出自と地方での治績
- 字は仲達、江隂の人。萬厯四十四年(1616年)進士、南康推官を授かった。無辜十九人を死から出し、大猾数人を重辟に置いた。士民はその公廉に服して謡を作り「前は林、後は李。清和にこれに比ぶるものなし」と言った。林とは晉江の林學曾で、南京戸部侍郎で卒し清慎で称された者である。
- 九江と南康の間に柯・陳の二大族があり、陳友諒の末裔と伝えられて険を恃み強梗で、かつて捕吏を拒み、有司は兵を用いようと議した。應昇は単騎で赴いて諭し、みな叩頭して命を聴き、匿していた罪人を差し出し、一方はこれで定まった。
時政の弾劾
- 天啟二年(1622年)徴されて御史を授かり、休暇を乞うて帰り、翌年秋に還朝した。当時、天子は闇弱で庶政は怠り弛んでいた。應昇は上疏した。今、遼の地は沈み没し、黔・蜀は兵を用い、紅夷の焔は息まず、西部への賞は日々増え、逃亡兵は畿輔で掠奪し、窮民は催科に死を待っている。逗留が習慣となり大將は敵を畏れて進めず、法紀は崩れ驕兵は騒ぎ立てても問えぬ。至る所で官を増やし日々会議し、覆奏の疏は決まり文句となり、厳旨も空言に等しい。陛下がまず精神を振るい志気を発揚されねば、群臣の誰が怨みを買って情実の世界を破ろうとしようか。祖宗には早・午・晩の三朝があり、なお時に便殿に御して時政を諮問された。願わくは臣の言を納れ、奮って力行されれば天下の事はまだ為し得る、と。報聞となった。
- しばらくして再び時政を陳べた。その大要はこうである。今、天下の弊壊は極まった。君臣が奮い興って力めて図るほかない。陛下が紀綱を振るえば片紙も雷霆の如く、大臣が私曲を捐てれば千里も掌に運び、台諌が糾弾を任ずれば百司が氷を飲む。今は動もすれば官を増やす議が出て、人のために巣を営み、紛々と遷し徙して名実が乖く。登萊に巡撫を増してから百余万を侵冒し、招練監軍を増してさらに十余万を侵冒した。辺関と内地の将領は蟻の如く、軍を剥ぎ饟を侵すこと幾十万か知れぬ。総督を増置しても塞垣に何の補いがあり、京堂を増置しても政事に何の裨益があるか。樞貳を添注しても誰が慷慨して辺を行くか、司空を添注しても誰が拮据して備えを儲えるか、大將を添注しても媒孽を工むばかりで逃亡を縦す。礼部・兵部の司属を二三十人添注しても、誰が辺才を儲え典礼を精しくするか。濫りに辺俸を開けば捷径が灰を燃やして吏治は日々壊れ、白衣が腕まくりし邪人が幕に入れば奸弁が充ち溢れる。臣は聖心から断じて一切を却下されることを請う。
- また言った。今、事が部曹に下されても十のうち九は閣で握り潰される。図典を重ねて申べ将領の罪を明らかに正すべきである。錦衣の旂尉は半ば権要に帰しているので、京営の制のように官を遣って巡視させるべきである。衛官の襲職は勢いに比して厳しくないので旧章を申明し倖進させぬべきである。将校が逃亡兵を蚕食し、招かずに私に乞児を募ってその饟の半ばを分けている。力めて創り懲らすべきである。窮民は敲扑され号哭が庭に満ち、奸吏は侵漁して福堂に安坐している。その法制を厳しくすべきである、と。時に用いられなかった。
- まもなく南京都御史の王永光が部郎の范得志を庇い公論を顛倒したと弾劾し、永光はまもなく自ら引いて去った。
- 天啟四年(1624年)正月、外番・内盗および小人の三患を疏陳し、近習を譏り刺した。魏忠賢はこれを悪んだ。ついで民の隠れた苦しみを疏陳し、急ぎ除くべき十害と急ぎ去るべき五反を言い、帝は担当官を戒飭した。
- 京師が一日に三度地震したときには、聖躬の保護と内操の速やかな停止を疏請した。忠賢は東厰を領して立枷を用いることを好み、重さ三百斤のものもあって数日ならずして死に、前後の死者は六七十人に上った。應昇は罷めるべきだと極言し、忠賢は大いに恨んだ。
魏忠賢・魏廣微への弾劾
- 應昇は忠賢が必ず国を禍いすると知り、密かに疏を草してその十六の罪を列し、上ろうとしたが兄に知られてその疏を奪われ毀られ、怏々として止んだ。
- 楊漣が忠賢を弾劾して厳旨を得ると、應昇は憤ってただちに抗疏を継いだ。その中に言う。従来、奄人の禍は、始めに小忠小信があって主君の心を固く結ばぬものはない。根株が既に深まってから毒手を肆にするのである。今、陛下は明らかにその罪を知りながら曲げて包容される。彼は緩ければ自ら全うする計を図り、急なれば危険に走る謀を為す。蕭牆の間に隠れた禍がないと言えようか。ゆえに忠賢が一日去らねば陛下も一日安からぬ。陛下のために計るなら、忠賢に引退を聴して命を全うさせるに如くはない。忠賢のために計っても、早く自ら身を引いて帷蓋の恩を乞うに如くはない。さもなくば悪が熟し貫が満ちて、他日、首領を保とうとしても得られまい、と。また言う。君側が清まらねばどうしてあの宰相を用いるのか。一時の寵利には尽きる時があるが、千秋の青史は欺き難い。劉健・謝遷とならぬことを欲するなら、あわせて李東陽ともなれぬ。もし策を画して歓を投ずるなら、焦芳と同じ伝に入るのに等しかろう、と。
- そのころ魏廣微が忠賢と深く結んでその謀主となっていたが、應昇が己を譏ったと知って大いに恨んだ。
- 萬燝が死ぬと、應昇は廷杖を再びすべきでない、士気を折るべきでないと極言し、忠賢らを鋭く譏った。さらに髙攀龍に代わって崔呈秀を弾劾する疏を草し、呈秀は窮して夜更けに門を叩き長跪して哀を乞うたが、應昇は正色して固く拒み、呈秀は怒りを含んで去った。
- 十月朔、帝が廟享して暦を頒つとき、廣微が遅れて来て魏大中らに糾された。廣微は恚って疏で言者を詆った。應昇はまた抗疏して論じ、さらに言った。「廣微の父の允貞は言官として輔臣に罪を得て去り、その名声は今に至っている。廣微はどうして言官を路傍の馬に比して『此輩』と斥けるのか。そもそも此輩と伍せぬ者は、必ず別の一輩と縁を結ぶのである。陛下は廣微を戒諭して、退いて父の書を読みその家声を保ち、三窟を恃んで言官と難を為さぬようにさせられたい。他日そうしてこそ地下の父に見えられよう」。廣微はいよいよ怒り、忠賢に謀って秩を削ろうとしたが、首輔の韓爌が力めて救い、禄一年を奪われるにとどまった。
- その月、趙南星らがことごとく逐われ、朝事は大いに変わった。翌年三月(1625年)、工部主事の曹欽程が、應昇は東林を護法していると弾劾し、ついに削籍された。
- 忠賢の恨みはやまず、天啟六年三月(1626年)、李實が周起元を弾劾する疏に藉けて應昇の名を入れ、ついに逮えて詔獄に下し、酷しく掠って贓三千を坐した。ついで閏六月二日にこれを斃した。年はわずか三十四。崇禎の初め、太僕卿を贈られ一子を録した。福王のとき忠毅と追諡された。