明史卷二百四十七 列傳第一百三十五 李應祥
湖廣九谿衛の人。武生から従軍して功を積み、廣西思恩参将・松潘副總兵を経て四川總兵官となった。四川總兵として松潘の楊栁番、建昌・越巂の諸番、膩乃の撒假という蜀の三大冦をあいついで平定し、降った番には奴を埋めて誓わせる「埋奴」の儀を課し、屏山縣を新たに置いた。謀と勇を兼ね備えた将と評されたが、軍糧の冒用と収賄を弾劾されて一度は罷職された。播州征討では童元鎮に代わって興隆道を担当し、海龍囤で楊應龍を滅ぼした。在職のまま卒し、左都督を贈られた。
年表(10件)
- 萬厯七年1579年張任の十寨征討に功を挙げ、松潘副總兵に抜擢される
- 十三年1585年南京左府僉事に改まり、四川總兵官として出る
- 十三年1585年夏、楊栁番が普安堡を攻めたので茂州に入って討つ
- 1586年正月、楊栁番が蒲江闗を囲むが、朱文達の出撃で東南の路が通じる
- 1586年松潘の大征を統べ、丢骨・人荒・没舌の三砦以下を破って六月に凱旋する
- 1586年降った番に埋奴の誓約を課し、碉房千六百余を焼いて俘馘千余を得る
- 萬厯十五年1587年七月、建昌・越巂の諸番を平定し、首功二千余・降者三千余を得る
- 萬厯十五年1587年十一月から膩乃を討ち、撒假・安興を捕らえてその地に屏山縣を置く
- 二十八年1600年播州征討で童元鎮に代わり、興隆道から進んで黄灘の関を破る
- 二十八年1600年海龍囤に至り、諸道の兵と合わせて楊應龍を滅ぼす
出自と初期の武功
- 李應祥は湖廣九谿衛の人。武生から従軍し、功を積んで廣西思恩参将に至った。
- 萬厯七年(1579年)、巡撫の張任が十寨を大々的に征討し、應祥も功があった。その地に三鎮を設け、城を築き戍を並べた。應祥はちょうど営建の職にあったが、松潘副總兵に抜擢された。担当の者が留任を奏請したので、新しい官秩のまま旧任にあたった。總兵の王尚文に従って馬平の賊である韋王明を大破した。
- ほどなく署都督僉事として五軍營副将に入った。十三年(1585年)、南京左府僉事に改まり、四川總兵官として出た。
松茂の諸番の弊と楊栁番の乱
- 松茂の諸番は砦を並べること四十八、代々吏民の患いであった。王廷瞻が蜀を撫していたとき、副将の呉子忠を遣わして丢骨・人荒・沒舌の三砦を撃破させ、諸酋はようやく降った。
- 旧例では諸番に毎年賞賜があり、番は強きを恃んで際限なく要求した。堡に来るときには「下馬」「上馬」「解渇」「過堡」の酒があり、さらに「熱衣」「気力」「偏手錢」があった。戍軍の交代にも銭を差し出させ、「新班」「架梁」「放狥」「躧草」「掛綵」と称した。廷瞻はこれらを一切廃止し、西の辺境はやや静まったが、わずか六、七年で勢いはふたたび猖獗となった。
- この年の夏、楊栁番が出て普安堡を攻め、歸水崖・石門坎を犯し、そのまま金瓶堡に入って守将を殺した。巡撫の雒遵が應祥に討たせ、卒三千を率いて茂州に入り一岩を克ったが、番は険を恃んで略奪はもとのままであった。
- ほどなく遵が罷免されて徐元泰が代わり、檄で諭して使者が三度往復したが番は応じず、蒲江闗をうかがい、歸水崖・黄土坎の道を断ち、五哨溝に墻を築いて東南の応援を絶った。官軍が少ないのを見て顔を見合わせ、「こんな磨子の兵に我らをどうできよう」と笑った。磨子とは、しきりに旋回するばかりで数が増えないことをいう。
