明史卷二百四十五 列傳第一百三十三 黄尊素

字は真長、餘姚の人(?–1626年、年四十三)。萬厯四十四年の進士で、寧國推官から御史に抜擢された。天変を機に時政の十失を陳べ、楊漣に続いて魏忠賢を弾劾し、萬燝の杖死に際しては廷杖という手段そのものの弊を論じた。東林の中でもとりわけ識見の深い人物とされ、楊漣の弾劾や魏大中の魏廣微弾劾を先の危険を見越して諌めたが、いずれも容れられなかった。汪文言の獄を解いたことを忠賢に恨まれ、李實の空印の疏に名を入れられて詔獄に下り、拷問のすえ死んだ。福王のとき忠端と追諡された。

年表(9件)

出自と天啟初年の言事

  • 字は真長、餘姚の人。萬厯四十四年(1616年)進士、寧國推官に任ぜられ、精敏で強く執った。
  • 天啟二年(1622年)御史に抜擢され、休暇を乞うて帰り、翌年冬に還朝した。余懋衡・曹於汴・劉宗周・周洪謨・王紀・鄒元標・馮從吾の召還を疏請し、尚書の趙秉忠、侍郎の牛應元、通政の丁啟睿の頑鈍を弾劾した。秉忠と應元はともに引いて去った。
  • 山東の妖賊が平定された後も余党がまた煽動したが、巡撫の王惟儉は撫馭できなかった。尊素は疏で論じ、あわせて、巡撫はもと内外から兼ね用いるものなのに今はもっぱら京卿を用いている、外に歴任して習熟した者には及ばぬ、と言った。
  • また幾度も辺事を陳べ、大將の馬世龍を力めて詆って、樞輔の孫承宗の意に忤った。
  • 当時、帝は在位数年、いまだ一度も大臣を召見しなかった。尊素は便殿で召対する故事を復して面と向かって大政を決するよう請い、そうでなければ講筵の余暇に大臣に面商させて可否を決めるよう請うたが、帝は用いることができなかった。
  • 天啟四年(1624年)二月、大風が砂を揚げて昼も暗く、天鼓が鳴ることこのようにして十日。三月朔に京師が三たび地震し、乾清宮がとりわけ甚だしかった。ちょうど帝の体調も優れず人情は惶懼した。尊素は時政の十失を力陳し、末尾に言った。陛下が言官を厭い薄んじられるので人は忌諱を懐き、皮毛を剽窃するばかりで中扃を犯す者がない。今、阿保は趙嬈より重く、禁旅は唐末に近く、蕭牆の憂いは敵国より惨い。廷に謀を巡らす者なく辺に折衝する者なく、国に当たる者は安危の機に昧く、国を誤る者は恥敗の局を庇う。ここで賢を進め不肖を退けず、かえって剛方正直の士を仇のように疾む。陛下ひとり社稷のために計られぬのか、と。
  • 疏が入り魏忠賢は大いに怒って廷杖を議したが、韓爌が力めて救い、俸一年を奪われるにとどまった。

