明史卷二百四十七 列傳第一百三十五 鄧子龍

出自と江西・湖廣での討賊

  • 鄧子龍は豐城の人。容貌は堂々として、驍勇敏捷なことは比類がなかった。嘉靖中、江西で賊が起こって樟樹鎮を掠めると、子龍は役所の募集に応じて破り平らげ、功を重ねて廣東把總を授けられた。
  • 萬厯の初め、大帥の張元勲に従って巨盗の賴元爵を討ち平らげ、ついで陳金鶯・羅紹清の平定に従った。賊魁の黄髙暉が逃げると、子龍は山に入って生け捕った。銅鼓石守備に遷り、ほどなく署都指揮僉事に抜擢されて浙江都司を掌った。弾劾されて職を奪われるはずであったが、帝は子龍の罪は軽いとした。
  • おりしも麻陽の苗である金道侶らが乱をなしたので、参将に抜擢して討たせ、大いに賊を破ってその党を解散させた。五開衛の兵である胡若盧らが監司の出張所を焼き守備を打ち追い出すと、黎平・守靖州・銅鼓・龍里の諸苗がみな呼応して乱をなした。子龍はその東門を焼いて賊を誘い出し、ひそかに兵を北門から入れ、賊はついに滅んだ。

雲南での対緬戦

  • 十一年(1583年)閏二月、緬甸が雲南を侵し、詔によって子龍を永昌に移した。木邦に属する耿馬の奸人である罕䖍が岳鳳とともに逆をなし、緬の酋である莽應裏に内地侵入を説いた。䖍は従って干崖・南甸を掠め、ついで査理江を渡って姚闗を直撃した。灣甸土知州の景宗真およびその弟の宗材がこれを助けた。子龍は急ぎ攀枝樹の下で戦い、陣中で宗真を斬り、宗材を生け捕った。
  • 䖍の子である招罕・招色は三尖山に奔り、叔父の罕老に蒲人の毒弩の射手五百を率いさせて要害を阻ませた。子龍は金で蒲人を釣り、賊の間道をすべて知ると、裨将の鄧勇らに北勝・蒗渠の諸番の兵を率いて賊の巣をまっすぐ突かせ、あらかじめ山の背後に兵を伏せて挟み撃ちにした。夜半に登り、招罕・招色・罕老およびその一党百三十余人を生け捕り、斬首五百余級。尖山の巣は空になった。そのうえで流れ移った数千人を撫した。
  • おりしも劉綎もまた岳鳳を捕虜にして献じた。帝は喜んで子龍を副總兵に進め、世廕を与えた。
  • ほどなく緬人がふたたび猛宻を侵したが、把總の髙國春が大破した。子龍は犄角の功でやはり手厚く叙された。これより蠻人で先に緬に付いていた者の多くが帰順してきた。

騰・姚両営の対立と兵乱

  • 永昌・騰衝はもとより楽土と称されていたが、岳鳳・罕䖍の猖乱以来、募兵が議されるようになり、募った者の多くは亡命の徒であった。そこで騰衝・姚安の両営を立て、劉綎が騰の軍を率い、子龍が姚の軍を率いたが、両者は相容れず、両軍が闘った。帝は両将ともに功があるとして不問に付した。
  • やがて綎が罷免されて劉天俸が代わり、天俸が逮捕されると子龍が兼ねて統べた。子龍は騰の兵を抑え、工事のたびに酷使し、姚の兵を優遇した。隴川に出兵したときも子龍はことさら差をつけ、牛を割いて士をねぎらうのに姚の兵は騰の兵の倍とした。騰の兵は大いに堪えかねて散り去ろうとしたので、副使の姜忻が他の将に統轄させてようやく収まった。
  • しかし姚の兵は長く驕っており、餉を求めて乱をなし、永昌・大理から会城に至るまで通るところを略奪した。諸兵が挟み撃ちにして八十四級を斬り四百余人を捕らえ、乱はようやく静まった。子龍はこれに坐して官を剥奪され吏に下された。

復帰と丁改十寨の平定

  • 十八年(1590年)、孟養の賊である思箇が叛いたとき、子龍はちょうど取り調べを受けていた。巡撫の呉定が功を立てて自ら罪を贖わせるよう請い、帝はこれを許した。命が届かないうちに、定はすでに黔國公の沐昌祚とともに将を遣わして退けていた。
  • ほどなく丁改十寨の賊である普應春・霸生らが乱をなし、勢いがはなはだ盛んになった。定は漢土の軍を大々的に徴し、子龍をその右に、逰擊の楊威をその左に配して大破し、斬首一千二百級、降を招いた者六千六百人。帝はそのために郊廟に告げ謝し、捷報を宣して賀を受け、子龍を副總兵に復して金山参将の事を代行させた。
  • これより先、猛廣土官の思仁がその兄嫁の甘線姑を犯して妻にしようとしたが果たせず、その一党の丙測とともに叛いて緬に帰し、たびたび導いて侵入した。二十年(1592年)、孟養を攻め蠻莫を犯し、土同知の思紀は等練山に奔った。子龍が撃ち破ると去った。
  • 子龍はほどなく弾劾されて罷免され帰郷した。

露梁での戦死

  • 二十六年(1598年)、朝鮮で用兵となり、詔によってもとの官のまま水軍を率いて陳璘に従い東征した。倭の将が海を渡って逃げようとしたので、璘は子龍に朝鮮統制使の李舜臣とともに水軍千人を督し、三隻の巨艦に乗って前鋒となり、釡山の南海で迎え撃たせた。
  • 子龍はもとより慷慨の人で、年は七十を過ぎてもその意気はますます盛んであった。首功を得ようと急いで壮士二百人を連れて朝鮮の舟に飛び乗り、まっすぐ進んで奮い撃ち、賊の死傷は数知れなかった。他の舟が誤って火器を子龍の舟に投げ入れ、舟中が炎上し、賊がこれに乗じて子龍は戦死した。舜臣は救援に赴いてやはり死んだ。
  • 事が聞こえると都督僉事を贈られ、一子に世廕を与えられ、朝鮮で廟に祀られた。