- その冬、平夷堡に突入して良民を掠め、その腸を抉って二歳の角牛にくくりつけ、牛が走って腸が寸断された。
- 翌年(1586年)正月、ついに蒲江闗を囲み、砲で城壁の狭間を毀った。守将の朱文達が出撃して数十人を斬り、賊はやや包囲を解き、東南の路がようやく通じた。
松潘大征
- 元泰は大征を決意した。諸路の兵がすべて集まると、逰擊の周于徳に播州の兵を率いて前鋒とし、逰擊の邊之垣に酉陽の兵を率いて後拒とし、故總兵の郭成に叙馬の兵を率いてその喉元を扼させ、参将の朱文達に平茶の兵を率いてその脇腹を撃たせ、應祥は中央にあって節制し、参議の王鳳が監軍した。
- 應祥は軍中にそれぞれ赤と白の幟を一本ずつ立てさせ、賊に落ちた良民は素手で赤い幟の下に立ち、賊に付かない熟番は素手で白い幟の下に立てば罪を免ずるとした。番は数が多くても、危急のときに互いに救わなかった。
- 國師喇嘛という者は狡猾で、青海の酋と姻戚を結び、必圗・旺忠・章喀らと木を刻んで大小の諸姓を連ね、血をすすって盟いを立てていた。ここに至って旺忠・章喀を誘って先に歸化を犯させた。かつて官軍に属したことのある于徳が喇嘛と旺忠を誘い出して捕らえ、守備の曺希彬がまた章喀を撃ち斬った。
- 丢骨・人荒・没舌の三砦がもっとも強かったが、于徳がいずれも攻め克った。さらに卜洞・王の諸砦を続けざまに破った。文達・成・之垣もそれぞれ数砦を抜き、于徳の軍と合流して蜈蚣・茹兒の諸巣を攻め破った。
- 嘉靖の初め、之垣の祖父の輪が指揮として茹兒の賊を討って殺され、その頭を漆で塗って飲器とされていた。ここに至って六十年、之垣はようやくこれを取り戻して葬った。
- 賊はたびたび敗れ、窮して輜重をことごとく棄てて官軍を誘おうとしたが、官軍は顧みず関を斬り破って入り、賊は多く死んだ。河東は平定された。
- ほどなく河を渡って西へ進み、西坡・西革・歪地・乾溝・樹底の諸巣を続けざまに破った。小粟谷という者が乱の首謀であったが、大軍が西へ向かうのを覗い見て備えをしていなかったので、郭成が夜襲して大いに獲た。
- 牛尾砦はとりわけ険悪であったが、将士が三路から挟み撃ちしてその柵を焼き、酋の合兒結父子を斬り、河西もまた平定された。
- 諸軍は蓄えられていた稞粟を得て十日留まり、その砦をことごとく焼いて六月に凱旋した。
埋奴の誓約と戦果
- 深い谷に逃げ込んだ者が偏頭結賽を通じて降を乞うた。應祥は奴を埋めて誓いを立てることを条件に許した。埋奴とは、番人がその奴の手を後ろ手に縛って軍前に献じ、天に呼ばわって誓い、そのまま要路に牽いて行って穴を掘って埋め、頭だけを露出させるものである。埋めた者は全部で二十三人。
- 偏頭結賽は天竺の僧を厚く敬っていた。僧が「年が酉・戌にあたる年は番に災厄がある」と言い、偏頭はこれを信じてあらかじめ山谷に隠れていた。逃げた賊はこれを神跡と思って拝み求めたので、偏頭が彼らのために願い出たのである。
- この役では碉房千六百有余を焼き、賊の首魁三十余人を生け捕り、俘馘は千余を数えた。これより群番は震え驚き、患いをなさなくなった。辺境の人は碑を建ててその功績を記した。
建昌・越巂の平定
- 建昌・越巂の諸衛は番と猓が雑居していた。建昌の逆酋は安守・五咱・王大咱といい、越巂の卭部・黒骨夷とともに起こって乱をなした。巡撫の徐元泰が討伐を議して兵一萬八千を徴し、なお文達・之垣を分将とし、應祥にこれを統べさせ、副使の周光鎬がその軍を監した。
