。のち皮林の乱と貴州の仲家苗・山苗を平定し、在官のまま卒した。
年表(10件)
- 嘉靖の末指揮僉事となり、英徳の賊の討伐に従って廣東守備に進む
- 萬厯の初め髙要の鄧勝龍や山賊の鍾月泉を平らげ、署都指揮僉事となる
- 二十年1592年朝鮮の用兵に際し神機七營参将に添注され、薊鎮を協守する副總兵となる
- 二十五年1597年封貢の破綻により起用され、廣東の兵五千を率いて朝鮮を援ける
- 二十八年1600年二月、湖廣總兵官として偏橋から進み、楊朝棟の二萬を龍溪山まで破る
- 二十八年1600年三月十五日、浮橋を作って渡江し、七牌の賊を破って苦菜闗に入る
- 二十八年1600年青蛇囤ほか四囤を落とし、斬首一千九百余を挙げる
- 二十八年1600年六月六日、海龍囤の背後から夜襲して陥れ、楊應龍は自ら焼け死ぬ
- 三十四年水硍と東西二路の苗を攻め克ち、斬首三千余級・降者一萬三千余を得る
- 三十三年1605年冬、巡撫郭子章の請により貴州の苗の討伐が決まる
出自と廣東での討賊
- 陳璘は字を朝爵といい、廣東翁源の人。嘉靖の末に指揮僉事となり、英徳の賊の討伐に従って功があり、廣東守備に進んだ。大盗の頼元爵および嶺東の残冦の平定に加わった。
- 萬厯の初め、髙要の賊である鄧勝龍を討ち平らげ、また掲陽の賊および山賊の鍾月泉を平らげ、たびたび進んで署都指揮僉事となり廣東都司の僉書を務めた。
- 官軍が諸良寶を攻めた際、副将の李成立が戦って敗れた。総督の殷正茂は璘に参将を仮に与え、自ら一軍を率いさせた。賊が平らぐと肇慶逰擊将軍を授けられ、髙州参将に移った。
- 総督の凌雲翼が羅旁を大々的に征討しようとして、まず先行して掃討するよう命じ、璘が破った巣はおよそ九十であった。ついで十道に分かれて大征し、璘は信宜から入り、諸軍と会してこれを覆滅した。その地に羅定州および東安・西寜の二縣を置いた。ただちに璘を副總兵に遷し、東安参将の事を代行させた。
東安の兵乱と罷免
- ほどなく残党が吏民を殺したので、璘は罪を負ったまま賊にあたるよう責められた。璘は他の将の朱文達と会して石牛・青水の諸巣を攻め破り、三百六十余人を斬り捕らえ、俸給はもとどおりとされた。
- 当時、東安は平定されたばかりであったが、璘は大々的に土木を興して寺廟を営み、部下の兵を使役し、そのうえ金を出させたので、兵はみな怒り、事にかこつけて乱を起こし州縣を略奪した。巡按御史の羅應鶴に弾劾され、詔によって璘の官は奪われた。やがて賊を捕らえたので罪を免ぜられ、狼山副總兵に改められた。
- 璘は謀略があり兵を率いるのが巧みであったが、行く先々で貪欲であったので、ふたたび弾劾されて官を剥奪され廃された。久しくして、朝廷の士の多くはその才を惜しんだが、薦める勇気はなかった。
朝鮮の役と水軍提督
- 二十年(1592年)、朝鮮で用兵となると、璘が倭の事情に通じているとして神機七營参将に添注を命じられ、着任すると神樞右副将に改められた。ほどなく署都督僉事に抜擢され、副總兵官に充てられて薊鎮を協守した。
- 翌年正月、詔によって本官のまま薊・遼・保定・山東の軍を統べて倭を防ぎ海を守らせた。おりしも封貢の議があって一時休兵となり、璘を漳潮の協守に改めた。石星に賄賂したことに坐して奏され、また罷めて帰郷した。
- 二十五年(1597年)、封貢の交渉が破綻すると、璘をもとの官で起用し、廣東の兵五千を統べて朝鮮を援けさせた。翌年二月、禦倭總兵官に抜擢され、麻貴・劉綎と並ぶ将となった。部下の兵が山海闗に宿営したとき騒ぎを起こし、璘は責められた。
