篇首の立伝者一覧
- 滿朝薦
- 江秉謙
- 候震𤾉(附: 倪思輝、朱欽相、王心)
- 王允成(附: 李希孔、毛士龍)
出自と咸寧知縣時代
- 滿朝薦は字を震東といい、麻陽の人。萬厯三十二年(1604年)の進士で、咸寧の知縣に任じられ、清廉で有能との評判を得た。
- 稅監の梁永が配下を放って諸生の荷物を奪わせたため、朝薦はその者たちを捕らえて処罰した。永は怒り、税役に勝手に刑を加えたと弾劾し、詔によって朝薦は一階級を落とされた。大學士の沈鯉らが救済を論じたが聞き入れられなかった。
- のちに巡撫の顧其志が梁永の貪欲・残虐ぶりを厳しく論じたので、朝薦の官はもとに復されたが、一年分の俸給を没収された。
稅監梁永との抗争
- ほどなく梁永が人を遣わして廵按御史の余懋衡を毒殺しようとした。事が発覚し、朝薦がその実行者を捕らえた。永は恐れて手下を率い、甲冑を着けたまま縣の庁舎に押し入ったが、吏卒があらかじめ備えていたので何も奪えずに去った。
- 城中では数夜にわたって「梁永が反乱を起こした」との噂が飛び交った。ある者が永に身の潔白を明らかにするよう勧め、永は布告を出して謀反ではないと弁明した。しかし甲冑を蓄えた者が数百人おり、朝薦は懋衡を助けて追及を急いだので、悪党の多くは逃亡した。朝薦が渭南まで追撃し、かなりの者を打ち傷つけた。
- 永は恐れ、使者の髪の中に書状を隠して都へ送り、「朝薦が上供の物品を奪い、数人を殺して死体を河に投げ込んだ」と訴えた。帝は激怒し、ただちに使者を派遣して逮捕・取り調べを命じた。三十五年(1607年)七月のことである。
- 都に着くと詔獄に下されて拷問を受け、そのまま長く拘禁された。朝廷内外から救済を求める上奏があり、大學士の朱賡以下、百十通に及んだ。最後に四十一年(1613年)秋、萬夀節が近づいたのを機に大學士葉向高の請いによって、王邦才・卞孔時とともに釈放され帰郷を許された。
天啟朝の言論
- 光宗が即位すると南京刑部郎中に起用され、さらに尚寶卿へ遷った。
- 天啟二年(1622年)、遼東の地がすべて失われ、国内に事件が多発しているにもかかわらず、朝廷の臣は党派を植えつけ浮ついた議論をふりまわしていた。朝薦はこれを深く憂い、時事について「十の憂うべきこと、七の怪しむべきこと」を列挙して上奏した。言葉はきわめて切迫していた。
- まもなく太僕少卿に進み、あらためて上疏した。その趣旨は次のとおりである。
「顛倒」を論ずる上疏
- 近ごろ、砂塵まじりの風で空が暗く閉ざされ、星や月が昼に見え、太白(金星)が天を横切り、四月に雹が降り、六月に氷が張り、山東で地震が起こり、京畿一帯で長雨と洪水が続いた。天地の異変はきわまっている。
- 四川では奢崇明が叛き、貴州では安邦彦が叛き、山東では徐鴻儒が乱を起こした。人の異変もきわまっている。それなのに朝廷の政令は日ごとに顛倒がひどくなる、と述べる。
- 一つは官の引退のこと。周嘉謨・劉一燝という顧命の元老は讒言によって去り、孫慎行という礼を守る宗伯(禮部尚書)は封典の議で去り、王紀という法を執ること山の如き司寇(刑部尚書)は冤罪の平反で去った。そのいずれにも顧慮を払わず、三十通の上疏で弾劾された沈㴶にだけは、去ったあともなお格別の待遇を加えている。祖宗の朝にこのような顛倒があっただろうか。
- 一つは建言のこと。倪思輝・朱欽相らの官籍剥奪はすでに口を封じる嘆きを招き、周朝瑞・恵世揚らが袖を払って去ったのも一網打尽の計にはまったものだ。祖宗の朝にこのような顛倒があっただろうか。
- 一つは辺境の策のこと。西方の部族が百萬の資金を要求すると、辺臣はまだ満腹しないのではと心配する。ところが兵士がわずかな給与を求めれば、度支(戸部)はぜいたくがすぎるという。祖宗の朝にこのような顛倒があっただろうか。
- 一つは城を棄てた罪のこと。長年かけて罪状の確定した者は、庇護が厚いからと処断を先送りにされ、十日ばかりで疑わしいとされた者は、妬みが深いからと厳しく責め立てられる。祖宗の朝にこのような顛倒があっただろうか。
- 一つは奸細(内通者)の摘発のこと。罪を正すには常の法があり、冤罪を晴らすのにもともと濫用の条文はない。遼陽の禍は袁應泰が降人を大量に受け入れたことに起因する。降人が住民の婦女をことごとく奪ったため、遼の民が憤って敵を招き入れ城を攻めたのであって、事は突然に起こったのであり、誰かが城を献じ送ったなどという話は聞かない。廣寧の変は王化貞が西方の部族を誤って信じ、軍餉の金を取って挿漢に食わせ、兵卒には支給しなかったため人心が離散したことに起因する。敵兵が河を渡っても西部が援護に動いたとは聞かない。そこで手足の措きどころを失い、頭を抱えて鼠のように逃げ散った。これも事が突然に起こったのであり、誰かが献じ送ったという話は聞かない。奸細を深追いするのは、化貞の罪を肩代わりさせる口実にすぎない。王紀は人を殺して人に媚びることを望まなかったばかりに、かえって官籍を削られた。祖宗の朝にこのような顛倒があっただろうか。
- 閣臣の職務は清らかな世論を主導することにある。ところが今、才ある者を妬み政治を壊すような章疏が出ても、退けないばかりか、軽ければどっちつかずに扱い、重ければその言のとおりに実行してしまう。奸を討ち国に報いようとする章疏には、受け入れないばかりか、軽ければ譲歩を迫り、重ければ次々に罷免や処罰を加える。
- とりわけ恨むべきは、沈㴶が盧受に賄賂して昇進し、受が失脚するとまた跋扈する宦官と結んで威勢を立てたことである。王振・劉瑾が国を裂いた禍は、みな㴶がその先例をつくったものなのに、流刑にすら処されていない。
- また外戚については、なぜ検束しないのか。宦官の讒言によってその三人の僕を死なせるほどのことになったのはなぜか。三宮にはそれぞれ定まった尊卑があるのに、国を傾ける寵愛が母儀の位を僭して脅かすに至ったのはなぜか。これらこそ顛倒の最たるものである。
- しかもこれらが陛下によって成ったのは十のうち一、二であり、政務にあたる大臣によって成ったのが十のうち八、九である。臣はまことに神州が沈み行くのを見るに忍びない。どうか臣の上疏と閣部の大臣とを最後まで御覧のうえ、方針を改めてすべて祖宗の旧来の規範に戻していただきたい。そうなれば、たとえ臣が逄干に従って地下に行こうとも、生きているのと同じである、と結んだ。
- 上奏されると、魏忠賢は帝の怒りをかき立て、詔を下して厳しく責め、官を剥奪して庶民とした。大學士の葉向高がきわめて力を入れて救おうとしたが、帝は容れなかった。
- のち忠賢の一党が『東林同志録』を編むと、朝薦もそこに載せられ、ついに再任されなかった。崇禎二年(1629年)に推薦されてもとの官に起用されたが、赴任しないうちに死去した。