- 十一月、光鎬が先に瀘を渡った。黒骨と大咱はすでに相嶺に拠って三峽橋を焼き、五咱らも禮州・徳昌の二所を侵していた。当時まだ徴兵が集まっていなかったので、光鎬はまず疑兵を設けて相嶺の賊を試した。賊は果たして退いて桐槽に拠った。桐槽は大咱の巣穴である。
- やがて諸道の兵がことごとく越巂に到着し、應祥は文達に五咱を攻めさせ、之垣に大咱を攻めさせ、黒骨夷はしばらく不問とした。夜半に三百里を走って禮州に至り、賊が半ば渡ったところを文達が撃ち破り、そのまま河を渡ってその巣を突いた。之垣もたびたび桐槽を破り、大咱は山の谷間に逃げ込んだ。
- ほどなく五咱が磨旗山に拠って挑戦してきたので、官軍が挟み撃ちにすると賊は退いて毛牛山を保った。山は六、七百里に延び、大小の西番の界に連なる。文達の兵が大いに破り、五咱は西へ逃げて安守と合流し、西谿に砦を結んだ。
- ちょうど徴集した鹽井・刺馬の兵三千が到着した。狰獰として跳ね回り人の姿とも思えぬありさまで、諸番が深く畏れるものであった。應祥は賊が営を襲おうとしていると偵知し、ひそかに自分の営を移して刺馬の兵をその場所に屯させた。夜半に賊が襲来すると刺馬が起って撃ち、屍が散乱した。
- 諸将は進んで西谿を攻め、北へ追って磨砦に至った。七板の番が兵を連ねて五咱を図ろうとしたので、裨将の田中科に麥達に営させて安守に迫らせた。おりしも間者が「守が中科を襲う謀がある」と報じた。應祥は夜、材官の髙逢勝に三つの大杯を飲ませ、決死の士三百を率いて七十里を疾駆させ、麥達に至って伏せさせた。守は夜になって来て伏に遭い、捕らえられた。守は群冦の首魁であり、守が殪れると西南の卭・笮・苴蘭・靡莫の諸酋はみな震え恐れた。
- 商山四堡の番は之垣に降を乞い、大小七板の番は文達に降を乞い、それぞれ道の左で奴を埋め、号泣し頭を地につけて世々叛かぬと誓った。
- 五咱は勢い窮して昌州に走ったが、これも裨将の王言に捕らえられた。
- 土木の安四兒という者は連昌の城中にいながらひそかに外で略奪をしていた。ここに至って禍が及ぶと知り、党数百人を率いて虚郎□(底本欠字)に拠った。諸軍が五咱を滅ぼすと、應祥は彼らを北へ向かわせて黒骨を討つように見せかけた。四兒が備えを緩めたところ、将士が突然軍を返して襲い、四兒を捕らえた。
- さらに大咱を討った。はじめ大咱は敗れて親しくしていた普雄の酋の姑咱のもとに隠れていた。大軍が至ると姑咱は恐れてひそかに裨将の王之翰に告げ、之翰が捜し出して大咱を得た。黒夷の酋である阿弓ら七人は大孤山にいたが、これも先に之翰に捕らえられていた。
- こうして建昌・越巂の諸番はことごとく平定された。上げた首功は二千有余、降伏を受け入れた者は三千余人。萬厯十五年(1587年)七月のことである。
膩乃の平定と屏山縣の設置
- 卭部に属する夷の膩乃という土地は馬湖に近く、その酋の撒假は、外凡・安興、木𤓰夷の白禄、雷坡の賊である楊九乍らとともにたびたび内地を侵掠していた。巡撫の曾省吾が討伐を議したが、都蠻の役があって果たさず、六堡を建てて戍兵千二百人を増やしたものの、諸蠻の跋扈はもとのままであった。