- ほどなく水軍の提督を命じられ、貴・綎および董一元と分道して進んだ。副将の陳蠶・鄧子龍、逰擊の馬文煥・季金・張良相らがみなその下に属し、兵は一萬三千余、戦艦は数百、忠清・全羅・慶尚の諸海口に配置された。
- はじめ賊は海を渡って出没し、官軍は舟が乏しかったので思うままにされていたが、璘の水軍を見ると恐れて海上を往来しなくなった。
- 平秀吉が死んで賊が逃げようとすると、璘は急ぎ子龍を朝鮮の将である李舜臣とともに迎え撃たせた。子龍は戦死した。蠶・金らの軍が至って迎え撃ち、倭は闘志がなく、官軍がその舟を焼いて賊は大敗した。脱出して上陸した者もまた陸の兵に殲滅され、焼け死に溺れ死んだ者は萬を数えた。
- 当時、綎はちょうど行長を攻めて順天の大城に駆け入っており、璘は水軍で挟み撃ちにしてさらにその舟百余を焼いた。石曼子が西へ行長を援けに来ると、璘は洋上の半ばで迎えてこれを撃ち殺し、その一党三百余を殲滅した。
- 賊は退いて錦山を保ち、官軍が挑んでも出て来ず、やがて渡って乙山に隠れた。崖は深く道は険しく将士は進もうとしなかったが、璘は夜ひそかに入ってその巖洞を囲んだ。夜が明けて砲を放つと倭は大いに驚いて後山に奔り、高きに拠って拒んだ。将士が死を賭して攻め、賊は逃げ去った。璘は分かれて追撃し、逃れ得た賊はなかった。
- 論功では璘が第一、綎がこれに次ぎ、貴がまたこれに次いだ。璘は都督同知に進み、指揮僉事の世廕を得た。
播州征討
- 軍がようやく凱旋したところで播州征討の役があり、璘を湖廣總兵官として偏橋から進ませ、副将の陳良玭は龍泉から入って璘の節制を受けた。
- 二十八年(1600年)二月、軍が白泥に宿営したとき、楊應龍の子の朝棟が衆二萬を率いて烏江を渡り迎え戦った。璘は前でこれを防ぎ、両翼を分けてその背後に迫った。賊はやや挫け、龍溪山まで追撃した。
- 賊は四牌の賊と合わせて共に拒んだ。四牌は江の外にあり、江の内の七牌とともにいずれも五司の遺種で、九股の惡苗が平素から賊を助けていた。璘は広く招撫を行い、そのうえで龍溪に進軍した。賊に伏があると偵知して逰擊の陳策に火器で撃たせた。賊は険に拠って矢石を雨のように下したが、璘は先登し、退く小校を斬って見せしめとした。把總の吳應龍らが陣に突入し、賊は大崩れして四牌の保兒囤に退いた。
- 璘の二人の裨将が迫って伏に落ちた。璘は決死の士を募り、應龍らに従って奮撃させると、賊はまた潰えて囤の頂に逃げ拠り、夜に山の背後から遁走した。夜明けに袁家渡で追いつきまた破り、四牌の賊はついに尽きた。
- 三月十五日、諸軍は浮橋を作って渡江した。賊将の張佑・謝朝俸・石勝俸らが七牌の野豬山に営していると知り、璘はその夜に出発して苦練坪に至り、前鋒が戦い後軍が至って挟み撃ちにすると、賊は敗れて深い竹藪に逃げた。官軍はそのまま苦菜闗に入った。
- おりしも童元鎮の烏江の軍が敗れたので、璘は恐れて退軍を請うたが、総督の李化龍は許さなかった。璘は進んで楠木橋に営し、湄潭に宿営した。
青蛇囤の攻略と海龍囤の陥落
- 賊はことごとく青蛇・長坎・瑪瑙・保子の四囤に集まった。地はみな絶険で、なかでも青蛇がとくに険しかった。璘は、同じ日に攻めれば兵力が薄く、一つの囤だけを攻めれば三つの囤が必ず助け合うと考え、まず三つの囤を攻め、次に青蛇に及ぶこととした。良玭の軍もまた来会した。囤の背後に伏せさせ、別に一軍で板角闗を守らせて賊の逃亡を防いだ。
- 璘は諸将を督して三日間力攻し、賊の死傷は数知れず、三つの囤はついに落ちた。青蛇は四面が切り立っていた。璘はその三面を囲み、決死の士を募って瑪瑙の背後から葛にすがって山の背に至らせ、砲を上げさせた。賊は狼狽し、諸軍が進み攻めてその茅屋を焼いた。賊が囤の内に退いて木石を投げ下ろすと、将士は死を冒して登り、大柵二重を毀し、前後から撃って賊は大敗した。斬首一千九百有余。七牌の賊もことごとく尽きた。