魏忠賢弾劾と萬燝の死

  • やがて楊漣が忠賢を弾劾して叱責の旨を受けると、尊素は憤って抗疏を継いだ。その大要はこうである。天下に、政が近倖に帰し威福が傍らに移りながら、なお世界が清明であった例があろうか。天下に、中外が騒然としてその肉を食らわんとせぬ者がないのに、なお左右に置いておける者があろうか。陛下は必ず「小心で用いるに足る」と思われようが、小さく謹まぬ者は大きく憚らぬということをご存じない。必ず「われが駕馭できる」と思われようが、駕馭できなくなれば収拾がつかぬことをご存じない。陛下が即位されて以来、公卿・台諌が次々に政を罷められ、在位の者に固い志がなくなった。ここで孤立と言わずして、一近侍を去ることを孤立と言われるのか。今、忠賢の不法の状は廷臣がすでに余すところなく暴いた。陛下がもし早く断ぜられねば、彼は形をあらわし勢い窮まって何を憚ろう。忠賢は必ず既に放った手綱を収めて腸胃を浄めることを肯んぜず、忠賢の私人も必ず既に往った棹を回して氷山を黙って消すことを肯んぜぬ。初めは士大夫を讐とし、続いては至尊を賭の元手とするであろう。柴柵が固まり毒針が備われば誰にも手が出せぬ。台諌が折るだけでは足りず、干戈で取ることさえ難くなる。忠賢は疏を得ていよいよ恨んだ。
  • 萬燝がすでに廷杖され、さらに御史の林汝翥をも杖とうとしたとき、諸言官が内閣に詣って争った。小璫数百人が閣中に押し入り、腕まくりして肆に罵り、諸閣臣は俯いて物も言えなかった。尊素は厲声で「内閣は絲綸の地である。司禮といえども詔を奉ぜねば至れぬ。汝ら、無礼もここに至るか」と言い、彼らはようやく散じた。
  • まもなく燝は傷が重く卒した。尊素は上言した。律例では叛逆十悪でなければ死の法はない。今、肝を披き胆を瀝ぐ忠臣が、牙を磨き歯を礪ぐ兇豎に殞された。この輩は必ず欣々として「我らは天子の威柄を借りて百僚を鞭打てる」と言い合おう。後世、董狐の筆を秉り朱子の綱目を継ぐ者があれば「某月某日、郎中萬燝、言事によって廷杖され死す」と書こう。上、聖徳を累わさぬであろうか。廷杖の説を進める者は必ず祖制だと言うが、二正の世に王振・劉瑾がこれを為し、世祖・神宗の朝に張璁・嚴嵩・張居正がこれを為したことを知らぬのである。奸人が思うままに振る舞おうとして忠臣義士に肘を掣かれるのを憚ると、必ず廷杖を借りて私を快くする。人主に拒諌の名を蒙らせ、己は権に乗ずる実を受け、仁賢には蔓を抱く形が生ずる。そこで為したい放題となり顧み憚るところがなくなり、禍はそのまま国家に移る。燝はもはや已んだが、士を辱め士を殺す風を開いてはならぬ。故官に復し格を破って恤を賜わり、遺孤が柩を扶けて郷に還れるようにしていただきたい。燝は死しても朽ちぬ、と。疏が入っていよいよ忠賢の意に忤った。
  • 八月、河南が玉璽を進めた。忠賢はその事を大げさにしようと、大明門から進めて璽を受ける礼を行い、百僚が表を上げて賀するよう命じた。尊素は上言した。昔、宋の哲宗が璽を得たとき蔡確らが競って祥瑞と言い元符と改元したが、宋の祚はついに振るわなかった。本朝の𢎞治のとき陝西が玉璽を献じたが、ただ取り進めて賞五金を給しただけである。これが祖宗の故事でありこれに従うべきだ、と。事は中止となった。
  • 天啟五年(1625年)春、陝西の茶馬を視るよう遣わされた。都を出たばかりのころ、逆党の曹欽程が、専ら善類を撃ち髙攀龍・魏大中の虐燄を助けたと弾劾し、ついに削籍された。

先見の助言

  • 尊素は謇諤で敢えて言い、とりわけ深い識見と遠慮があった。台に入った初め、鄒元標が実際に引き立ててくれたのだが、ただちに規諌して「都門は講学の地ではない。徐文貞(徐階)がすでに前に議を招いている」と言った。元標は用いることができなかった。
  • 楊漣が忠賢を撃とうとしたとき、魏大中がこれを尊素に告げた。尊素は「君側を除くには必ず内の援けがいる。楊公にそれがあるか。一たび中らねば我らは生き残る者がなくなる」と言った。萬燝が死ぬと尊素は漣に去るよう諷したが、漣は従わず、ついに禍に遭った。
  • 大中が魏廣微を弾劾しようとしたとき、尊素は「廣微は小人で恥を包む者だ。急に攻めれば身を挺して危険に走る」と言った。大中は従わず、廣微はいよいよ忠賢と結んで大難を興した。
  • このころ東林は朝に満ちていたが、自ら郷里によって朋党を分けていた。江西の章允儒・陳良訓が大中と隙があり、また大中が尚書南師仲の恤典を却下しようとすると秦(陝西)の人も多く悦ばなかった。尊素は急ぎ大中に言って止めさせた。最後に山西の尹同臯・潘雲翼が座主の郭尚友を山西巡撫に用いようとしたが、大中は尚友がしばしば朝の貴人に贈り物をしていることを理由に不可とした。尊素は杜征南(杜預)がしばしば洛中の貴要に贈り物をした故事を引いて説いたが、大中はついに聴かず、謝應祥を用いる議から難端が起こった。

獄死

  • 汪文言が初めて下獄したとき、忠賢はただちに諸人を羅織しようとしたが、尊素に解かれたと知って甚だ恨んだ。その党もまた尊素が智慮に富むので殺そうとした。ちょうど呉中に「尊素は楊一清が劉瑾を誅した先例に倣おうとし、李實を張永に見立てて秘計を授けた」という訛言が立った。忠賢は大いに懼れ、事を探る者を呉中に遣ること凡そ四度。侍郎の烏程の人沈演が家居していて忠賢に「事に跡があります」と奏記した。そこで日々使を遣って叱責し、實の空印の白紙の疏を取って尊素ら七人の姓名を入れ、ついに逮えられた。
  • 使者が蘇州に至ったとき、ちょうど城中で周順昌を逮える旂尉を撃ち殺したところで、城外の人もまた尊素を逮えに来た者を撃った。逮える者は駕帖を失って敢えて来られなかった。尊素は聞くとただちに囚服して吏に出頭し、自ら詔獄に投じた。許顯純・崔應元の拷掠は備さに至り、贓二千八百を課して五日ごとに追徴した。獄卒が己を害そうとしていると知ると、叩首して君父に謝し、詩一章を賦して死んだ。時に天啟六年閏六月朔日(1626年)、年四十三。崇禎の初め、太僕卿を贈られ一子を廕した。福王のとき忠端と追諡された。