- 建昌・越巂に出兵した際にはまた叛人を匿った。元泰は都指揮の李獻忠らに分かれて討たせたが、賊は偽って降り、獻忠ら三将を誘って捕らえ、士卒数千人を殺し、勢いはますます猖獗となった。
- 應祥らの軍が凱旋すると、元泰はさらに播州・酉陽の諸土兵を徴して五萬人を合わせ、應祥に文達・之垣および周于徳ら諸将を督させて三道から入らせた。故總兵の郭成もまた従軍した。
- 十一月、于徳がまず白禄の兵を破り、馬蝗山まで追い、索を吊るして登ると賊は潰えた。勢いに乗じて木𤓰夷を攻め、白禄を射殺し、利濟山まで追った。雪が数尺の深さであったが于徳は先登し、ふたたび賊を大破してその巣を焼いた。
- はじめ撒假と九乍は萬人を率いて山に拠り、播州の兵がこれを撃退した。ここに至って文達がまた大田壩でこれを破り、于徳の兵と合わせて追い立て、向かうところみな勝った。逰擊の萬鏊が撒假を䑕囤で追撃してその妻子を捕らえ、郭成がさらに三寳山に至って大戦し、撒假を生け捕った。
- 安興は巣に拠って守り、文達・鏊が分かれて入りその母と妻を捕らえた。安興は金を路に投げて追う者を遅らせて逃れたが、諸軍が深入りしてついに捕らえた。
- 他の夷・猓で威を畏れて降った者は二千余人。ことごとく土地を返して職貢を修めたいと願い出たので、兵は罷められた。斬首は一千六百九十余、俘獲は七百三十有余。その地に屏山縣を置いた。
- 論功で應祥はしばしば加階されて都督同知に至り、元泰も兵部尚書に至った。当時、蜀中の凶悪な冦はことごとく平らぎ、應祥の威名ははなはだ顕著であった。
- 御史の傅霈が管内を巡按して應祥が軍糧を冒用したことを詰問し、應祥は千金を賄賂したが、奏されて職を罷めさせられた。兵部が應祥を南京右府僉書に推挙したが、給事中の薛三才が不可とした。
播州征討
- 二十八年(1600年)、播州を大々的に征討した。貴州總兵官の童元鎮が逗留したので総督の李化龍がこれを弾劾し、應祥を代わりに薦めた。当時、兵は八道に分かれ、貴州は烏江・興隆の二道であった。詔によって元鎮を為事官に充てて烏江から入らせ、應祥は興隆から入ることとなった。
- 諸道は二月十五日に進兵と定めた。應祥がまだ任を受けないうちに、副将の陳寅らはすでに数囤を連克し、四牌の高囤の下で賊を防ぎ、別に兵を遣わして間道から龍水囤を直撃した。他の将の蔡兆吉もまた乾坪から箐岡に至り四牌を過ぎた。賊首の謝朝俸がその地に営し、四面は切り立った壁と深い竹藪で、前に二つの関があった。賊が高きから鬨をあげ、官軍は死を賭して戦い、朝俸の妻子を捕虜にした。勢いに乗じて河畔に至ったが、烏江の敗報が届いたので兵を収めて十日間進まなかった。
- 應祥が任を受けると、諸将にいっそう急いで渡るよう促した。寅らは他の道から河を渡り、ひそかに浮橋を作って軍を渡した。諸軍が渡ると賊は険を失い、降を乞う者が相次いだので、應祥はことごとく受け入れた。
- 賊が頼みとするのは黄灘の一関だけで、壁のように立ちはだかり衆が死守していた。おりしも賊徒の石勝俸らが萬余人を率いて降り、「黄灘を去ること三十里に三つの関があり、播に入る門戸である。先にこれを襲い破れば黄灘は孤立して守りにくくなる」と告げた。應祥はその計をよしとし、陳寅とともに精兵四千を率いて夜、関の下に至らせた。勝俸が数十騎で誘って門を開かせ、その守備兵を殲滅した。黄灘の賊は恐れ、寅が諸将を督して河を渡り関の前を攻め、勝俸は墳林からひそかに渡って関の背後を襲い、賊は大敗した。