- そこで兵を六道に分けて大小三渡闗を攻め克ち、勝ちに乗じて海龍囤の下に至った。
- 諸将はみな囤の前を攻めたが、水西の安疆臣だけがその背後を攻め、四十余日にわたって対峙した。その配下は賊の重い賄賂を受けて多くが通じており、しかもひそかに火薬を賊に渡していたので、賊はその背後に備えていなかった。
- 璘はこれを知り、監軍の者と謀って疆臣を一舎(三十里)退かせ、璘がその場所に移って鉄牌百余を囤から一丈ほどのところに置いた。賊の強弩は用をなさず、また柵の前に釘板を設けたので、賊が毎夜出て襲おうとしても釘に傷つき、二度と出られなくなった。應龍は勢い窮して一同ともに泣いた。
- 化龍ははじめ諸将に日を分けて攻めるよう命じており、六月六日は璘と呉廣が進兵に当たった。璘は夜四更に枚を銜んで登った。賊は鼾をかいて眠っていた。関を守る者を斬り、白い幟を立てて砲を鳴らすと、賊は大いに驚いて潰え散り、應龍は自ら焼け死んだ。廣の軍もまた至り、賊はことごとく平らいだ。
皮林の乱の平定
- そのまま軍を移して皮林を討った。皮林は湖廣と貴州の境にあり、九股の苗と接している。呉國佐という者は洪州司特峒寨の苗で、狡猾な無頼であった。その従父の大榮が叛いて誅されると、國佐はその妾を娶った。黎平府がこれを厳しく責めたので、ついに反して自ら「天皇上将」と称し、その党の石纂太は「太保」と称し、合わせて上黄堡を攻め、参将の黄沖霄を誘い出して敗り、永從縣まで追って守備の張世忠を殺し、炙って食った。屯堡七十余を掠め、五開の南城を焼き、永從を陥れ、中潮所を囲んだ。
- 当時は播州征討の最中で討つ暇がなかった。播が平定されると、偏沅巡撫の江鐸が璘と良玭に兵を合わせて討たせた。良玭は敗れた。翌年、鐸は靖州に移駐し、璘に副将の李遇文ら七道から進ませた。
- 璘は苗の酋である銀貢らを捕らえ、逰擊の宋大斌が特峒を攻め破って焼いた。國佐は天浦四十八寨に逃げ、さらに古州の毛洞に入ったが、追って捕らえた。石纂太は廣西の上巖山に逃げたが、指揮の徐時達が誘って縛った。賊党の楊永禄が衆萬余を率いて白沖に屯したが、逰擊の沈𢎞猷らが挟み撃ちにして永禄を生け捕り、諸苗はことごとく平らいだ。
- 播を征したとき、璘は李化龍の家に賄賂を差し入れようとして、ちょうど劉綎の使者と同じく化龍の父に追い払われた。璘の使者は逃げ去った。化龍が朝廷に上疏し、綎は罪を得たが、璘だけは免れた。
- のち兵部尚書の田樂が璘を貴州の鎮に推挙すると、給事中の洪瞻祖が璘が運動して求めたと弾劾したが、帝は璘が東西で戦功を積んでいるとして、結局は樂の議のとおりとした。
貴州の苗の平定と死
- 貴州の東西二路の苗を仲家苗といい、貴・龍・平・新の間に盤踞して諸苗の巨魁であった。水硍山にあって銅仁・思石の間に介在する者を山苗といい、紅苗の羽翼であった。播を平らげて以来、貴州の物力は大いに窮し、苗はいっそう野心を生じて略奪しない日がなかった。
- 三十三年(1605年)冬、巡撫の郭子章が朝廷に請い、翌年四月、璘の軍一萬人に水硍を攻めさせ、逰擊の劉岳に宣慰の安疆臣の兵一萬人を督して西路を攻めさせ、ともに克った。そこで璘を新添に移して単独で東路を攻めさせ、これも克ち、酋十二人を生け捕り、斬首三千余級、降を招いた者は一萬三千余人。管内はついに静まった。
- 廣東に鎮を改め、在官のまま卒した。先に播を平らげた功で左都督を加えられ、指揮使の世廕を得た。卒したのち、苗を平らげた功で太子太保を贈られ、重ねて百戸を廕された。
