明史卷二百四十五 列傳第一百三十三 萬燝

字は闇夫、南昌の人(?–1624年)。兵部侍郎萬恭の孫で、萬厯四十四年の進士。刑部主事から工部に転じた。慶陵の造営費に充てるため内府の廃銅を出すよう求めて魏忠賢の怒りを買い、以後その標的となった。楊漣らの弾劾が続くなか抗章して忠賢の専権と自ら営む陵寝まがいの墳墓を弾じたため、廷杖一百のうえ庶民に落とされた。群奄に邸から引き出されて殴打され、杖後さらに蹴り踏まれて四日後に死んだ。忠賢に忤って死んだ士人の先駆けであり、福王のとき忠貞と諡された。

年表(4件)

出自と工部での職務

  • 字は闇夫、南昌の人。兵部侍郎萬恭の孫である。若くして学を好み名行を砥礪した。萬厯四十四年(1616年)進士、刑部主事を授かった。かつて疏で刑獄を論じた。
  • 天啟の初元、兵事が切迫し工部が人材を必要としたので工部営繕主事に転じ、九門の垣墉の修築を督し、江南で銅を買い、いずれもその職に勤めた。虞衡員外郎に遷って鼓鋳を司った。
  • 当時、慶陵の大工事がまだ竣らず費用は莫大であった。燝は内府に廃銅が山積していて鋳造の助けに出せると知り、内官監に牒を移して申し入れたが、魏忠賢は怒って出さなかった。燝はそこで疏を具えて請い、忠賢はいよいよ怒って中旨を藉りて詰責した。燝はまもなく屯田郎中に進んで陵の務めを督した。

魏忠賢弾劾と杖死

  • そのころ忠賢はいよいよ肆で、廷臣の楊漣らが交々撃ってはみな厳旨を被った。燝は憤って抗章して極論した。その大要はこうである。人主には政権があり利権がある。臣下に委ねてはならぬ。まして刑余の寺人にをや。忠賢は性は狡くして貪り、胆は粗くして大きく、口に天憲を銜み手に王爵を握る。好むところには羽毛を生じ、悪むところには瘡痏を成す。子弟に廕すれば一世再世、厮養に賚えば千金万金。士庶を毒し痛めて百余人を斃し、威を搢紳に加えて数十署を空しくした。一切の生殺予奪の権はことごとく忠賢に竊まれている。陛下はなお覚悟されぬのか。しかも忠賢はもと先帝に供事した者で、陛下が忠賢を寵されるのも忠賢がかつて先帝に供事したゆえである。それなのに先帝の陵の工事には少しも念を措かぬ。臣はしばしば銅を請うたが惜しんで与えなかった。先ごろ香山の碧雲寺を過ぎたとき、忠賢が自ら営む墳墓を見た。その規制は宏大で陵寝に擬え、前には生祠を列し、さらに前には仏宇を建て、璇題は日に耀き珠網は星を懸け、費やした金銭は幾百万か。己の墳墓にはかくの如く、先帝の陵寝にはかの如し。誅すに勝えようか。今、忠賢はすでに陛下の権をことごとく竊み、内廷も外朝もただ忠賢あるを知って陛下あるを知らぬ。なお一日も左右に留めておけようか。
  • 疏が入って忠賢は大いに怒り、旨を矯めて廷杖一百のうえ庶民に落とした。執政と言官が救いを論じたがみな聴かれなかった。
  • このとき忠賢は廷臣が交々章を上げて己を弾劾するのを悪みながら憤りを晴らす所がなく、燝を借りて威を立てようと思い、群奄に燝の邸に至って引きずり出して殴らせた。闕下に至ったときには息も絶え絶えで、杖が終わったときには絶えてまた甦った。群奄はさらに肆に蹴り踏み、四日を越えて卒した。時に天啟四年七月七日(1624年)。
  • 忠賢は恨みなおやまず、その罪を羅織して贓賄三百を誣った。燝は廉吏であったので、産を破ってようやく済んだ。崇禎の初め、光禄卿を贈られ一子を官にした。福王のとき忠貞と諡された。

林汝翥

  • 燝が杖死してまもなく、巡城御史で福清の人林汝翥が、かつて内侍の曹進・𫝊國典を笞ったので、忠賢は旨を矯めて燝と同じく汝翥を杖とうとした。汝翥は懼れて遵化に逃げ、自ら巡撫の鄧渼に投じた。渼が奏聞し、ついに杖たれた。汝翥は郷挙から身を起こして沛縣を知り、徐鴻儒が沛を攻めること甚だ急であったが堅く守って落ちなかったので御史に抜擢された。崇禎のとき浙江副使まで仕えた。汝翥は杖を受けたが幸い死ななかった。