- 應祥は海龍囤にまっすぐ至り、諸道の兵と合わせてともに楊應龍を滅ぼした。
晩年と評
- 播が平定されると銅仁に還って鎮した。翌年、四川に鎮を改めた。播の残党である吳洪・盧文秀らは役所の法が厳しいのを憎み、また遵義知縣の蕭鳴世が人心を失っていたので、洪らは「應龍に子がある」と称して衆を集め乱をなした。應祥は副使の傅光宅とともにこれを捕らえ、ことごとく捕獲した。
- 應祥はほどなく在職のまま卒した。播を平らげた功で左都督を贈られ、千戸の世廕を与えられた。
- 應祥は将として謀と勇を兼ね備え、行く先々で功績を挙げ、蜀の三大冦を平らげた功がもっとも多かった。
童元鎮――出自と廣西・府江の戦功
- 童元鎮は桂林右衛の人。萬厯中、指揮として平樂の賊である莫天龍の討伐に従って功があり、たびたび遷って逰擊将軍となった。髙江の猺が反すると呼良朋に従ってこれを破り平らげた。永寜・潯梧の参将を歴任し、副總兵に進み、署都督僉事に抜擢されて廣西總兵官となった。ほどなく廣東に改められた。
- 二十三年(1595年)、総督の陳大科が元鎮は蠻の事に通じているとして、ふたたび廣西に移した。
- 岑溪の西北は上下の七山で、蒼・藤の間に介在し、平田・黎峒・白板・九宻など三十七の巣があった。東南は十三山で、孔亮・陀田・桑園・古欖・魚修など百余の巣があり、廣東の羅旁に接し、山は険しく竹藪は深く、数百里を巡って日の光も差さなかった。賊首の潘積善らがここに拠って長く民の患いであった。羅旁が平定されると積善は恐れて降を乞い、大峒に参将を設けて兵千余で戍らせた。
- その後、将領の多くが搾取し、士卒もまた疲弊し弱ったので、賊はふたたび野心を生じて時おり略奪した。おりしも飢饉の年で、粤東の亡命者である浪賊数百人がひそかに七山に入り、諸猺を誘って乱をなした。
- 元鎮は先に参将として岑溪を戍り、諸猺の心を得ていた。ここに至って積善とその党の韋月咸は招撫して自ら功を立てたいと願い出、十三山の諸猺も多くが約束に従った。ところが「北科の猺を剿討する」との流言があり、諸〔猺は動揺した〕。
- 署督撫の陳大科・戴燿が元鎮に討たせた。ちょうど副将の陳璘、参将の吳廣が官を罷めて郷里にいたので、大科が起用して兵を率いさせ、元鎮と並び進ませた。賊は大木を伐って道を塞ぎ、竹の逆茂木を巡らせていた。元鎮は表向き軍を督して道を開かせながら、ひそかに小径から孔亮山に登った。賊は高きに拠って弩の矢を雨のように下したが、諸軍は火器で攻めて大破した。俘馘は千五百有余、残りは招撫して生業に復させた。
- 当時、府江の韋扶仲らもまた険に拠って乱をなしていた。元鎮は参政の陸長庚と謀って猺を募って間諜とし、夜に乗じてその妻子を捕らえ、誘い出したところを伏兵で捕らえた。余党もことごとく平らいだ。元鎮は功によって秩を増され金を賜った。
- 日本が朝鮮を破ると、廷議は浙・閩から海を渡ってその本拠を突き牽制しようとし、元鎮を浙江に改めた。やがてその議は取りやめとなり、貴州に移鎮した。
童元鎮――烏江の大敗
- 二十八年(1600年)、李化龍が楊應龍を大々的に征討し、元鎮に永順・鎮雄・泗城の諸土軍を督して烏江から進ませた。元鎮は應龍を憚り、久しく銅仁に駐まって進まず、たびたび促されてようやく動いた。