呉廣――出自と播州への出陣
- 呉廣は廣東の人。武生から従軍して次々に戦功を著し、福建南路参将を歴任したが、事に坐して罷免され帰郷した。
- 岑溪の猺が反すると、総督の陳大科が檄して廣を總兵の童元鎮に従って討たせた。将士がやや退くと、廣は手ずから一人の兵を斬って見せしめとし、ついに大破した。論功でもとの官に復した。
- 萬厯二十五年(1597年)、副總兵として劉綎に従って朝鮮で倭を防ぎ、水軍を率いて陳璘と犄角の勢をなし、俘虜と斬首がはなはだ多かった。
- 凱旋するとすぐに播州の大征があり、廣は總兵官に抜擢されて一軍で合江から出、副将の曺希彬は一軍で永寜から出て廣の節制を受けた。
- 廣は二郎壩に屯して大いに招き寄せを行った。賊の驍将である郭通緒が迎え戦ったが、将士が襲って走らせた。陶洪・安村・羅村の三砦の土官がそれぞれ降り、他の部から帰順する者は数萬。廣はその壮健な者を選んで従軍させた。
- 通緒が穿崖囤を扼したので、廣は土漢の軍を督して撃ち破った。
呉廣――崖門の攻略
- 劉綎・馬孔英がすでに播に入ったのに、廣はなお二郎に留まっていた。総督の李化龍が促したので、四哨に分けて崖門を進攻することを議し、別に永寜の女土官である奢世續らに夷兵二千を督させて桑木埡の諸要害を扼させ、糧道を守らせた。
- 諸将が数囤を連破し、進んで母豬塘に営した。楊應龍は恐れ、通緒に関外の兵をすべて出させて敵に当たらせた。廣は砲手五百を磨搶埡の外の南岡の下に伏せ、裨将の趙應科を遣わして挑戦させた。埡は両山の間に挟まれてはなはだ狭い。通緒が槊を横たえて應科に衝きかかると、應科は偽って敗走した。通緒が追って埡を出たところで伏に遭い、急いで馬を返したが砲に当たって落ち、他の馬に飛び乗ろうとしたところを伏兵が寄ってたかって刺し殺した。残る賊は大いに逃げ、官軍が追撃して賊はことごとく降った。
- そのまま崖門に迫った。道は細く騎馬一頭がやっと通れるほどであった。賊衆萬余が関を出て拒み戦ったが、希彬が千金の賞を懸けると士は崖をよじ登って競い進み、第四関まで追った。関の上では男も女もみな泣き、賊党は自らその首魁の羅進恩を殺して萬余人を率いて降った。ただ第一関だけはなお拒んで落ちなかったが、廣は夜に乗じて急進して関を奪った。関の内の民は争って牛と酒を献じた。
- 劉綎・馬孔英はすでに関に入っていたが、李應祥・陳璘はなお関外にいた。廣は希彬の軍と合わせて紅碗水・土崖・分水闗で連戦していずれも勝ち、進んで水牛塘に営した。
呉廣――海龍囤の陥落と最期
- 應龍は大いに恐れ、廣の軍が孤立して深入りしていることを知って襲おうと謀り、人を遣わして偽りの降伏をさせた。廣はその偽りを見抜き、壁を堅くして待った。應龍は衆三萬を擁して大営に直に衝いたが、諸将が死を賭して戦い、他の将も救援に来たので賊は退いた。
- 廣はそこで諸道の軍とともに海龍囤に迫った。賊は偽って婦人に降を乞わせ囤の上で泣かせ、また應龍が毒を仰いで死んだと偽って報じた。廣ははじめ信じたが、やがて偽りと知り、急ぎ第二関を焼き、三山を奪って賊の薪と水を絶った。賊はいよいよ窮した。
- ほどなく陳璘とともに囤の背後から登ると、應龍は急ぎ自ら焼け死んだ。その子の朝棟を捕らえ、烈火の中から應龍の屍を取り出した。廣は毒矢に中り、声を失って気絶し、また蘇った。
- そのまま本官で四川を鎮め、一年余りで卒した。
- はじめ廣が二郎に留まっていたとき、賄賂を受けて賊を養っていると言う者があり、詔によって為事官に落とされた。のち論功で都督同知を贈られ、千戸の世廕を得た。