丁乾學ら――忠賢に忤って死んだ者たち

  • このとき丁乾學・夏之令・呉裕中・劉鐸・吳懐賢・蘇繼歐・張汶の諸人がみな忠賢に忤って死に至った。
  • 乾學は浙江山隂の人で京師に寄籍し、官は檢討。天啟四年(1624年)、給事中の郝士膏とともに江西の試験を典り、策題を出して忠賢を刺した。忠賢は怒って旨を矯めて三秩を鐫り、さらにその名を除いた。ついで人に校尉を詐称させて逮えに行かせ挫辱し、ついに憤鬱して卒した。崇禎の初め、侍讀學士を贈られた。
  • 之令は光山の人。攸・歙の二縣を知り、徴されて御史を授かった。かつて疏で辺事を論じ、毛文龍は恃むに足りぬと力めて詆った。忠賢は文龍を庇い、旨を伝えて之令の籍を削ったが閣臣が救って免れた。皇城を巡るに及び、内史の馮忠らが法を犯したのを弾劾して治め、いよいよ忠賢に恨まれた。崔呈秀もまた事で之令を恨み、御史の卓邁に「之令は熊廷弼と党比した」と弾劾させ、詔があって削奪された。ついで御史の倪文煥がまた「之令は文龍を計って陥れ、あやうく疆事を誤らせた」と弾劾し、ついに詔獄に逮え下し、贓を坐して拷死した。
  • 裕中は江夏の人。順徳知縣となり、徴されて御史を授かった。大學士の丁紹軾が熊廷弼を陥れて死なせたので、裕中は疏で紹軾を詆った。忠賢は旨を伝えて「裕中は廷弼の姻戚で代わりに讐を報じた」と詰り、廷杖一百、傷が重くて卒した。崇禎の初め、贈と廕を賜わった。
  • 鐸は廬陵の人。刑部郎中から揚州知府となった。忠賢の乱政に憤り、詩を作って僧の扇に書き、「陰霾して国事非なり」の句があった。偵う者がこれを得て忠賢に告げた。倪文煥は揚州の人で、素より鐸を恨んでいたので忠賢を嗾して逮治させた。鐸はかねて忠賢の子の良卿と善く、事は解けて故官に還るのを許された。良卿がくつろいで鐸に「先ごろ錦衣が逮えに行ったとき金をどれほど求めたか」と問い、「三千金だけです」と答えると、良卿は錦衣に返させた。その者は怒って日夜、鐸の隙を伺い、「鐸は獄に繋がれていたとき囚の方震孺と同謀して仲介した」と言い、ついに再び下獄した。ちょうど鐸の家人に夜、醮を行った者があり、参將の張體乾が「鐸が忠賢を呪詛した」と誣い、刑部尚書の薛貞が死罪を坐した。忠賢が誅されると貞と體乾はともに罪に抵った。鐸は太僕少卿を贈られた。
  • 懐賢は休寧の人。国子監生から内閣中書舎人を授かった。同官の傅應星は忠賢の甥だが、懐賢は特別の礼で遇さなかったので應星は恨んだ。楊漣の忠賢弾劾の疏が出ると、懐賢はその上に「韓魏公が任守忠を処した故事のように、ただちに戍に遣るべきだ」と書いた。また工部主事の呉昌期への書に「事は極まれば必ず反す。正に反るは遠からず」の語があった。忠賢はこれを偵知して大いに怒り「何者の小吏が我を謗るか」と言い、旨を矯めて詔獄に下し、汪文言と結納して左光斗・魏大中の鷹犬となったと坐し、拷掠して死なせた。崇禎の初め、工部主事を贈られた。
  • 繼歐は許州の人。元氏・真定・柏鄉を知り、入って吏部稽勲主事となり、累遷して考功郎中となった。文選に調されようとしたとき中旨で「楊漣の私党だ」とされて削籍され帰った。当時、緹騎が四方に出ており、同里の副使孫織錦は素より忠賢に附いていて、人を遣って繼歐を怖がらせ「逮える者が来た」と言った。繼歐は自ら縊れて死んだ。崇禎の初め、太常寺卿を贈られた。
  • 汶は邯鄲の人。尚書張國彦の曽孫である。廕叙によって後軍都督府經歴となった。かつて酒に酔って忠賢を詆り、下獄して拷掠され死んだ。これもまた贈恤を得た。

史論

  • 贊に言う。古来、閹宦が善類に対して心を甘んじたのは漢唐の末より甚だしいものはない。しかしみな倉卒一時の自救の計であった。魏忠賢が諸人を殺したのは、毒焔を揚げてその私を快くし、肆に憚るところがなかった。思うに、主君が荒み政が粃れた末に、公道は淪亡し人心は敗壊し、凶気が寄り集まって群邪が謀を合わせたのである。ゆえに搢紳の禍は前古よりも烈しく、諸人の受けた禍は酷いものであった。