- 当時すでに劉綎・呉廣の諸軍は進んでいた。群賊は兵を分けて守ろうと議したが、その党の孫時泰が「兵を分ければ力が薄くなる。官軍がまだ集まらぬうちに、まず弱い者を破れば残りは自ずと退く」と言い、應龍はこれをよしとした。元鎮が烏江を発したと聞くと應龍は喜んで「これは与しやすい」と言い、渡江させておいてひそかに計略で討ち取ろうと謀った。
- 監軍按察使の楊寅秋は「烏江は播を去ること遠くない。諸道が深入りするのを待って共に進むべきだ」と言ったが、元鎮は従わなかった。
- そこで永順の兵がまず烏江を奪った。賊は千余人を遣わして江沿いに罵り叫んで誘い出した。諸軍が渡り終えるとさらに老君闗を奪い、前哨の参将である謝崇爵が勢いに乗じて泗城および水西の兵を督してふたたび河渡闗を抜いた。
- 三月十五日、賊は歩騎数千でまず水西の軍を衝いた。軍中では象を駆り出して戦い、賊は多く傷ついた。にわかに象を御する者が斃れると象は反転して走り、火器を投げる者もまた誤って自軍を撃ち、陣は乱れた。泗城の兵が先に逃げ、崇爵も逃げた。浮橋を争ううちに橋が断れ、殺され溺れ死んだ者は数千人にのぼった。
- 河渡が敗れたのに、烏江とは六十里離れていてまだ知らなかった。翌日、参将の楊顯が永順の兵三百を出して斥候に出したところ、道で数萬の賊に遭遇した。賊はみな水西の装いをしていたので永順の兵は疑わなかった。賊は三百人を掩殺し、またその装いを奪って烏江へ直行した。烏江の軍は水西・永順の軍だと信じて備えず、ついに賊に破られた。争って渡江しようとしたが、賊が先に浮橋を断ったので士卒は多く溺死した。顯とその二子もその中にいた。
- 元鎮の部下三萬人のうち生き残ったのは十分の一もなく、将校は崇爵ら三人だけであった。江の水は流れを止め、貴陽は警報を聞いて住民がことごとく城内に避難し、遠近が震え動いた。
- 化龍は上方の剣で崇爵を斬り、さらに兵を徴し、鎮雄土官の隴澄に檄を飛ばして賊の退路を遮らせた。隴澄は安尭臣・水西の安疆臣の弟である。その軍は元鎮と合流しなかったので独り無事であったが、当局はかえって賊に通じているのではないかと疑った。寅秋は、鎮雄は播を去ること二日の距離であるとして、巣を突いてすぐ功を立てるよう命じ、澄は承諾した。
- 河渡がまだ敗れないうちに、澄はすでに部将の劉岳・王嘉猷を遣わして苦竹闗と半壩嶺を攻め抜いていた。二将が敗れて新站に移ると、賊は大水田に伏兵を置き、別に五千人を出して襲ったので、敗れて還った。嘉猷はそこで大水田を突くと声を揚げながら、ひそかに一軍で大夫闗を抜き、馬坎に直行して賊の退路を断ち、疆臣と合流した。賊はついに遁走した。
- ちょうど都指揮の徐成が兵を率いて至り、泗城土官の岑紹勲の兵と合わせてふたたび河渡闗を克った。賊将の張守欽・袁五受が長箐・萬丈林に拠ったが、永順の兵が撃ち破って守欽を生け捕り、清潭洞を攻めて五受も捕らえた。
- おりしも朝議が元鎮の敗戦の状を責め、李應祥にその軍を併せ率いさせた。そこで水西・鎮雄の諸部を合わせて海龍囤に直行し、ついに賊を滅ぼした。
- 兵が興った当初、元鎮は逗留の罪で為事官に落とされていた。ここに至って京に逮送されて吏に下され、罪は死に当たったが、法司が以前の岑溪の功を援いて瘴癘の地への戍に落とした。恩赦に遇い、廣西巡撫の戴燿が復官を請うたが部議は許さず、ついに戍所で卒した。